―私、もしかして不妊...?ー

結婚相談所に助けられながら、気が遠くなるほど壮絶な婚活を経て、晴れて結婚ゴールインを果たした女・杏子。

一風変わったファットで温和な夫・松本タケシ(マツタケ)と平和な結婚生活を送り、はや2年。

34歳になった彼女は、キャリアも美貌もさらに磨きがかかり、順風満帆な人生を歩む一方、心の隅に一抹の不安を抱え始めていた。




―この私が、不妊...?まさか、そんなワケ......。

ここ数日、杏子は夫のマツタケが寝静まると、その隣で布団に潜り込み、暗闇の中でスマホを凝視し続けていた。

これまでは「たまたまデキないのかも?」なんて心の隅に漠然とした思いを抱えていただけであったが、一度“不妊”について調べ始めてしまうと、膨大な情報が次々に飛び込んでくる。

そもそも“不妊”の定義というのは、通常の夫婦生活を送っているのに1年以上妊娠しない状態を指すらしい。

また最近では、タイミングを狙って半年以上妊娠しなければ早めに検査を、という意見も多いそうだ。

そんな事実を認識するたび、杏子の心にはヒヤヒヤと焦りが募る。

結婚から2年。“妊活アプリ”的なモノで生理を記録するようになってからも、余裕で1年以上経過している。

かと言って「この日!」とガッツリ排卵日を定めて行為に及んでいた訳でもないため、杏子はそれほど事態を深刻に捉えてはいなかった。

―病院に、行ってみるべきなの...?

その必要性を薄々感じながらも、心がそれを否定する。

というのも、杏子がこの世で絶対的に恐れるものの一つが、その“病院”であったからだ。

大人げないといくら笑われようとも、杏子は幼い頃から、大の病院嫌いだった。


病院嫌いな上、自分が“不妊”とは思えない杏子だが...?


「不妊」なんて、認めたくない


杏子は、健康面にはちょっとした自信があった。

いくら仕事が多忙であっても、ジム通いはもちろん、30分でも暇があればランニングで汗を流したし、就寝前や目覚めにヨガで身体をほぐす習慣も身についている。

外資系証券会社のセールスは、心身ともにタフでなければ生き残れないため、それなりに体を鍛えるのは基本中の基本である。体が健康であれば、メンタルも自ずと強くいられるものだ。

社会人3年目くらいまでは仕事上の付き合いでそこそこ酒量が多くなった時期もあったが、食事にしたって、基本は野菜・ビタミン・タンパク質をバランスよく摂れるように常に心がけている。

毎年嫌々通っている健康診断もオールA判定な上に、新卒の頃から体重だって全く変わっていない。

そんな自分が「妊娠しにくい体質」だと認めるのも、かなり抵抗があった。




―誰にも、会わないわよね...。

だが数日後、杏子は巨大なマスクで顔を覆い、コソコソと婦人科へ足を運んでいた。

毎晩暗闇の中、一人でスマホと睨めっこして悶々とするくらいなら、一度診察し、とりあえず今の状態や原因を把握すればいいと思い直したのだ。

排卵日等をチェックしてもらい、ちょっとした投薬や生活指導をしてもらえば、きっとすぐに妊娠できる。通院は決意したものの、杏子の考えは楽天的だった。

それに色々と調べた結果、会社からそう遠くない場所に都内一と言われる不妊外来があるとの情報をインターネットで得た。

杏子は「歯医者へ行く」と上司に伝え、内心ビクビクしながらもシレッとオフィスを出る。時刻は11時少し前。ランチがてらと思えば、多少長く外出しても問題ないだろう。

いつもとことん真面目に仕事をこなしている杏子に、上司は何ら疑問も持たずに「はいよ」と小さく返事をしただけだった。幸い、今日は会議や外出の予定はない。

―ここね...。

こじんまりとしたオフィスのような建物に足を踏み入れると、杏子は目の前の光景にまず面食らってしまった。

無機質で清潔感のある独特な雰囲気は通常の病院と何ら変わらないが、待合室のソファに鮨詰め状態で座っているのは、とにかく女、女、女。

この女たち全員が、自分と同じような思い...いや、もっと深刻な事情を抱えているかと思うと、杏子は妙な緊張感に包まれる。

「松本さーん、松本きょうこさーん」

端の席にちょこんと腰を下ろしたのも束の間、すぐに名前を呼ばれ、慌てて看護婦の元に駆け寄った。

「松本さんは初診ですね。まずは採血になります」

「あ、はい...」

「では、チクっとしますよ〜」

看護婦に注射針をプスっと刺されたとき、軽い目眩がした。

急いで首を180℃後ろに回転させ、マツタケのプニプニした頰やお腹を頭に思い浮かべて必死に気を紛らわせる。

そして、受け取った問診票とともにフラフラ待合室に戻ったものの、次に杏子の名前が呼ばれたのは、それから1時間以上も経過したあとだった。


診察室で目にした、驚愕の光景とは...?!


長すぎる待ち時間。募る苛立ち


「あ、あの......すみません。私、今日11時に予約を入れたんですけど、診察はまだですか?」

時刻はもう12時を余裕で回っていた。

院内は混雑しているが、予約を入れているにも関わらず、さすがに待たされ過ぎである。杏子は順番が飛ばされたのではないかと、次第に苛立ちを感じていた。

「松本さん...ですね。30分以内には呼ばれるとは思うのですが。午前は混雑しておりますので」

受付の女性は、顔色一つ変えずにモニターを見て言った。

「じゃあ、診察を終えて病院を出るまでには、だいたいどのくらい時間がかかりますか?」

「そうですね...早くて1時間くらいでしょうか」

杏子は顔を引きつらせながら、力なくソファに戻る。

―どうして私が、こんなに待たされるのよ...?!

会社用のスマホを見る限り時間はまだ大丈夫そうだが、心はすでにソワソワと落ち着かない。

こんなことならPCを持って来るべきだったと激しく後悔していると、案の定、膝の上にPCを乗せキーボードをカタカタ打つ女性を何人も発見した。




「松本さん、診察室へどうぞ」

やっと名前を呼ばれたとき、杏子のイライラボルテージはほぼMAX状態に達していた。都内一の不妊外来だか何だか知らないが、さすがに患者を馬鹿にしているのではなかろうか。

しかし、嫌味の一つでも投げてやろうと鼻息荒く診察室に進んだ杏子は、思わず絶句した。

「医師の藤木です」

「な、な、な.......?」

そこには、白衣を着た直人の姿があったのだ。結婚相談所でスパルタ指導を散々自分に施した、あの鬼のような男である。

「松本さんは...あぁ、2年間ご妊娠されないんですね。血液検査に問題はないので、次は内診に...」

「え、ちょ、ちょっと...」

思わず前のめりになった杏子を、藤木は冷たい無表情でジロリと一瞥した。その表情もやはり直人そのものだが、しかし、彼が突然医者になるわけもない。

「あの...先生って、ご兄弟はいらっしゃいますか...」

動揺のあまり、あまりに素っ頓狂な言葉が口から溢れる。

すると藤木は、その無駄に整った顔を歪め、あからさまな苛立ちを見せ、杏子のセリフを完全無視した。

「松本さんは、すぐに妊娠をご希望ですね。状況的に、おそらく今後は治療が必要となるので...」

「え?治療?最初は、正確な排卵日とかをチェックしてもらえるんですよね?私、自然妊娠を希望なんですけど」

反射的に答えた瞬間、室内の空気がガラリと変わった。藤木の横に待機する看護師が、心なしかオロオロしているように見える。

「...松本さんは、当院の説明会に参加していないんですか?」

「説明会?出てませんけど...」

「次の診察までに必ず出席してください。では、内診にうつります」

藤木はこちらを睨むように見据えながら、有無を言わさぬ口調で告げた。

だが、杏子は初診である。不妊についての知識もまだ乏しいのだから、医師は患者への説明義務があるはずだ。

「だから......今日の内診で、だいたいの排卵日は教えてもらえるのかって聞いてるんですけど?」

売られた喧嘩を買うように杏子が畳み掛けると、藤木は一瞬の沈黙後、ワザとらしく大きな溜息をついた。

「では、申し上げましょう。排卵日はお伝えできますが、正直、2年間自然妊娠しなかった場合、タイミング法で授かる可能性は極めて低いです。

体外受精も視野に入れてください」

―た、たいがい、じゅせい?私が...?

さすがにそこまでは...と、まるで他人事であった高度生殖医療。

そんなワードが自分の身に降りかかるなんて、杏子は微塵も考えていなかった。

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スパルタ病院に憤慨する、相変わらずの杏子。転院を検討するが...?