まだ風聞で耳にしただけなのですが、光栄なことに早稲田大学の入学試験問題文として私の文章を使ってくださったようで、身に余ることと思います。

 ここ10年ほど毎年あちこちの学校で出題され、教科書などにも所収していただいたりもして、およそ教科書的でも模範的でもない本人と無関係に、拙文だけが一人歩きするのを申し訳ないように思っていました。

 ついに早稲田ですか・・・。ますますもって、まともな文章を書かねばなりませんね。

 毎週の連載、誤変換そのまま、みたいな原稿もありますので、気をつけねばと改めて思っています。

[JBpressの今日の記事(トップページ)へ]

入試に投じたい一石

 以前から散発的に書いてきたことですが、日本における入学試験、海外のそれとの違い、実際に出題される問題に即して、散発的なシリーズとして物事を考えるということをしてみたいと思います。

 一般に大学教員は入試について発言しません。厳密な守秘の義務を課せられているからで、それ自体は私とて同様のことです。

 その範囲を守りながら、でもこうした原稿を記してみたいと思うのは、出題者を含め「入試に問われる学力とは何か?」を考えるうえで、一石を投じたいという思いがあってのことでもあります。

 また、SNSで「早稲田から連絡がありましたか?」といったご質問もいただきましたが、当然そういうことは(まだ)ありません。

 事前に出題が知れれば、それは「漏洩」といって、そうとう香ばしい事態になります(苦笑)。当然ながら、全く存ぜず、寝耳に水のことでありました。

 早稲田大学はこんなサイト(参照=https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/)で、過去の問題を公開しているようですから、いずれ著作権許諾の問い合わせがやってくるのだろうと思います。

 ざっと見てみましたが、鶴見俊輔、前田英樹といった碩学の文章が並ぶなか、俺なんぞの作文が載ってていいのかしら というのが率直なところでありますが(苦笑)。

 出題する側が、問題について逆に論じるというケースは非常に少ないと思うので、問題が公開され入手できた暁には、逆評定ではありませんが、それを陽に扱うコラムを書いてみようと思っています。例えば、

*「大学入試で国語を出題する」とはいかなることか?
*本当に求められる言語の力とは どのようなものか?
*近年軽視される一方の「文学なるもの」は人類にとっていかに大切か?

 といった根本的な問題を考えてみたいと思っています。

 ちなみに、こういうことから考え、出題側から物事を眺めるようになると、国語に限らずほとんどの記述式問題で、満点とは言いませんが8割以下の成績を取るのは困難になります。

放し飼いタイプは伸びやすい

 いわゆる「進学校」や「よくできる生徒」には2通りあり、

A 出題パターンを膨大に暗記してくる努力家タイプの生徒や、そういうカリキュラムを実施する学校と、

B スポーツや課外活動その他いろいろやっていて成績も落ちない生徒や、およそ受験指導をしないのに進学率はそこそこ以上をキープする古くからの学校

 に大別して外れません。このBのタイプのポイント、コツが、筋よく本質的な要点を押さえており、「練習問題の海におぼれながら足掻くようにガリベンする」的なことをせずともハードルを越える期待が高くなります。

 私はこの後者を推奨します。

 なぜかと言うと、前者の勉強の多くは、しばらく経つと抜けてしまうからです。ガリ勉が過ぎた学生は往々にして大学に入って以降、気が抜けて勉強しない大人になりやすい。そして何より、要点を押さえたうえで徹底したガリ勉を自らに課す、 A+Bタイプの「自ら調べ自ら学ぶ」タイプの人材が、社会に出てからの活躍を最も期待でききるからです。

 人材は「放し飼いタイプ」の方が、実は伸びやすい。

 そんな観点から今回は「入試で国語を問うとはいかなることか?」の入り口を考えてみたいと思います。

商用原稿の極意

 入試で問う「国語能力」の本質は「客観性」あるいは「客観的妥当性」にある、と思っています。

 これについて、社会で通用する国語能力の一例を具体的に挙げてお話してみましょう。

 私自身が学生時代から社会に出て40歳過ぎまでに経験した「文章修行」を例に考えて見ます。

 音楽屋の私が2005年に開高健賞というものをもらってから、商用の原稿依頼をコンスタントにいただくようになりました。

 でも実は最初に本を書いたのは21〜22歳の頃で、学生アルバイトとして雑誌や書籍の編集に携わり、自分でも原稿を書かせてもらいました。

 私の最初の本は洋泉社「クラシックの快楽」という共著のアンソロジーで52刷くらいまで出たロングセラーになりました。

 最初に本ができたときは嬉しかったですね。並行して武満徹監修「今日の音楽」という国際音楽誌の編集にも携わり、こうしたバイト経験は後々の私の仕事を支えるものになったと思います。

 この「クラシックの快楽」、子供の頃から幼稚な文章自慢の傾向があった大学生の私は、プロの編集者であるA出版企画のAさんに、一言一句真っ赤に直されて、初めて売り物になる本の原稿になる、という経験をしました。

 ちなみに人生で次にまっかっか、一言一句の添削を受けたのは25、26歳の頃でした。

 添削してくださったのは、大学院時代、理学系研究科物理学専攻の修士論文を、指導教官である大塚洋一先生でした。一言一句、徹底して真っ赤に直していただきました。

 私の修士論文は「金属微粒子の電子分光」というもので、テクニカル・ペーパーとして客観的に妥当な内容を、過不足一切なく記すことで論文として成立します。

 文系理系問わず、大学入試で「国語」を問う最大の理由はここにあると思います。

 すなわち、誰がどう読んでも客観的に間違いようがない、正確な意味の伝達と解釈の共有が成立する、客観的に妥当な日本語を「読めるか?」「書けるか?」また「話せるか?」が問われている。

 昨今、英語や国語で<これはどうやって答えたらいいのだろう?>式に疑問を持たれる出題の大半は、実はこれに関することを訊いていると思いますが、これについては別稿を準備したいと思います。

 ちなみに、その次に一言一句、これは「真っ赤に添削」ではなく、細かく検討せざるを得なくなったのは40〜41歳にかけて「開高健賞」を受ける過程でした。

 編集担当された集英社の中村信一郎(故人)さんと、原稿を5回くらいまるまる書き直すという経験をしました。

 「さよなら、サイレント・ネイビー」(2006)がその仕事です。

 商用の原稿、特に書籍になるもので、文学賞受賞作品として喧伝されるものには、ありとあらゆる角度から、異なる「他人の目」でのチェックが必要、そうでなければ世の中に出せない、という職業人の厳しい検討を学びました。

 開高賞はノンフィクションを対象とするため、取材先の了解や個人情報の取り扱いなどに厳しいチェックポイントが無数に存在します。さらに、時事の問題を扱うような場合は、様々なクレームも想定せねばなりません。

 突然、右翼の街宣車が社屋の前に乗りつけて、大音量で抗議行動、ということも、大手の多くの出版社はまず100%経験済みですので、そういった問題を回避するべく、「プロとして通用する原稿をコンスタントに産出するための具体的なノウハウ」を、約11か月にわたって指導していただきました。

 41歳になってからコンスタントに月産何百枚か、年間何千枚か、この約12年間に40冊以上の本を上梓させてもらっています。

 ここで重要と思うのは、美文とか名文とか中途半端にナルシスティックに考えるのではなく、複数の他者の立場に立って自分自身がこれから書き下ろすであろうテクストを、冷静客観的に見つめることができる、落ち着いた大人の分別だと思うのです。

 ここで「放し飼いタイプ」が伸びるという前半の話がつながってきます。

 何をどのように考えてもいい。自由に発想して大いに結構。しかし、それが第三者にきちんと通じる、客観的な妥当性をもっていなければ、独りよがり、ないし誰にも通じない遠吠えのようなものにしかならない。それでは意味がありません。

 入試で、「現代国語」で求められる能力の99.9999%は、この範疇で尽きている。これを大切に考え、あるいは教え、能力を身につけさせるのは、大変大事なことだと思います。

大胆であろうとすればするほど、細心であれ

 私の本をお読みになった方はよくご案内と思いますが、自分の名で束のついた本を書くとき、私はかなり思い切った表現も辞せずに使います。

 しかし、その周囲や背景には、それなりに客観的に考える準備や推敲があります。当然ながら紙面にはそんな痕跡は残りませんが。

 日本の中学、高校で、国語教育に関して、感想文などと称して根拠を欠く思いつきを「子供らしい」「ユニーク」「大人ではできない発想」などと持ち上げる傾向がありますが、正直申してあまり感心できません。

 私自身は、そうした「ユニーク」側でも評価してもらって、やってきたタイプでもあるのですが、質実剛健、簡にして要を得たテクニカルライティングも非常に重要なもので、予算関連の文書など、日常的にそうした表に出さない書き物も大量に書いています。

 論理的に考え、整合した全体像を持つように構築された文章を読み、理解し、あるいは書き、話す能力。

 「読み書きそろばん」という古くからある表現は決して過去のものではなく、時代も地域も超えて重要な不易流行の本質です。

 大胆なことをしようと思えば思うほど、基礎的なところから慎重である必要がある。これはどんな分野でも通じる基本の骨法だと思います。

 小学生時代、親から速読を習ったおかげで、子供の頃の私の読書量はたぶん多い方だったと思います。

 中高時代毎日学校の行き帰り電車の中で薄い文庫なら1冊ずつ2冊程度のペースで読んでいましたので、1年で500冊程度、高校卒業する頃までには4000冊程度は様々な本を読み、心動かされ、そこから自然にものを書きたくなった。

 そういう「先史以前」があったことで、私は自在にモノを書けるようになりましたが、ティーンの頃はまずもって自己満足で、自分がよいと思うものを書いていた・・・そういう子供の了見では、社会には通用しないわけです。

 無手勝流で自分勝手な垂れ流しでは、職業原稿を書くことは決してできません。

 そういう意味で、誰が読んでも同じ意味が解釈でき、そのように自分自身も表現できる国語能力の基礎をこそ、入試のような場では、きちんと問う必要がある。その根幹をなすのは、実は数学同様「論理」ロジックと思います。

 漢字の書き取りなどは、極論すれば1つ2つ間違えてもいい。でも、大きな論理を取り違えることがなければ8割以下は取りようがない出題が優れた出題、良問と思います。

 逆に、論理をすっ飛ばし、場合によっては子供におもねるような教育サービスは、むしろ人材をスポイルし、ダメにしてしまうリスクがあるでしょう。

 「自由な発想で伸び伸びと!」みたいな、その実は教育サービス産業の無責任な集客キャッチフレーズではなく、いつどこの社会でも通用するロジカルな能力の基本を問う「国語」。

 入試といえども例外とは思いません。そういう基本を問うべき試験であるべきと思いますし、そういう人材育成が何より重要だと思います。

(つづく)

筆者:伊東 乾