―どうして私が、こんな辺鄙な土地に住むの...?―

幸せな家庭を築くことを夢見て、コツコツと女としての人生の駒を進めてきた大手航空会社CAの美波(ミナミ)、27歳。

ルックス・収入・性格とともに完璧な港区男子・孝太郎と出会い、順調に婚約まで済ませた、まさに幸せの絶頂期。

「浅草に住もう」という提案に戸惑う美波だが、さらに彼の友人から「孝太郎は“下町の成り上がり”」と忠告を受ける。

そして、浅草で育った孝太郎の素顔が少しずつ明かされるが...?




「今日来て、孝太郎くんが浅草を好きな理由、分かってきたわ」

“浅草に住みたい理由を聞いてくれ”と言いながら、なかなか話を切り出そうとしない孝太郎に、美波は優しく声をかけた。

「私は江戸っ子の孝太郎くんも好きよ。地元が落ち着く気持ちもよく分かったし...」

シンと静まり返った夜の隅田川のほとりを歩きながら、美波はスウェット姿の孝太郎の腕にピタリとしがみつく。

いつもファッション誌のモデルのようにスタイリッシュな服を着こなす彼を素敵だと思っていたが、こんなラフな姿だってワイルドでカッコイイ。

そういえば、高校生の頃に男子校の文化祭なんかに出かけたときは、制服をダボッと着崩し、髪を明るく染めたちょっと悪そうな男子にドキドキしたこともあった。

今の孝太郎に抱くのは、ちょうどそんな感覚に似ている。

冬の冷たい空気と、大きな川独特の水っぽい香り。

川の向こうの澄んだ空にはスカイツリーとアサヒビールのオブジェがくっきりとした光を放ってそびえ立ち、それが水面に綺麗に反射する浅草の夜景は、文句なしに美しかった。

もしも高校生の頃、この街に住み、“御三家”の進学校で浮いていたという孝太郎に出会ったとしても、絶対に今と同じように恋に落ちる。美波にはそんな確信すら生まれた。

「地元愛とか、生まれ育った街が落ち着くとか......もちろん、そんな気持ちもある。でも...」

孝太郎は寂しげに微笑みながら、重々しく口を開く。

「正直、浅草にいたいって思うのは、そんな綺麗な理由だけじゃねぇんだ」


孝太郎が、ついに美波に素顔を見せる...?


アンバランスな彼を、守りたい


「...世界で一番カッコつけたい女の前で、こんなこと言うのは辛いんだけどさ」

絞り出すような声で言った孝太郎の顔は、痛みを堪えるように小さく歪んでいる。

「結局のところ、港区や渋谷区なんかの上品な場所は、究極的には俺の肌には合わねぇんだ...」

美波は彼の手を握りながら、次の言葉を待つ。

「圭太から色々聞いただろうけど、俺みたいな下町坊主は、あの山の手シティボーイ達の中で昔から浮いててさ。恥ずかしい話、俺はコンプレックスの塊みたいな男だよ」

思春期に抱き続けた、お坊っちゃま達への劣等感。実家の家業が傾いたときの苦労。そして、そんな環境から一刻も早く脱出したいという強い焦り。

孝太郎は遠くを見つめながら、これまで美波が知らなかった過去を淡々と語った。

「俺みたいな奴が人並みに成功するには、人一倍努力して、人一倍働かなきゃいけねぇって、ずっと必死だった。

それで渋谷とか麻布十番だとかのタワマンに、実際住めるようにはなったけどさ。ちょっとした爽快感はあっても、全然満足はできなくて」

消えない焦燥感。そして、新たに生まれる虚無感。

望み通り下町を離れ、都会の中心部に馴染もうとするほど、孝太郎は正体不明の葛藤に苛まれた。そうして30歳になった彼は、結局地元“浅草”に戻りたくなったのだという。




「...そうなんだ。私、全然知らなくて...」

そんな彼の話を聞いていると、美波は昔絵本で読んだ「青い鳥」を思い出した。

幸福の青い鳥を探して長旅に繰り出した兄妹が、とうとう見つけられずに家に戻ると、自室の鳥籠の中に「青い鳥」がいたことに気づく、という童話だ。

「でもさ」

孝太郎は美波に向き直り、そっと肩を抱いた。

「美波と出会ってからは、本当に毎日満たされてたんだ。下らねぇ話をいつもニコニコ楽しそうに聞いてくれてさ。最初は一目惚れだったけど、一人の女を守りたい、幸せにしたいって思ったのは初めてだ」

いつものようにキメキメではない、少し怯えが混じったような声は、美波の心に深く沁みる。

それに、パーフェクトな港区の王子様と思っていた彼の意外な素顔を知るほど、そのアンバランスさがかえって愛おしく、美波の方こそ、孝太郎を守りたいと強く思った。

「そのくらい大事な美波だからさ。俺、うまく事情も説明できずにカッコつけたまま、急に浅草なんて言ってごめんな。でも...俺はともかく、美波はまだ27歳だし、オシャレな都心がいいに決まってるよな。

とりあえずは十番にこのまま住んで...」

「ううん」

美波は力強く孝太郎の言葉を遮る。心はもう、決まっていた。

「私、孝太郎くんと浅草に住むわ」


浅草に住むと決めた美波に、心境の変化が...?


贅沢な暮らしよりも、大切なもの


美波が浅草に引っ越すと母に告げたときは、「えっ」と怪訝な顔で驚かれた。

だが、改めてきちんと孝太郎を紹介すると、母は美波と同様、爽やかな彼に瞬く間に好感を抱いたし、寡黙な父も同じように「いい男を見つけたな」と、目を合わさずにボソリと高評価を下した。

そして、美波が一番緊張していた孝太郎との両親の初対面は、予想をはるかに超えて楽しいものだった。

彼の実家で待っていた両親は、まさに孝太郎の明るさと人情味をギュッと凝縮させたような古き良き下町の夫婦で、「こんな美人さんが嫁に来てくれるなんて」と、申し訳なくなるほど美波を大袈裟に褒めた。

温かな歓迎はただの挨拶では留まらず、深夜0時を過ぎても盛り上がり続ける食卓に美波は少し戸惑いつつも、その賑やかさに癒された。

そして、新居を探すために浅草を訪れるたび、この街が好きになっていった。




通うほどに親しみを増す、下町独特の情緒、人情味溢れる温かい雰囲気。何よりこの街は、驚くほど美食の宝庫だ。

以前孝太郎に連れて行かれた『馬賊』はすっかり美波のお気に入りであるし、『駒形どぜう』の“どぜう鍋”や『並木藪蕎麦』の“日本一辛くて美味しい麺つゆ”と有名な辛汁を口にしたときは、やはり衝撃的な感動を味わった。

他にも『浅草むぎとろ』や『釜めし春』の定食、『ちんや』のすき焼き、『土手の伊勢屋』の胡麻油香る天丼など、孝太郎はまるで手品のように次々と美味しい店を提案してくれる。

それらの店はさすが老舗というのか、どれも何度もリピートして通いたくなる魅力があった。昼間から軽くお酒を飲みながら浅草デートをするのは、すっかり二人のお決まりになった。



そして、引っ越し当日。

美波がとにかく驚いたのは、孝太郎が引っ越し業者を手配しなかったことだ。というのも、なんと彼の地元の仲間や幼馴染が総出で手伝ってくれたのだ。

彼ら曰く、

「大事な仲間の門出を、知らねぇ奴らに任せてたまるか!」

というのだ。

最初は「貴重な休日に、お友達に手伝わせるなんて」と申し訳ない気持ちで一杯だった美波だが、彼らがあまりに楽しそうに手際よく作業する様子を見ていると、そんな好意に甘えるのも浅草という土地の醍醐味だと知った。

それに、孝太郎の友人たちは内装業や配送業を営む人も多く、男女2人きりの引っ越しくらい、文字通り“朝飯前”とのことだ。

そうして引っ越した隅田川から歩いてすぐのマンションの一室に、美波はすこぶる愛着を抱いている。

結婚式を6月に控え、孝太郎はすっかり愛妻家っぽく振る舞うようになってくれたが、突然地元仲間をワイワイ引き連れて帰宅し、美波をあたふたと困らせることもあった。

そんな時の美波はまるで運動部のマネージャーのような妻へと変貌せざるを得ず、後から孝太郎を叱ることもあるが、何だかんだで、人同士の繋がりが強い街には日に日に親しみが増した。

都心のタワーマンションなんかでオシャレな暮らし、物質的に恵まれることが女の幸せだと、漠然と憧れていた時期もある。

しかし、浅草の妻となった美波は思う。

例えば将来自分の子どもに何かあったとき、一目散に駆けつけてくれるような友だちが沢山いる、そんな人間味の方が、生きていく上でずっと大切なことなのだ、と。

―Fin