【落合陽一 徹底解説・後編】「サピエンス全史」続編から見える日本の勝ち筋

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マーク・ザッカーバーグやビル・ゲイツといったビジネスリーダーたちから絶賛され、世界的ベストセラーとなった『サピエンス全史』。その続編となる『Homo Deus』は、既に発売されているが、邦訳版はいまだ刊行されていない。欧米では既に議論を呼んでいる本書を、落合陽一が邦訳に先立って徹底批評。

「東洋的発想」がいずれ世界を席巻すると断言する落合が、話題の未邦訳本から読み解く”日本の勝ち筋”とは?(前編はこちら

西洋的な個人は、普遍的なソリューションではない

なぜ現代社会を生きる我々は、西洋的個人に対する”獲得意識”とともに物事を発想するのでしょうか。世界史の授業で扱うからでしょうか? 社会制度が今それを是としているからでしょうか。しかしながら、あらゆる時代背景にとって常に最適なものがないように、僕は「”西洋的な個人”こそが、我々が歴史の中で獲得しえた最適かつ普遍的なソリューションである」といった思い込みにその元凶があるのではないかと思っています。「個人主義はナイーブな概念だった」──。やがてテクノロジーの更新とともに我々人類が自らその更新を認められればいいのですが、それはなかなか難しいかもしれません。

西洋では「個人」を軸に据え、人権に代表される制度や仕組みを構築してきました。それでも、考え方としての個人はここ300年程度しか使われていない概念です。

歴史に根ざした議論を進めるのであれば、「個人」を排して考えた方がより自然といえます。西洋人は自然契約に基づき、個人が生まれたと考えているかもしれませんが、あくまでも現代的な個人が生じたのは宗教以後です。宗教以前の個人を振り返るには紀元前の議論に戻る必要があり、例えば、ギリシャ的民主主義は必ずしも個人の権利意識から生じたものではないでしょう。議論や仕組みの中で生まれた、その時代に適する制度ということです。

これは、日本でも同様に、古事記(712年)と日本書紀(720年)を編纂するため、国教としての神道ができるまで「個人」といった考え方はおそらく薄かったのではないかと僕は考えています。個人の私的所有権を認める墾田永年私財法が発布されたのは743年。裏返せば、それ以前は私的所有による土地制度が存在しなかった。神話(宗教)と同時に所有を、そして個人としての意識を生み出してきたのです。『サピエンス全史』から『Homo Deus』までハラリの論からはこうした東洋的視点が抜け落ちています。

東洋的なソリューションとして、僕がオススメしたいのは道教の始祖の一人とされる荘子が代表的な説話「胡蝶の夢」でいった「物化」(英語では”transformation of material things”)です。

この言葉は「あらゆるものが事物や概念が変換されること」を意味します。荘子は蝶々になるし、蝶々は荘子になる。一は全になり、全は一になる。西洋世界は、「神」と「世界」と「私」を単一のものとして捉えるのに対し、荘子は「あらゆるものが、あらゆる次元でトランスフォーメーション可能なのだ」と説くのです。

この思想はまさにエンドトゥーエンドの考え方そのものに他なりません。例えばエンドトゥーエンドの学習手法と呼ばれるディープラーニングは、入力と出力の関係性を定義することなく学習させるような手法です。統計的に学習された全体のニューラルネットワークから単語一つを取っただけで、その蓄積から画像を生成します。また逆に画像から単語を作ることもあります。

一は全になり、全は一になるような変換のためにニューラルネットワークを訓練している。エンドトゥーエンドという考え方は他にもクラウドサービスやWebサービスのあらゆるところに出てきます。結局、中間過程をすっ飛ばして、ボタン一つで目的をなしたり、データの蓄積から、その解決策を探したり、部分と全体を行き来するためのITサービスが今この社会には日進月歩で増えています。

それはつまり、直感的な例では、俳句を詠んだだけで絵が浮かぶかどうか。反対に、浮かんだ絵を俳句に戻せるか。「古池や蛙飛びこむ水の音」と聞けば、僕たちはその絵を思い浮かべることができます。ここで重要なのは言語でも絵でもなく、言語と絵が同時に変換可能な中央部分を探ることです。今までは均質性を持った文化的修練からしか獲得できなかったこの力が、統計的な処理や、エンドトゥーエンドのサービスデザインや、機械学習の上で実現するようになっています。

そのためエンドポイントとエンドポイントの変換が鍵になる、機械学習を用いたロボティクス分野で日本は強みを発揮できるはずです。これは先に述べた「物化」の概念に通貫していますし、他にもITの物質性に関わったサービス全般で優位性を生かしていけるでしょう。

僕たちは何も、二番煎じのタイムマシン経営をする必要ありません。ただ、「自分たちのコンテクストの半分はオリジナリティが西洋にはない」ことを強く認識することが重要なのです。その理解はサービスデザインや社会デザインにとって大きな意味を持つことになるでしょう。

シンギュラリティはすでに起きている

『Homo Deus』のなかで、ハラリは自らが構想する未来像の論をバックアップするため、未来学者であるレイ・カーツワイルの名前を何度か挙げています。

カーツワイルの代表的な著書『シンギュラリティは近い(The Singularity Is Near)』のなかには、「脳の毛細血管に数十億個のナノボットを送り込み、人間の知能を大幅に高める」や「脳をスキャンしてアップロードする」といった記述があります。バイオケミストリーの進展と人間のリエンジニアリングによって「超人」へ到達するといった展望は、まさしくハラリが措定する「ホモ・デウス」という存在に符合するといえるでしょう。

ここではまず、「シンギュラリティ(技術的特異点)」という概念に対する僕の捉え方を明示しておきます。

「シンギュラリティは近いのではなく、もうすでにポコポコと起こり始めている(Singularity is not near but sporadically occuring)」──。これが僕の基本的なスタンスです。

例えば金融資産や貨幣についての信用創造がすでにシンギュラリティに突入しているのを例に説明していきましょう。状況を端的に表現するため、僕は最近「BoE(blockchain of everything)」という言葉を用いています。

これまでは銀行を介した貸付と返済を繰り返すことで、金融価値を増やしていくのが信用創造のあり方でした。今ではブロックチェーンによりあらゆるものが結合したことで時間や空間も金融資産化し、信用創造が無限スパイラルに突入しています。

たとえば、個人が株式会社のように擬似株式を発行し、ビットコインで資金調達を行うことができる「VALU」や専門家が10秒単位でリアルタイムに時間を取引できる「Timebank(タイムバンク)」といったサービスはその潮流を捉えた端緒に過ぎません。そこで生じる時価総額という概念は一体どういう金融資産として扱うべきか、ここにまだ結論は出ていません。

しかしながら、今後は時間以外にも、あらゆるものが金融資産としての価値を持ち始めていきます。つまり銀行が法定通貨をベースにものを考え、査定せずとも、民主的に信用創造がなされていくのです。

僕が信用創造のシンギュラリティを確信したのは、VALUやタイムバンクといったサービスが流行し、ビットコインがビットコインキャッシュとハードフォークしたにも関わらず、価格が下がらなかったような事象が多く生じ始めてきたからです。通常、供給量が同じものが二倍に増えたら、価格は下がるはずにも関わらず、ビットコインはその価格を下げませんでした。

これを目撃したとき、「ハードフォークを繰り返しても価格は下がらない。価値のあるものは増え続ける。つまり信用創造はシンギュラリティに至った」ことを思い知らされたのです。

『サピエンス全史』から一貫してハラリは、認知革命に端を発する虚構を集団的に信仰することで人類は持続的に繁栄してきたと主張します。

「BoE」が示唆するのは、信用のネットワークさえも市場価値として外在化することが可能であるということ。信用に基づいて価格をつけるという原始的な現象も、現在では客観的なネットワークの上に乗せることで非中央集権化しています。

そもそも使いたいネットワークと使えるものに対して合理的な価格付けをするのが東洋的な価値観なので、こうした信用創造状態とも僕らは親和性が高いはずです。

iモード・2ちゃんねる・ニコニコ動画・mixi─私たちはシンギュラリティへの嗅覚を備えている

信用創造の他にも、「WWW(ワールド・ワイド・ウェブ=出版のシンギュラリティ」、「グーグル検索=私たちの脳検索のシンギュラリティ」、「ユーチューブ=コンテクストのシンギュラリティ」などシンギュラリティを迎えている領域は少なくありません。つまり、近代的制度がコンピューターによって超克され、今までの個人としての権利意識や制度設計では概念を理解できなくなってきた分野をシンギュラリティと呼べば、あらゆるところに特異点は存在しているのです。

このように我々の世界のあらゆるところに業態や概念別に個別のテクノロジカルシンギュラリティ(技術的特異点)が生起しているにも関わらず、西洋世界にシンギュラリティが来ていないように見えるのはなぜでしょうか。

それは人間(個人)が克服されない限り、大きな変化が起こった、個人が「負けた」と彼らは思わないからです。一元的にしかシンギュラリティを捉えられない西洋世界に対し、東洋世界に生きる我々は、要素別にシンギュラリティを捉えることができます。これは決定的に重要な点です。我々にとって個人という概念すらも後から輸入して獲得した概念であり、試行錯誤して得られたものではないからです。

本来シンギュラリティは西洋の論理を超えた先にあり、私たち東洋人が理解しやすいもののはずにも関わらず、「シンギュラリティはコンピューター・アビリティに基づくもので、2020〜2050年までやってこない」と未だ捉えている日本人は少なくないのが現状です。それは中途半端な西洋化によって靄がかけられているからで、ある種の伝言ゲームに陥ってしまっているからに他なりません。この伝言ゲームを廃し、コンピューターや技術革新による制度設計の見直しを行っていくことが我々の社会にとってとても重要なことなのではないでしょうか。

このように根源的な東洋観を持つ僕たちがいち早くシンギュラリティに気づくことができるのはアドバンテージになるでしょう。シンギュラリティを見つけたら、取るべき選択肢は二つ。プラットフォームを作るか、プレイヤーになるか。

ユーチューブというプラットフォームを作ってもいいし、ユーチューバーになってもいい。またはICOするためのプラットフォームを作ってもいいし、個人でICOをしてもいいし、その取引をしてもいい。その鋭い嗅覚が僕たちには備わっているはずです。潮目の変化を感じ取ったら、西洋的価値観が立ち往生している間に、東洋的価値観と西洋的価値観を併せ持つ我々はすぐに動き出した方がいい。

過去を振り返れば、日本が西洋に先行していたものは数多くあります。同質性によって普及が早かったものが多いのです。例えばiモードに2ちゃんねる、mixiからニコニコ動画まで世界に先駆けた革新的なサービスがいくつもありました。10年後には日本発ではないニコニコ超会議が世界のスタンダードになっているかもしれません。

なぜかといえば、日本はこれまで「時代の潮流から早すぎた」の一言でグローバルスタンダードになることを諦めてきたからです。未来を見通し、投資を集めて体力を持続させるべきだったのにも関わらず。先行投資型で資本を投入し続けていれば、今でもAndroidやAppStoreと同様の基軸でiモードを持っていたのではないでしょうか。

仮想通貨に関して言えば、世界のなかでも突出して張れている方なのではないかと思っています。事実、日本のビットコイン取引所「bitFlyer」は取引量で世界一位を誇っていますし、仮想通貨に関わる法制度の整備もスムーズに進んでいます。

「失われた東洋」を取り戻せ

「失われた東洋を取り戻せ」──。そんなメタメッセージを発しながら、『Homo Deus』を批判的に読解してきました。西洋的概念と思考体系は、物事を対立構造で捉える嫌いがあることが浮き彫りになったのではないでしょうか。差異に自覚的になってイシューを分断した結果、解決には向かわず局所最適に陥ってしまうのです。

それでも、「日本人も西洋的個人観をコンテクストに生きてしまっているのではないか?」との指摘もあるでしょう。だからこそ、ここから数年の一大テーマは、「日本人が失った『東洋』を取り戻し、西洋的個人観と東洋的個人観の中に多義性や両義性を持つこと」になると思っています。

明治にヨーロッパを接ぎ木し、昭和にアメリカを接ぎ木した日本。たとえば、刑法はドイツで民法はフランスで生まれました。僕らが何気なく普段使っている、言葉のなかにも西洋化の影があちこちに見えます。

無理に「コンプライアンス」や「ガバナンス」、あるいは「イノベーション」といった概念に擦り寄る必要はありません。僕はイノベーションをしばしば「マンボウの産卵」に喩えます。マンボウは多くの稚魚を産卵しますが、成魚になれるのはごく一部。イノベーションも本来は、東洋的で創発的なもののはずなのです。

今後、東洋が西洋を内包し、両義的なアップデートを行っていくために、こうした差異に対して敏感になる必要があるでしょう。東洋的認識や価値観に自覚的になることが、逆にいうと西洋的個人主義の閉塞感のアップデートにつながっていくのです。

西洋的価値観がプリセットされた西洋人は、この超克に時間がかかるかもしれません。逆に輸入することで西洋化した我々は一人称と三人称を感覚的に行き来することができ、あちこちで勃興し始めているシンギュラリティに敏感になれるし、インターネットを東洋的にも捉えることができる。神なき合理性を求め、「失われた東洋」を取り戻していくことができるかもしれません。

そういった意味でこれからのコンピューター社会における両義性や多様性理解が日本社会では進みやすいのではないか、その立ち戻るきっかけになる本として読むと、大きな含蓄が得られるかもしれません。