北条早雲とは、いったいどんな人物だったのか(写真:ジャトコ / PIXTA)

40代が近づくと「ああ、そろそろ人生も後半かな」などと感じる人もいるかもしれません。ですが、今は人生100年時代。まだまだ未来の可能性は無限にあります。
それを体現しているのが、北条早雲。今よりもずっと寿命の短い戦国時代において、なんと55歳から活躍をはじめて戦国大名になったという超大器晩成の人物です。
もちろん現代とは「時代が違う」わけではありますが、彼の生き方には今にも通じる普遍的な「大器晩成のヒント」がちりばめられています。北条早雲とは、いったいどんな人物だったのか、『超訳 戦国武将図鑑』などの著書を持つ富増章成氏が解説します。

無名の人物から最初の戦国大名となった北条早雲

【3月5日13時45分追記】本記事初出時、早雲が扇谷上杉家と山内上杉家の両上杉家を滅ぼしたとしておりましたが、扇谷上杉家は早雲の孫の氏康が滅ぼしており、山内上杉家は関東から追い出されましたが厳密には滅亡しておらず、長尾景虎を頼って逃れています。お詫びして訂正いたします。また早雲の出自については諸説あり、その旨追記しました。

定年やら年金やらに思いを馳せたり、急に新しいこと(英会話など)を始めては挫折したり……。40代以降というのは迷走しがちな、なかなか難しいお年頃です。しかし、北条早雲は、55歳になってからメキメキと力をつけていき、なんと無名の武人(室町幕府に仕えた官僚だったなど、諸説あります)から、戦国大名になった人物です。今でいえば、平社員がいきなりベンチャー社長になり、あっという間に成功、関東圏を制覇したというような感覚でしょうか。

しかし、40歳までは何をしていたのか。また、その出自も諸説ある人物です。もともとは伊勢新九郎(いせしんくろう)、宗瑞(そうずい)という名でした。ちなみに、鎌倉時代に執権の北条氏が権力を握りましたが、その「北条」とはなんの関係もないので、「後北条氏(小田原北条氏)」といって区別されています。

55歳のとき駿河に流れてきて、興国寺(こうこくじ)城(現・沼津市)が与えられます。当時、関東に割拠していた勢力が、下総の古河公方と伊豆の堀越公方、また扇谷(おうぎがやつ)上杉家と山内上杉家でした。

早雲は地味に暗躍するタイプの戦国武将で、伊豆修善寺温泉に宿泊すると見せかけて、スパイを送りつつ興国寺城の部下らを率いて堀越公方を滅ぼし、伊豆一円を支配してしまいました。このとき、早雲は60歳でしたが、単に一国一城の主におさまらず、関東の拠点を制覇しようという壮大な野望を胸に抱いていたのでした。

伊豆国を奪い取った早雲は、韮山(にらやま)城(現・静岡県伊豆の国市)を拠点として活動をします。「次は相模の小田原だ!」とターゲットを決定。小田原城(現・神奈川県小田原市)をどうやって奪い取るか、知恵をしぼりました。

「そうだ、小田原城の城主は最近病死したから、その跡継を油断させて乗っ取ってしまおう」。そう考えた早雲は、またまた直接対決はせずに、リスクゼロパターンの作戦を考えます。

豊富な人生経験が生んだリスクゼロの戦法

早雲は、小田原城の跡継ぎ城主・大森藤頼(ふじより)にいろいろとプレゼントをしながら接近し、相手が油断したところで、相談を持ちかけます。「先日、伊豆の山で鹿狩をやったんですけど、たくさんの鹿が大森様の領内にある箱根方面に逃げてしまいましてね。うちの勢子(せこ・狩人的な人のこと)が鹿を回収したいんですけど、入っちゃっていいですねー」と。大森氏も「おお、大丈夫だよ」なんて軽く快諾。というのも、北条早雲が最初の戦国大名といわれるわけですから、当時はまだ戦国時代手前。リアルタイムの大森氏は「今は戦国の世じゃ」なんて自覚があるわけもなく、スキだらけだったのです。

早雲はさっそく強い若武士をセレクトして、勢子に変装させます。さらに牛を1000頭も用意。夜になると角に松明を結びつけ、山の方から小田原城へ向けて牛を走り出させました。法螺貝を大げさに鳴らして、ものすごい大群が攻めてくるように見せかけたのです。実際は、牛が走り下りているだけのフェスティバルみたいなものですが、小田原城の城兵たちは「敵は何十万いるんだ!?」と大慌て。早雲軍は城下町に火をつけながら、小田原城の大手門まで攻め寄せて、あっという間に城を奪い取ったのでした。

かわいそうな大森藤頼はかろうじて城から脱出。「あのホラ吹きジジイめ!」と激怒したに違いありません。このとき、先頭で自ら戦った北条早雲は64歳でした。この歳で先陣をきって戦うとは並の体力の持ち主ではなかったようです。

奇策によって小田原城を制覇した北条早雲。戦国の世では、勝つために手段はなんでもありという前例をつくったといえます。この北条早雲をみならって、このあと次々と奇策が展開する時代が到来するのです。

ちょっと卑怯な手のようにも感じますが、ただ真正面からぶつかってムダに多くの血を流すのではなく、リスクを最小限に抑えた老猾な戦い方を選んだといえます。

自分を信じてひたすらすすめ

もちろん北条早雲は、ただ戦に強いだけではありません。ものすごい倹約家で「針を蔵に積む」とたたえられたほどですが、一方、いざというときは大切なものでも思い切って断舎離するという、経済感覚のすぐれた人でもありました。分国法の「早雲寺殿廿一箇条」では日常生活の細かな指針から、人生観、宗教観などが記されています。


「出仕のときはもちろん、家にいるときも必ず髪をととのえること」「朝は早く起き、戌の刻(19〜21時)までに寝ること」といった日常生活の心得や、「歌道のない人は取り柄がない。歌を学ぶこと」「いつも書物を持ち歩き、ちょっとした空き時間に読書をすること」とよいことばかり。人心掌握術にも長けていて、農民への減税政策など配慮も忘れなかったので、多くの人から慕われた戦国大名でした。

その後、早雲の子孫が管領家の扇谷上杉家、山内上杉家の両上杉家の勢力を押さえていきました。そして永正16年、88歳で伊豆の韮山城に没したと伝えられています。

今よりもずっと人々の平均寿命が短かった戦国時代においても、このような人物がいたというのは、なんだか励まされる事実です。

現代では100年時代ともいわれています。40代、50代が近づいて、人生の目標を見失ってしまうようではいけません。第二の人生というよりは、人生すべてが第一の人生で継続していると考え、北条早雲をみならって、今からビッグな夢をスタートさせてみれば、新しい未来が開けるかもしれません。