社内の風通しをよくするために必要なこととは?(写真:asilvabom / PIXTA)

リーダーとはどうあるべきか、いかなる「覚悟」を持つべきか――古くて新しいこの問いに、多くのリーダーたちが頭を悩ませている。
東洋経済オンラインの人気連載「上司と部下の常識・非常識」に大幅な加筆修正を加えた書籍『正統派リーダーの教科書』を上梓した江口克彦氏が、あるべきリーダーの姿と、必要な「覚悟」を解説する。

「さん付け」なら、名刺からも肩書を消すべし

私の名刺には、自分の氏名以外、何も書いていない。名刺交換のときに、相手に手渡すと、大抵「こういう名刺は初めてです。江口さんは有名ですからね。しかし、私は、会社名も、肩書も、すべて書いていないと、相手の方が信用してくれませんから」などと、多少の皮肉を込めて、おっしゃる。


私も、かつて、社長としての肩書、国会議員として、政党名、役職を書いて、相手に私の立ち位置を知らせることにしていたが、いまは、肩書を相手に示すことによって、自分の責任を明確にすることもない。だから、多くの人が、いまだに「先生」と言うが、徐々に「江口さん」と言う 人が多くなってきた。社内で「さん付け」を徹底したいなら、まず、名刺から肩書を外したら、いかがかと思う。

「さん付け」の会社が、とりわけ、中小企業に多い。あるいは、ベンチャーに多い。少数だが、大企業でも行っているところがある。理由を聞くと、家族的だから、あるいは、社内の風通しをよくするために、なかには、アメリカでは肩書で呼ばないから、などと言う。

しかし、数十人の会社ならともかく、「さん付け」にしたから、100人の会社が家族的になることはないし、まして大企業において、1万人が家族的になり、社内の風通しがよくなることは考えにくい。

社内の風通しをよくするのは、ひとえに「社長の人徳」「上司の人間的魅力」。要は、社長が、上司が、「恐怖政治」をしないこと、「上から目線」で社員や部下に接しないこと。これに尽きる。

大切なのは呼び方でなく「上位者の人格」

「さん付け」をしても「傲慢社長」や「上から目線の上司」であれば、風通しがよくなるはずもない。社内の風通しが悪いとすれば、「さん付け」よりも、徳のない、あるいは魅力のない上司を排除、追い出したほうがはるかに有効である。まして、降格人事や転職を前提にしたアメリカの、ファーストネームで呼び合うのを知らず、サルまねして、アメリカのように「さんづけ」がいいなどと言うに至っては、救い難い。

ならば、アメリカは、それで会社は風通しがいいのか。私の友人の甥が、ここ数年、ボストンの会社で責任者をやっているが、彼の話を聞くと、事が決まるまでは、いろいろ社員も意見を自由に言っているが、いったん、決まると、風が止まったように、誰も社長や上司に口出しできない。少しでも異議を唱えると、即、「明日から、出社に及ばず」とクビになるという。古い話だが、フォードのアイアコッカは、オーナーと口論しただけで解雇され、ライバルのクライスラーの会長になっている。

「さん付け」は、なにより、本人の責任意識を希薄にする。実感としていま、私自身、「さん付け」で呼ばれることが多くなったし、それを愉快に思っているからか、以前ほど「責任の自覚」はない。肩書で呼ぶのをやめて、「さん付け」で呼ぶのは、それぞれの会社の自由だが、そうすべきだと主張するならば、少なくとも、私のように、名刺に肩書を記すのをやめてはどうか。社内での責任者をつくらないことにしたらどうか。取引先でも、出てきた部長や課長を「さん付け」で呼んだらどうか。

「たかが肩書、されど肩書」。社長・上司は、よく考えて、みずからの人徳を高める努力をするとともに、肩書の重要さを、社員・部下に指導したほうがいい。「肩書は、威張るためのものではない。責任を自覚し、人間的成長を心掛け、部下を慈しみ、以って、社内の風通しをよくするためのものだ」と。そのような「社風づくり」こそ、「社内の風通し」をよくする究極の対応策である。

話は変わるが、現在、メガバンクの人員整理計画が注目されている。みずほフィナンシャルグループが8年後の2026年までに1万9000人を削減する。三菱UFJフィナンシャル・グループは、5年以内で6000人削減。他の大小の銀行も次々に追随するだろう。

当然、これは異次元技術の登場を織り込んでのこと。FinTech(フィンテック)の普及などによって、おそらく、今後10年以内に金融の姿も完全に変わってしまうし、AI(人工知能)技術を駆使して、組織を極端にスリム化するだろう。

異次元技術の先を見て、採用をすべし

もう4年ほど前、オックスフォード大学が発表した、あと10年で「消える職業、なくなる仕事」は、かなりの話題となったが、現在、その速度が加速している。周知の通り、無人自動車、無人スーパー、コンビニ、ホテルのロボット受付案内嬢などは、連日のように報道されている。

その「消える職業、なくなる仕事」のリストには、銀行の融資担当者、スポーツの審判、不動産ブローカー、レストランの案内係、保険の審査担当者、給与福利厚生担当者、レジ係、ネイリスト、簿記、会計、監査の事務員、測定作業員、造園・用地の作業員、建設機械のオペレーターなどが挙げられているが、弁護士もプロデューサーも作曲家も、あるいは医者も教師も、消えることはあるまいが、いまよりははるかに不要になる。20年以内に相当な不要人材が出てくるだろう。


リーダーに必要な「覚悟」とは?(画像:den-sen / PIXTA)

だから、いま人手不足だからといって、採れるだけの員数を採用していると、将来、とりわけ、大企業、中企業では、前述の銀行の例ではないが、人員整理に取り組まなければならないだろう。むしろ、人手不足なら、新しい技術で対応できないか、AIロボットで対応できないか、と考えたほうがいい。

出版業界が氷河期だと言って、嘆いているが、そのような兆候は、PCが出てきたころから囁かれていたし、Amazonが進出してきたときは、かなり危ぶむ声もあった。しかし、出版社も、取次も、書店も旧態依然。騒ぐだけで、真剣に冷静にその対応にほとんど取り組もうとしなかった結果、多くの出版社も取次も書店も次々に消え去っている。出版界だけではない。多くの業種で、業界で、企業で起こっている。そして、消えていけば、職を失う。職を失う人が多くなれば、人余りになる。

ところが、実際は、求人倍率が1.4前後。人が足らないという。なぜか。それは、会社が求めているのは、PCを駆使できる人材。ところが、PCに対応できない人が職を求めているから、「人余りの人手不足」という奇妙な現象が起きている。

そして、PC操作の出来る新卒を大量に定期採用するということで、新卒の就職希望者をかき集めている。しかし、会社はそれでいいのか。いま、人手が不足しているからと言って、「今」を基準に人手を求めていいのか。技術の異常な進展を推測し、予想し、対応することを考え、極力、採用を抑制する必要はないのか。多分、「銀行の二の舞」になるのではないか。

しかし、そのとき会社は泣かない。泣くのはリストラされる社員である。採用するときには、頭を下げ、手もみして迎え、10年、20年もするとゴミを捨てるように解雇する。だが、それは人の道に反しはしないか。人手不足に、企業はご都合的対応をしていいのか。しっかりと、将来を見据えて、しっかりと若者を採用しておかなければ、必ず、彼らを泣かせるだけでなく、彼らから、しっぺ返しを受けるだろう。いまの家電メーカーの呻吟を反面教師にすべきだ。

「人を大切にする会社」「社員を使い捨てにしない会社」。それが「日本の会社」だということは心に留めて経営をすべきだと思う。

このころ、不思議なことが起こっている。労働組合はどこに行ったのか。おおよそ、賃上げにしても、労働条件にしても、労働組合が、時に会社側と激突しながら、要求してきた。

数十年前までは、各企業の労働組合を束ねる産業別労働連合会があり、さらにそのうえに、日本労働組合総評議会(総評)が、また、全日本労働総同盟(同盟)が、すべてを仕切っていた感があった。そのため、ときに激しく会社側とぶつかり、長期のストを決行したりしていた。


この連載のバックナンバーはこちら(連載はすでに終了しています)

メーデーも盛んに行われた。皆、赤い鉢巻をして「労働者よ、団結せよ」などとシュプレヒコールをしながら、街中を歩き、気勢を上げていた。私は、その労働組合の過激な活動に批判的で、新入社員の時、労働組合の支部長が、滔々(とうとう)と説く「労働価値説」を面罵したことがある。また、労働者の待遇改善が主目的にもかかわらず、安保反対闘争など、折あるごとに政治的な目的で、労働者を狩り出したりしていた。

労働組合や経済団体の存在意義が問われている

そういう労働組合の愚かさは、多くの人たちが次第に思うところとなり、労働組合活動は、下火になっていく。そして、ついには、総評は、1989年に解散(現・日本労働組合総連合会)、同盟も1987年に解散(現・日本労働組合総連合会)ということになった。このような組合活動の失敗は、政治への介入に尽きる。若い組合員が、強制的に参加させられ、しかも、政治信条が異なるにもかかわらず、デモへの参加を強制される。次第に労働組合活動に参加しなくなり、ついに解散ということになった。

とは言え、多くの企業には、依然として労働組合が存在している。総評や同盟からの強い指示がなくなった今日、いまこそ、企業内労働組合は、それぞれの企業の特質にあった、賃上げとか、働き方について取り組むべきではないのか。一体全体、労働組合は、いま、労働者を守る矜持があるのか。もともと、そのようなものはなかったのかもしれないが、それだけに、いまこそ、思い改めて、労働者のための働きをしたらどうなのか。

いまは、政治が経営に入り込んでいる。首相が、経団連に出かけ、経済同友会に行き、日本商工会議所を訪ねて、賃上げを要求する。いわば労働組合の頭越しに、政治家と経営者が賃上げ交渉をしている。

あるいは、政府が「働き方改革会議」をもって、労働者の多様な働き方を議論している。これは、労働組合もさることながら、経済団体、経営者たちは、いったいなにを考えているのか。それぞれの自立心、自尊心はないのかと訝しく思う。

社員の働き方などは、社長が決めればいいことではないか。政治に主導される経営、政治に主導される組合活動。恥ずかしくないのか。政治家に言われなければ、経営者は動かないのか。組合は、対応しないのか。

賃上げを首相が財界3団体に直接要求することに憤りを感じない労働組合は、絶滅したほうがいいと思う。また、働き方改革をみずから行えない経営者の集まりの経済団体は、解散したほうがいいのではないか。

労働組合も、経済団体も、いま、その存在が問われていると思うがいかがだろうか。