安倍首相は3月1日の参院予算委で大塚耕平氏(民進党)の質問に対し、高度プロフェッショナル制度については予定どおり法案に盛り込む考えを述べた(写真:共同)

列島に春の嵐が吹き荒れる中、巨大与党の「数」を背景に国会攻防の主導権を握ってきた1強政権も大きく揺れた。裁量労働制の対象拡大をめぐるずさん極まる「不適切データ」発覚で、安倍晋三首相が「アベノミクスの最大のチャレンジ」と胸を張っていた働き方改革の柱の1本が折れたからだ。首相が自ら命名した「働き方改革国会」のつまづきは、安倍首相の自民党総裁3選や憲法改正実現に向けた政局運営にも影響しかねない。

今回の経緯をたどると、11年前に第1次安倍政権の崩壊をもたらした「消えた年金」問題が二重写しともなる。だからこそ「悪夢再現を恐れた首相が、働き方改革のがん細胞となりそうな裁量労働制拡大の削除で、傷を最小限にとどめた」(首相側近)との見方が広がる。バラバラだった民進党系3野党は「一致結束による久々の戦果」(立憲民主党)に勢いづく。ただ、「政権崩壊への蟻の一穴になるのか、それとも大山鳴動してネズミ一匹に終わるのか」(自民長老)は今後の展開次第だ。

うそデータの背景にまたも1強首相への忖度?

働き方改革は首相にとって、アベノミクス実現への最重要政策だ。1月4日の年頭記者会見でも「今年は働き方改革に挑戦する。70年に及ぶ労働基準法の歴史において、正に歴史的な大改革に挑戦する。今月召集する通常国会は、働き方改革国会だ」と拳を振り上げた。それだけに、首相は厚生労働省の不適切データに「怒り心頭だった」(側近)ことは間違いない。キャリア官僚(大蔵省)出身らしく、言を左右にして釈明に努める腹心の加藤勝信厚生労働相を置き去りにするような形で、首相自らが働き方改革関連法案から裁量労働制拡大を削除する決断をしたのも「なんとしても今国会で働き方改革実現に一歩踏み出したいとの執念」(同)からとされる。

2月28日夜、衆院本会議で2018年度政府予算案が与党の自民、公明両党の賛成多数で可決・衆院通過した直後、首相は自公両党幹事長や厚労相と協議の上、裁量労働制拡大の今国会断念を決めた。日付をまたいだ1日未明に記者団の取材に応じた首相は、極めて神妙な表情で「国民が(裁量労働制に関する労働時間の)データに疑念を抱く結果になった。厚労省で実態を把握した上で議論し直すようにしたい」と働き方改革関連法案から裁量労働制拡大を削除するよう指示したことを明らかにした上で、関連法案自体は与党内調整を経て早期に閣議決定、国会提出して会期内成立目指す考えを強調した。

そもそも、厚生労働省が首相に示した「裁量労働制で働く人たちの労働時間の長さは、一般労働者の平均より短い」というデータは5年前の調査などから同省担当者が作成したものだ。専門家は「よく考えれば、そんな話はありえないということがすぐわかる」と苦笑するデータだが、首相が答弁で「そういうデータもある」と引用したことで一気に国会攻防の火種となった。

永田町や霞が関では、政府が提示する様々なデータについて「数字はうそをつかないが、うそつきは数字を使う」と解説する向きが少なくない。ただ、「今回は厚労省がうその数字を捻り出した格好だが、その背景には1強首相の意向への過度の忖度があったとみられても仕方がない」(公明党幹部)との見方も広がる。

「データのねつ造ではないか」との野党側の追及に対する厚労省の釈明が、当初の「廃棄された」から「地下倉庫にデータがあった」などと迷走したことは、20年以上前の薬害エイズ事件の際の厚生省(現厚労省)の"データ隠し"と「似たような展開」(自民幹部)となり、2007年の第1次安倍政権時のいわゆる「消えた年金」問題も想起させた。社会保険庁がコンピュータ入力した年金記録の誤りの多さが発覚して国民の激しい批判にさらされ、同年7月の参院選での自民惨敗と、その延長線上での9月の安倍首相退陣につながったのは誰もが記憶しているからだ。

いずれも厚労省(厚生省)が絡んでいるのが偶然とは見えず、首相にとって「悪夢の歴史」(官邸筋)でもあった。第2次安倍政権でも森友・加計学園問題や防衛庁のPKO日報問題で政府側の情報隠しの疑惑が相次いで浮上しただけに、永田町では、今回の「本来ならありえないずさんなデータ提出」(元厚労省幹部)についても「何らかの政治的謀略では」(自民長老)と勘繰る向きもある。

「残業規制」や「高プロ」の問題化も

首相は、裁量労働制拡大抜きの働き方改革関連法案の今国会成立を明言したが、断念した裁量労働制の対象拡大は経団連など財界が強く要望し、残業時間の上限規制と一括での法案化で調整してきただけに、経済界は失望を隠せない。しかも、中小企業への残業上限規制には自民党内関係議員から「裁量労働制抜きの残業規制だけなら認められない」との不満が相次ぎ、党内調整が難航する可能性もある。

さらに、改革法案で「同一労働同一賃金」と並ぶ柱でもある高度プロフェッショナル制度(高プロ)も問題化しかねない。「高プロ」は、専門職で年収の高い労働者を労働時間規制から外す制度で、野党側は「これも差し戻すべきだ」(立憲民主党)と新たな標的に据えているからだ。1日にスタートした参院予算委でもトップバッターの大塚耕平民進党代表が「長時間労働を助長する」と高プロも働き方法案から切り離すよう要求。首相が「生産性の向上にもつながるし、年収1075万円以上が対象で、希望する方が制度を活用できる」などと理解を求めるなど、政府側が防戦に追われる事態となった。 

首相は、「労働基準法制定以来となる70年ぶりの大改革」の意義をアピールすることで、関連法案の3月中旬提出、会期内処理を目指すが、与党内にも「不適切データのダメージは大きく、野党側が森友問題を中心とする疑惑追及も絡めて攻撃してくれば、大幅会期延長も検討せざるを得ない」(自民国対)との不安が広がっている。

もともと、政府与党は働き方改革関連法案について、昨年秋の臨時国会での成立を前提に調整を進めてきたが、首相が昨年9月の臨時国会冒頭での衆院解散を決断したことで、今年の通常国会に先送りとなった経緯がある。安倍政権では、長期にわたる激しい与野党攻防を経て2015年9月に成立させた新安保法制のように、重要法案を性格の異なる法案と束ねて一括法案として成立させるという抱き合わせ戦術が常態化してきた。このため、政府は裁量労働制を含めた8本の法案を束ねての一括成立を狙ったが、今回は裏目に出た。

新安保法制に続く特定秘密保護法も、野党側が強く抵抗する中、安倍政権は巨大与党の圧倒的な数の力を背景に、法案修正も拒否して野党を押し切る強引な国会運営で成立させた。にもかかわらず今回、首相が早い段階で抱き合わせ戦術をあきらめたのは、「このまま強引に進めれば、内閣支持率も急落して、首相にとって働き方改革よりさらに重要な総裁3選や憲法改正に影響が出る」(自民幹部)との不安からとみられる。

首相の「じっと我慢」はいつまで続く

前半国会の最重要課題で首相らが「早期成立が最大の景気対策」と繰り返してきた2018年度予算の年度内成立を確定させた後の28日深夜の政府与党協議も、「笑顔のまったくない深刻な話し合い」(自民幹部)に終始したとされる。国会の司令塔の二階俊博幹事長も協議後、記者団に「今後の国会運営は、慎重の上にも慎重に進めなければ」と顔をしかめた。

首相は予算案衆院通過直前の27日には、体調不良で入退院を繰り返す江崎鉄磨沖縄北方担当相の辞任を認め、後任に自民党の福井照党国際局長を充てた。しかし、言い間違いなど不用意な発言の連発で野党から追及され続けた江崎氏と同様に、福井新大臣も就任会見で北方四島の一つの色丹(しこたん)島を「しゃこたん島」と言い間違え、初舞台となった28日の衆院予算委で「元島民や北海道の皆さまにご迷惑をかけた」と陳謝する事態となった。野党側は一部週刊誌が報じた福井氏の「ハレンチ写真」などのスキャンダルも追及する構えで、展開次第では「新たな火種」(自民国対)にもなりかねない状況だ。

舞台が参院に移った1日の参院予算委での首相の答弁ぶりは神妙そのものだった。大手新聞が「宰相の十八番はヤジ揶揄うす笑い」という読者の川柳を掲載したが、衆院段階で見られた野党の追及に対する首相の「上から目線の傲慢な態度」(希望の党)は、影をひそめた。与党内でも「今回の裁量労働制でのミスが、1強政権の土台を崩す蟻の一穴にならないよう、今後は首相も守り優先の安全運転に徹する」(公明党幹部)との見方が広がる。ただ、これまでの例から見ても「今回の騒ぎがネズミ1匹で終わる」(自民幹部)かどうかは、「首相が、じっと我慢をいつまで続けられるか」(自民長老)にかかっているといえそうだ。