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ロシアウォッチャーなら一度は聞いたことのある神話

 筆者に限らず日々経済をウォッチしている方々は、石油にまつわる数々の「神話」をしょっちゅう耳にされているのではないだろうか。

 筆者はそれらをあまり知らない方だと思うが、それでも「米国によるイラク攻撃は、イラクが石油のドル建て取引離脱を狙ったから」「日本で高度成長期が終わったのは石油ショックの影響 」といった程度の神話は知っている。

 ほかにも「石油の世紀」という書籍や、「石油の一滴は血の一滴」といった言葉もあり、いずれも食料と並んで人命を左右するほどの石油という物質の存在感の大きさ、神々しさを感じさせる。

 そして筆者を含むロシアウォッチャーが何度も耳にしてきたのが、「ソ連解体は、米国が主導した油価低下による」という神話である。

 実はつい先日もこの神話をあるウエブメディアで見かけた。

 もう30年も前の話ではあるが、20世紀最大の事件であるソ連解体にかかわる話であり、我々の歴史認識にも大きな影響を与える問題だ。

 そこで本稿では、この「ソ連解体は、米国が主導した油価低下による」説について、筆者の考えを述べたい。

1985年12月、OPECの「シェア確保」宣言がきっかけ

図表 1 20世紀末期におけるWTI価格の推移(月次データ、単位はUS$/b=1バレル当たり米ドル)


 最初に事実確認を行う。図表1は20世紀末期におけるWTI(ウエスト・テキサス・インターミディエート)価格(月次)の推移だが、1985年12月に価格が急落したことが分かる。

 当時の状況を振り返ってみよう。

 サウジアラビアは1983年3月にスウィングプロデューサーの役割を追認され、油価低迷を受けて減産を続けていた。

 しかし、他のOPEC(石油輸出国機構)加盟国・非OPEC諸国に協調減産の動きがほとんどなかったことから、1985年7月の石油相会議でスウィングプロデューサーの役割を辞めることを言明した。

 また同年9月上旬には実質的な値引き販売であるネットバック方式での販売を石油メジャーとの間で契約し、増産に踏み切った。ネットバック方式とは、消費地におけるスポット製品価格に連動した価格設定方式である。

 そして1985年12月のOPEC総会はシェア確保・防衛宣言という「方針転換」を決議し、これを機に油価は急落した。

 この方針転換は非OPEC諸国の協調減産への巻き込みも狙ったものだったが、協調減産に前向きな国は増えたものの、具体的な行動は見られなかった。特に英国は原油生産量を企業判断に委ねており、協調の姿勢すら示さなかった。

 その後油価が反騰したのは、1986年の第78回OPEC総会での大幅減産合意だった。これを受けて非OPEC諸国で減産の動きが見えたことも大きかった(しかし英国は最後まで協調しなかった)。

客観的には「油価がコントロールされた痕跡は見えない」

 以上が一般的な1985年当時の油価下落に関する記述だが、もしこの動きの背景に米国の「ソ連を潰す」という意図があったなら、油価を長期的に低めに誘導したはずである。

 しかし、実際には、油価急落が始まった1985年12月からソ連が解体される1991年12月までの月次平均油価(WTI)は$19.4/bであり、これは当時のOPECの非公式目標価格(北海ブレントで$18-20/b)に近い「居心地のいい」価格である。

 実際、OPECは1986年12月の定例総会で、「固定価格制への復帰(代表的7油種の加重平均価格をUS$18/bとする)」を決定し、これを受けて油価は上昇している。

 一方で「実はUS$18/bはソ連にとっては苦しい価格であり、米国がソ連を潰すため、OPECにUS$18/bという低水準を無理矢理飲ませたのだ」という指摘もあろう。

 しかし、そこまで米国が油価を自在にコントロールできるなら、なぜ目標(ソ連解体)達成後も油価は急上昇しなかったのだろうか。

 図表1の通り、ソ連解体後も油価は低位安定を続けている。つまり、米国の意図は別にして、現実には油価の低め誘導も高め誘導も実現していない。

 さらに油価をコントロールできるのか、という疑問もある。

 そもそも価格をコントロールできる前提は、

(1)価格シグナルの助けも借りながら対象物の需給を正確に知り
(2)正確に需給を管理できること

 である。しかし石油については、そもそも需給を正確に知ることが困難であり、かつ生産国が多岐にわたっているため供給管理も困難である(近年のOPECの協調原産を見る限り、これは今も変わっていない)。言うまでもなく需要管理は一層困難だ。

 さらに不思議な点もある。

 もし米国が本気で油価を引き下げるつもりなら、米ドルを高目に誘導したはずである。しかしBIS(国際決済銀行)が算出している米ドルの名目実効為替レートを見ると、1985年3月にドル高はピークを迎え、その後はドル安に転じている。

 ちょうどこの年、米国主導でプラザ合意が成立し、大幅にドル安・円高が進行したことをご記憶の方も多いだろう。このように米国は少なくとも為替面では、油価引き下げとは矛盾する行動をとっていた。

 ちなみに、米国がドル安誘導を迫られたのは、米国経済成長率が1984年の7.3%から1985年には4.2%に急低下し、その犯人としてドル高が疑われたためだ。

 なお、1985年当時、米国経済は世界経済の22.8%(2018年現在は15.4%)を占めており、米国景気減速の結果、世界経済成長率も1984年の4.6%から1985年には3.8%まで急減速している。

 筆者は油価急落の原因は実はこの世界経済急減速だとみている。

 以上の考察をもって、「ソ連解体は、米国が主導した油価低下による」説についての筆者の結論は、「米国の意図は分からないが、油価を管理することは難しいし、過去にもそれが行われた痕跡は見えない」というものである。

 もちろん筆者の結論に対して異論のある方も多かろう。是非そういった異論をお聞かせいただき、議論をさらに深めていきたいものだ。

筆者:榎本 裕洋