事故物件の情報を公示するウェブサイト「大島てる」のトップ画面

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第27回。

大島てる:事故物件公示サイト』は全国の、事故物件の情報を公示するウェブサイトだ。

事故物件とは、殺人、自殺、火災、孤独死などで人が亡くなった物件のことだ。地図上の事故物件のポイントに炎のアイコンが配置されるシステムだ。繁華街などでは地図一面が炎だらけになる。初見の人はショックを受けるだろう。


9人分の遺体が発見された、記憶に新しいあの座間市のアパートも、事故物件だ(筆者撮影)

一般ユーザーがサイトに投稿するシステムで、表示される物件数は日々増えている。写真付き、事件の解説付きの物件も多い。

引っ越しの際に参考にしたり、今住んでいる物件や知り合いの物件が事故物件でないか調べたりするのにはもってこいのサイトだ。もちろん好奇心を満たすためにサイトをのぞいている人も多い。

“大島てる”を名乗るようになった経緯

そんな事故物件サイトを運営するのが、大島てるさん(39歳)だ。大島さんが、事故物件サイトを始めるに至った経緯をお聞きした。


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「生まれたのは日本ですが、3歳から7歳までの4年間、大学教授である父親の仕事の都合でオーストラリアとアメリカに住んでいました」

海外生活で特に差別されたりはしなかった。小学校2年生の時に日本に帰国した。そこからは東京の実家での生活が始まる。

母親は、大島てるさんが小学6年の時に病気で亡くなった。その後、母代わりになって大島さんを育てたのは父方の祖母だった。その祖母の名前が“大島てる”だ。

「今思えば母が亡くなったのも、事故物件サイトと関係あるのかもしれません。早くに人の死を知ったからです。

自殺者や殺人者に対して『命に対して、なんてもったいないことをするんだ』という思いがあります」

もともと大島さんは本名で活動していたが、メディアに登場するとき、説明に手間がかかるため、“大島てる”を名乗るようになった。

「おばあちゃん子でしたから、同級生と比べるとかなり古い環境で育ちましたね」

祖母からは終戦直後の貧しい時代の話をよく聞かされた。たまに当時作られていた、すいとんを作ってくれた。

「食べられるときに食べておかないと、次にいつ食べられるかわからないよ」とよく言われた。

小学生の頃、将来なりたい職業を聞かれたときは「海軍の軍人」と答えていたという。日本に軍隊はないことを後から知ってあきらめた。

「小学生時代はいわゆる勉強(国語、算数、理科、社会)はよくできたのですが、それ以外はまったくダメでした。足も遅く、絵も下手、歌も苦手で……。“何でもできる人”という感じでは全然なかったです」

父親からは中学受験を勧められなかった。小学校卒業後は公立の中学校へ進んだ。後悔はないが、それでも私立の中学校へ通っていたらどうなっていただろうとも思う。

自分の得意なことだけに専念できるようになっていく

高校は自分で情報を収集し、無名だが進学実績が伸びている学校を選び進学した。

「進学すればするほど、自分の得意なことだけに専念できるようになっていくので楽でしたね。

ただ今思えば勉強もそんなに向いていなかったと感じます。ほかのことよりはマシだっただけで。とにかく『修行だ』『修練の場だ』と腹をくくって受験勉強をしていました」

懸命に頑張ったが最初の年の受験は失敗した。大島さんはかなり落ち込んだ。

「浪人したことで『傷ひとつない経歴』ではありえなくなりました。それで何だかどうでもよくなってしまいました。浪人時代の何にも属さない1年間が、非会社員である今につながっていますね」

浪人時代は駿台予備学校に通った。

1年間を無駄にするのは嫌だった。せめて、予備校のある御茶ノ水周辺を誰よりも詳しくなろうと思い、路地という路地を歩き回り探索した。次の受験では合格するという確信があったため、あまり受験勉強はしなかった。

そして、翌年は東京大学に合格した。

「その頃、将来は経済学者になるつもりでした。多分大学の同級生の中では一番勉強していたと思います。重たくて分厚い本をたくさん読んで、腕に筋肉がつきました(笑)」

東京大学を卒業し、アメリカのコロンビア大学大学院に進学することになった。卒業の3月から入学の9月まで時間が空いた。

「浪人していたので、今さら経歴に空白期間があることを気にしなくなっていました。その期間、家業である不動産業にどっぷり浸かっていました。それが楽しくて、大学院に進学する頃には経済学に対する意欲がだいぶ減ってしまっていました。今思えばそれが失敗だったのかもしれませんね(笑)」

そして2001年9月に予定どおりコロンビア大学大学院に進学した。

大島さんは昔から“力”に興味があった。だから小学生の頃は軍人になりたかった。しかし1990年代後半の『国境はなくなり、世界は平和になっていく』というような雰囲気を受けて、もう世界は軍事力時代ではなく、マネーパワーの時代だと感じていた。だから経済学部に進んだのだ。

しかし“来るべき平和な世界”は目の前で打ち砕かれた。

入学してすぐに、アメリカ・ニューヨークで同時多発テロ事件が起きた。

「当時から野次馬でしたから現場に駆けつけました。倒壊現場ではたちこめるホコリを吸い込んでずいぶん咳き込みました」

学校に行くと、意外にもみんな冷静だった。

大変な事態なのに「休講かなあ?」なんて話をしている。大島さんを含め多くは留学生なのだから、喪失感がなくても当たり前なのだが、大島さんはいら立ちを覚えた。

「今思えば同級生たちのほうが冷静でしたね。ひょっとしたら自分も死んでいたかもしれないという状況に置かれて気が昂ぶってしてしまったのかもしれません。

それで、なんだか学校に通う気力がなくなってしまいました。

また経済の勉強をしているのに、先生も先輩もみんな貧乏そうなのもやる気をなくす理由のひとつでした。おカネ関係の勉強をしていて貧乏っていかがなものか?と思って(笑)」

コロンビア大学大学院では1年余りを過ごしただけで退学し、日本に帰ることにした。

「全部の路地に行きたい」

「ただ、ニューヨークにいる期間を無駄にしないぞと思ってマンハッタン島内をさんざん行き来しましたね。さまざまな交通手段を試しました。浪人時代に御茶ノ水を散策しまくったのと、同じです。

私はマインドが根っからの不動産業者なんだと思います。『こういう機会にいろいろな人と出会いたい』とはならないんです。『全部の路地に行きたい』って思うんです」

そして24歳の時に日本に帰ってきた。家業である不動産業を継ぐことにした。

「その頃はいちばん迷走していた時期ですね。いわゆる自分探しです(笑)。海事代理士の資格を取ったり、フランス語をマスターしたり……目的もはっきりしないままに行動していました」

家業である不動産業といっても、駅前にあるような仲介業者ではない。物件を持つ大家だ。

物件を買って、人に貸し出して収益を得る。大島さんも実際に競売物件などを購入した。大家として新しい物件を仕入れるときに“訳あり物件”を引いてしまうのはなんとしても避けたい。訳あり物件とは具体的には「暴力団の事務所がある」「風俗店の待機所がある」「雨漏りがある」「階段状の道を通らないとたどり着けない」などなどだ。

その中の1つに「人が死んだ物件=事故物件」があった。

物件を探すときのチェック項目の1つとして気にするようになった。事故物件には専門家がいないため、全部自分で調べなければならない。調べてはデータをためていく。

「2005年9月、27歳の時にサイトを開設しました。最初は事故物件の住所が羅列してあるだけの単純なサイトでした。

翌2006年に、東京23区の事故物件を地図にプロットしてみました。炎が並んでいるのを見て『おお、これはすごい!!』と興奮したのを覚えています。それが現在のサイトの原型です」


「大島てる」初期サイトの画面はかなりシンプルだった

その頃はまだサイトを見ている人はほとんどいなかった。広告も貼っていないから、おカネも儲からない。とにかく出費だけがかさみ、手間がかかった。

もう一度やれと言われたら嫌

ある寒い冬の夜、死者が出た横浜の火事現場を探すためにひとり自動車で出掛けた。しかしなかなか現場が見つからない。


事故物件イメージ(筆者撮影)

火事場の焦げくさいにおいで場所を探ろうとして、くんくんと鼻を鳴らしている時、

「何をやってるんだろう……」

と思った。

サイトをやっていても、誰にも褒められず、誰にも怒られない。むなしかった。

「本当にキツかったですね。もう一度やれと言われたら嫌です。当時は『これは仕事だ』と言い訳のように言っていましたが、実際には1円も稼げていませんでしたし……。

でも『大学院をやめたところじゃないか。もしこのサイトまで投げ出したら、今後何をしたってモノにならないぞ』と自分に言い聞かせました」

2009年9月。サイト開設からちょうど4年が経った時、編集者、漫画原作者などで活躍している竹熊健太郎氏が、自身のブログ内でサイトを紹介した。その後、ネットニュースでもサイトが紹介され、ヤフーニュースのトップになった。

「アクセスが集中しサイトのサーバーがダウンしました。当時は不動産業界からの圧力に屈したと言われましたが、圧倒的なアクセス数があったから落ちただけでした。

きっかけをつくってくれた、竹熊健太郎さんには本当に心から感謝しています」

そこからは順調に知名度を上げていった。

その後、ツイッターのアカウントを作ったり、事故物件のイベントに出演し始めたりしたが、一つひとつの新しい動きを大勢に周知させるのは、本当に難しいことだと身にしみて感じている。

年々サイトの規模は拡大している。


有名になるにしたがい、大島さん自身もメディアに登場することが増えていった(筆者撮影)

2011年には運営側が一方的に情報を提供するサイトから、投稿サイトに移行した。対象地域は、当初は関東だけだったが、日本全国になり、全世界に広がった。サイトが有名になるにしたがい、大島さん自身もメディアに登場することが増えていった。

「家業の不動産業から撤退することにしました。サイトで儲かったから不動産業はいらなくなったというワケではありません。事故物件サイトを運営しながら不動産業にも携わっていると『どうせ自社の物件は載せないんでしょ?』と疑念を持たれます。利益相反の問題からも辞める必要があったんです」

もともとは不動産業のために作ったサイトだったが、結果的にサイト運営が本業になった。ただ不動産業界では早くから大島てるの名が知られていたため、

「大島てるが手放したい物件ならやめておこう」

と思われてしまい、なかなか買い手がつかなかったという。もう不動産業にはまったく労力をかけていないが、いまだに処分できていない物件もある。

有名になったため、攻撃の対象になるケースも

サイトが有名になったため、攻撃の対象になるケースも発生した。

あるマンションの地権者から「名誉毀損」だと民事裁判で訴えられた。サイトから情報を削除することと、謝罪広告を出すことと、100万円以上を払うことを求められたが、大島さんは応戦した。弁護士をつけずに自分自身の手で訴訟を進めた。

「私には引くという選択肢はありませんでした。そして、戦わずして勝つのではなく、戦って勝って相手を潰さなければなりません。そうしないとほかにもまねして訴えてくる人が現れるからです」

裁判は大島さんの完全勝訴で終わった。

それ以降、裁判で大島さんを訴えてくる人はいない。しかし、また新たな問題も起きた。

大島さんがいちばん面倒くさいと思ったのは、パクリサイトだった。やめさせるには、大島さん自ら訴え出なければならない。これはとても手間がかかる。まず訴える相手を探すところからはじめなければならない。

どうしようか手をこまねいていると、2011年の震災以降、パクリサイトの更新がパッタリとやんだ。理由はいまだにわからない。

ツイッター上で殺害予告

そして2017年にはツイッター上で、男に殺害予告をされた。彼の殺害予告の言い分は、

「小学校時代の同級生が自殺をした。その物件が“大島てる”に載っている。包丁を買って管理人を殺しに行く」

というものだった。

「首を生きたままゆっくりと切り落としたい」

「断末魔を聞きながら日本酒が飲みたい」

など、かなり猟奇的な表現も含まれていた。

「そのツイートは私が検索をして見つけました。当たり前ですけど、すごく怖かったですよ。どこの馬の骨かもわからない人に殺すと言われているわけですから。すぐに警察に通報しました」

警察には安全のためホテルに泊まりなさいと言われた。もちろんホテル代は大島さんが自腹で支払わなければならない。

大島さんがゲストで出演する予定だったイベントは出演をキャンセルされた。大島さん主演のイベントも中止になったものもあるし、開催されたイベントも店内に警察官が配備され、手荷物検査が実施されるものものしい雰囲気になった。損害は大きかった。半年という時間はかかったが、容疑者は脅迫罪で警察に逮捕された。彼は取り調べで、自白したという。

「いつかは嫌がらせされるだろうと覚悟はしていました。もしも警察が犯人を逮捕しなかったらマズかったですね。『SNS上で殺害予告したって捕まらないんだ』と解釈するやからがたくさん現れたかもしれません。本当に逮捕されてよかったです。

私を批判する人間に言っておきたいのですが、サイト“大島てる”は個人サイトではありません。そもそも私自身はまったくと言っていいほどコンピュータができません。たとえばエクセルも最近知ったくらいです(笑)。

私はいわばお神輿なので、たとえ私に何かしても“大島てる”にはほとんど影響はありません」

大島さんがテレビに出たり、イベントに出たりするのはサイトを売り込むためだという。

「布教活動のようなものです」と大島さんは語る。

見知らぬ人から殺害予告をされるのはとても嫌な経験だったが、それでも少しだけいいこともあった。

「批判が出るのは、そのサイトが役に立っているからですよね。どうでもいいサイトならわざわざ潰そうとはしませんから。とにもかくにもサイトの認知度が向上していると、確信することができました。

人が嫌がって手を出さないことをやる意義

ネガティブな情報を扱えば抵抗に遭うのは当たり前です。批判されるのを嫌がる人なら、手を出さないほうがいいと考えるでしょう。でも人が嫌がって手を出さないことをやる。そこにこそ意義があると私は思います」

大島さんの今の目標は、事故物件をもっと網羅していくことだという。

なるべくなら“大島てる”は事故物件を完全網羅した事故物件サイトにしたい。

「悲しいことですが日々事件・事故は起きて、事故物件も増えていきます。だからたとえ完備したサイトに仕上げても、翌日には完備性は失われます」

この日々変化していくという点は事故物件サイトの強みだという。たとえば『廃墟マップ』だったら、事故物件と同じくらい興味を引くかもしれないが、物件の数はほとんど増えていかない。見る人も一度見て満足するケースが多いだろう。

事故物件サイトは、同じ人が何度もリピートして見るという強みがある。

広告のクリックから収入を得るサイトにとって、リピーターはありがたい存在だ。

もし事故物件サイトの次にサイトを作るとしても、やはり地図上にネガティブな情報を掲載するサイトにしたいと大島さんは語る。

「たとえば食中毒を出したレストランの一覧だったり、暴力団の事務所の一覧だったりですね。でも当分の間は、事故物件サイトの完成度をより高めていきたいです。現状、サイトに載っている事故物件は氷山の一角ですから。

私も一兵卒の投稿者として投稿作業を頑張りますし、ユーザーの皆さんにもどしどし投稿してほしいです」

大島てるさんは、穏やかな外見で柔和なしゃべり方をする人だが、心には「おもねらない」「くじけない」強い芯を持った人だなと感じた。