日本の道路はなぜ左側通行なのか?(写真はイメージ)


 早いもので明日28日で2月は終わり。あさってからは3月だ。

 3月といえば雛祭りだろう。17世紀から全国レベルに拡がった年中行事である。現在では太陽暦の3月3日に設定されているため季節感がはっきりしないが、そもそも桃の節句と呼ばれるのは、旧暦の3月3日頃が、桃の花が咲く時期にあたっていたからだ(暦については、前回のコラム「『春節』を祝わない日本は不思議な国なのか?」を参照)。

 雛祭りには雛飾り。雛壇の最上段にはお内裏(だいり)様とお姫様。三人官女と五人囃子があって、その下の4段目に左大臣と右大臣が配置される。左大臣は正面から見て右側に、右大臣は左側になる。左大臣が向かって右側に置かれるのは、見る人の立場と、人形にとっての立場が逆になっているからだ。

 面白いことに、平安時代以来の日本の官職では、左大臣のほうが右大臣より位が高かった。漢字熟語だと「左右」というように左が先に来る。もともと漢字文明圏では、左のほうが右より優位にあるとみなしていたのだろうか。

 さて、日本では左側交通が交通規則として定められている。ところが、漢字文明圏では、中国でも台湾でも、韓国でもベトナムでも道路交通は右側通行となっている。左側通行は日本と香港くらいのものだ。となると、道路交通のルールは一体なにを根拠に決められて定着したのだろうか?

 今回は、道路交通に関する右側交通と左側交通について、歴史的経緯を踏まえて考えてみたい。

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植民地支配と道路交通規則の関係

 道路交通規則の現状がどうなっているか、まずは身近なアジア地域から見ていこう。西欧列強による植民地支配と密接な関係があることが分かるはずだ。

 中華文明圏のベトナムが右側通行なのは、ベトナムが、ラオスとカンボジアとともにフランスの植民地になっていたからだ。いわゆる「仏領インドシナ三国」である。大日本帝国による占領時代を除いて、1887年から1954年までフランスの統治下にあった。

 植民地では「文明」の名のもとに本国の制度がそっくりそのまま導入されていた。社会インフラや社会制度が本国の制度にならって導入され、その結果、植民地においては近代化イコール西欧化となった。

 中国が右側通行に統一されているのに香港が現在でも左側通行なのは、香港が「アヘン戦争」(1840年)以来、英国の植民地だったからだ。英国は左側通行である。1997年の「香港返還」後も、「一国二制度」のもと(タテマエとはいえ)香港の自治が50年間維持されることになったため、社会インフラに関しては返還前の制度がそのまま維持されているのだ。

 東南アジアのシンガポールやマレーシアも左側通行だ。いずれも「英領マラヤ」として大英帝国の統治下にあった地域である。植民地支配は18世紀から20世紀まで約2世紀に及んでいる。ブルネイもまた左側交通なのは、同じ理由だ。

 インドネシアとマカオも左側通行である。インドネシアとマカオは、それぞれオランダとポルトガルの植民地だった。オランダとポルトガルは右側通行の国だが、かつては両国とも左側通行の国であった。

 南アジアでは、インドとパキスタン、バングラデシュ、ネパールとブータン、そしてスリランカが左側通行である。これらの国々が英国のインド植民地だったからだ。鉄道の軌道に関しては「分割統治策」の観点から統一させなかった英国だが、植民地時代はモータリゼーション以前であり、左側通行がそのまま残ったということだろう。

 オーストラリアやニュージーランドも、また左側通行だ。実はこの2カ国は現在でもエリザベス2世女王を元首としている。国家元首の地位は名目上のものに過ぎないが、それでも制度上は立憲君主制なのである。これらの2カ国が左側通行であるのはきわめて自然なことだ。

ナポレオン戦争で右側通行が普及

 英国は左側通行だが、欧州大陸は基本的に右側通行である。欧州大陸が右側通行になった理由は、18世紀初頭のナポレオン戦争以降のことだ。

 ナポレオン率いるフランス国民軍に敗退し、その支配下に入った欧州大陸の諸国には、フランスが生み出したさまざまな諸制度が移転された。その1つが右側通行であった。ナポレオンは軍事上の必要性から右側通行を制度化し、道路標識なども導入していた(詳しくは拙著『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』の第5章8「『ナポレオン戦争』が『近代化』を促進した」を参照いただきたい)

 政治上の右翼と左翼の起源がフランス革命中の国民議会の座席の位置から来ているのとは違って、道路交通規則としての右側交通には合理的な理由があった。フランスで右側通行になった理由について、『舗装と下水道の文化』(岡並木、論創社、1985)という本の中に説明がある。要約して紹介しておこう。

 当時は馬車の時代であり、フランスでは4頭立ての馬車の場合、馭者(ぎょしゃ)は先頭の2匹の馬のうち左側の馬にのって制御していた。このため道路の右側を走行する方が馭者にとっては安全だったのだ(制御する馬が道路の中央近くにいることになるので)。19世紀の終わりから自動車時代が始まると、馬車にならって「右側通行で左ハンドル」という形に移行していくことになる。

 一方、英国では馭者は馬上ではなく、中央に位置する御者台に座って馬車を制御していた。利き腕の右手で右側の馬を制御する方が容易なので、左側通行が主流になったのだという。

 以上のように英国が左側通行、フランスが右側通行になった理由は、自動車以前の馬車の時代にあったのである。

 英国と同じアングロサクソンでありながら米国が右側通行になったのは、そもそも米国が英国から戦争によって独立を勝ち取った国であり、英国と米国の関係は長期にわたって反目し合っていたことを考えるべきだろう。米国に「自由の女神」を寄贈したのはフランスである。

 また、隣国のカナダが英国の自治領でありながら右側通行にシフトしたのは、米国と陸続きなためだ。

なぜ日本は左側通行になったのか?

 では、日本はどうか。

 日本は明治維新後に「近代化」の一環として近代的軍隊制度を導入した。近代的軍隊の創設にあたって、日本陸軍は最初はフランス陸軍、その後はドイツ陸軍にモデルを求めて制度設計した。当時はまだ自動車の時代ではなく、軍隊の移動や輸送には馬が使用されていた。

 先にも見たように、ドイツ陸軍は、基本的にナポレオン戦争後にフランスの制度をもとに設計されたプロイセン陸軍を中核としていた。そのため、当然のことながら最初から右側通行であった。よって、フランス軍、ドイツ軍をモデルにした日本陸軍が右側通行を制度として導入したのは当然のことであった。

 では、なぜ日本の道路は左側通行になったのだろうか?

 日本の道路が左側通行になったのは、1900年(明治33年)の「警視庁令」(道路取締規則)による。先にも触れた『舗装と下水道の文化』(岡並木)によれば、のちに初代警察講習所長となった松井茂は「特別な理由や研究に基づいたものではない。なんとなく左側通行がよいと考えた」からだったと回想しているという。

「なんとなく」という決め方に驚かされるが、さらに以下のようなエピソードが紹介されている。

 陸軍ではすでに右側通行が実施されていたため、警察としては右側通行を主張する当時の内大臣・西郷従道(西郷隆盛の実弟で日本陸海軍建設の功労者)を説得する必要が生じ、その任に当たった松井と西郷の間でこんな会話が交わされたのだという。

 西郷から左側通行の根拠を厳しく問われた末に、松井が「(左側通行には)別に理由はありません。ただこれだけですよ」といって左の腰から刀を抜くまねをしたら、「うむそうか、よかろう」といって西郷は承知したのだという。武士が左腰に刀を差していたから、ということらしい。松井氏自身がこのように回想しているそうだが、重要な決定というものは、案外こんな理由で決まってしまうのかもしれない。

 つまるところ、日本の道路が左側通行になったのは英国の影響ではないのである。左側通行ということで、なんとなく同じ島国である英国に親近感を感じる人は少なくないだろうが、単なる偶然の一致に過ぎないというのが真相らしい。

世界のスタンダードは右側通行

 とはいえ、世界の大勢は右側通行にある。国連加盟の主権国家193カ国のうち、現在でも左側通行の国は55国だ。これだけみても左側通行が少数派になっていることが分かるが、人口ベースでみればさらに少数派であることは歴然である。右側通行が世界のスタンダードであることは否定できない現状なのだ。

世界のスタンダードは右側通行(出所:Wikipedia)


 今年2018年は「明治維新150年」である。「国家百年の計」という観点からしてみれば、日本が1900年に左側通行を採用したことが果たして正解だったのかどうか考えざるを得ない。1900年の時点では、1950年代のモータリゼーションを予見できなかったのは仕方ないかもしれないのだが。

 日本の道路交通規則を左側通行から右側通行に変更することは、社会的混乱をもたらすため、可能性としてはきわめて低い。右側通行が世界の大勢とはいえ、日本は島国であり完結した小世界であると考えれば、その必要性も高くはないだろう。ただし、左側通行は右ハンドル車を意味するのであり、グローバルビジネスの観点からいえば、かならずしも有利であるとはいえない。

 社会制度の設計というものは、将来予測を踏まえて、よほど慎重に行わないと将来に必ず問題が発生する。左側通行の採用は、そんな事例の1つとして考えるべきだろう。

筆者:佐藤 けんいち