日本の歴史で「最恐の鬼嫁」とは一体誰か

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いつの時代にも存在する「鬼嫁」。自分より強いパートナーと、どう付き合えばうまくいくのか。歴史に名を残した英雄とその恐妻との関係を、歴史家・作家の加来耕三氏が解説する――。

■歴史上NO.1の「鬼嫁」は誰か?

日本の歴史上“最恐”の鬼嫁を1人挙げるとしたら、満場一致で北条政子でしょうね。

“平家にあらずんば人にあらず”の時代、伊豆に流されていた頼朝は、北条時政の長女、政子といい仲になります。ただ、時政は平家をおそれて娘を地元有力者に嫁がせた。親の決めた結婚ですから、普通は従います。しかし、政子は自分の意思で嫁ぎ先から頼朝のもとに逃げ帰ってきた。地元有力者の恨みを買って追い詰められた頼朝は、以仁王の乱をきっかけに挙兵せざるをえませんでした。頼朝は頭はいいけれど、度胸がないタイプ。奥さんに尻を叩かれていなければ、伊豆の流刑地で一生を終えていたでしょうね。

政子は性格も苛烈でした。頼朝は浮気性で、政子の妊娠中に妾をつくりました。政子は怒り、妾の家を焼いてしまいます。昔から男絡みで女同士が争うケースはありましたが、せいぜい物を投げあって終わる程度。しかし、政子は本気で襲わせた。これでは頼朝も尻に敷かれますね。

頼朝は北条家の力を借りて頭角を現し、ついには鎌倉幕府を開きます。おそらく頼朝は、「自分は鬼嫁をうまく利用してきた」と思っていたのでしょう。しかし、実際に掌で転がされていたのは頼朝のほうです。

じつは鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』は真ん中の部分が欠けており、頼朝が死んだ原因が直接記載されていません。回想シーンで「馬から落ちてほどなく亡くなった」と書いてあるだけ。本当の死因については諸説ありますが、最有力は政子に殺された説。政子はその後、北条家のために実子をも手にかけたともいわれています。そのことを考えたら頼朝を殺すくらい何でもなかったでしょう。

鬼嫁を操縦しきれず自滅した頼朝と比べると、うまくやったのが豊臣秀吉です。妻の北政所に鬼嫁のイメージはないかもしれません。しかし、北政所は豊臣政権の共同創業者。加藤清正や福島正則など秀吉の子飼いは実質的に、北政所の息がかかっていた。朝鮮出兵から帰国したときも、まっ先に挨拶に行ったくらいです。

■恐妻家で偉くなった、男たちの共通点

秀吉は北政所の影響力を認めていたので、生前よくご機嫌取りをしていました。神経痛だと聞けば、あそこの温泉がいいと手紙も書いた。ただ、最後は老人性の認知症が進んだこともあって、操縦しきれなくなった。秀吉の死後、北政所は家康について、加藤清正らも従いました。それが関ヶ原の勝敗を分けたのです。

鬼嫁の扱いについて、頼朝や秀吉を上回る巧みさを見せた男もいます。お江(崇源院)を妻にもらった、徳川2代将軍の秀忠です。世間では、秀忠は2代目の暗愚な将軍で、お江は将軍を尻に敷く高慢チキな女性という印象があるかもしれません。たしかにお江は織田信長の姪、豊臣秀頼のおばという血筋。秀忠より6歳年上で、お江自身は3度目の結婚となれば、カカア天下なところもあったのでしょう。ただ、お江の鬼嫁ぶりは、秀忠にノセられてやっていた面があった。根っからの鬼嫁というより、秀忠の掌の上で鬼嫁を演じさせられていたのです。

秀忠は聡明だった、というのが私の評価です。徳川幕府が長期政権になったのは「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」といった法律が機能していたから。つくったのは秀忠です。これはお飾りのボンクラ将軍では無理。また、秀忠は福島正則など、豊臣ゆかりの大名を次々に改易させました。これも家康の時代にはできなかったことです。

さらにすごいのは、これらの政策を家康の名前でやったという点です。自分が前面に出て強権をふるえば、何かと軋轢が起こる。そこで自分は陰に徹して徳川幕府の礎をつくり、3代目の家光に引き継がせた。お江が鬼嫁だというイメージも、おそらく秀忠が凡庸さを装うための演出。恐妻家を演じることで、自分を目立たない存在にしたわけです。

秀忠はお江を恐れて側室を持たなかった、といわれています。しかし、普通に浮気はしていた。のちに会津松平家初代の保科正之は、秀忠が女中に手をつけてできた子どもです。

頼朝や秀吉のようにリスクを取りつつ鬼嫁の力を利用するか、秀忠のように鬼嫁を自分の隠れ蓑に使うか。アプローチは違いますが、歴史をつくる男たちに鬼嫁は欠かせない存在なのです。

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▼歴史を大きく動かした鬼嫁2タイプ
名実ともに旦那を従える「真の猛女」
北条政子(1157〜1225)
鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻。頼朝の死後、2代将軍の実子・頼家と対立し幽閉させた。頼家はその後、北条の兵に討たれる。3代将軍に次男の実朝をつけたが、執権となった父、北条時政が実朝殺害を目論んだため、出家・隠居させた。実朝の死後は、実質的に将軍代行となり「尼将軍」と呼ばれる。朝廷と幕府の関係が悪化して、後鳥羽上皇が弟・義時追討の宣旨を出したときは、動揺する御家人を前に名演説を行い、幕府軍の士気を高めて勝利に導いた。
聡明な旦那がつくりあげた「仮面恐妻」
お江(崇源院)(1573〜1626)
浅井長政の三女。母は信長の妹お市で、姉の茶々(淀殿)は秀吉の側室となり秀頼を産んだ。お江自身は、のちに江戸幕府2代将軍となる徳川秀忠の正室となり、2男5女をもうけた。長男の竹千代(家光)より次男の国松(忠長)を溺愛。国松を3代将軍にしようと画策し、竹千代の乳母・春日局と対立。家康の裁定で家光が将軍になるが、こんどは家光のお世継ぎ問題が勃発。大奥を舞台に春日局とバトルを繰り広げた。

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加来耕三(かく・こうぞう)
1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業後、同大学文学部研究員を経て、現在に至る。「歴史研究」編集委員。テレビ・ラジオ番組の監修・出演に加え、著書も多数。近著に『坂本龍馬の正体』(講談社+α文庫)。
 

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(歴史家・作家 加来 耕三 構成=村上 敬)