東京の勝ち組女である“港区妻”に、実は純然たる階級がある。頂点に君臨するのは、名門に生まれた生粋の「東京女」。

一方、結婚により港区妻の仲間入りを果たした女もいる。地方出身で元CAの桜井あかりも、そのうちの一人。

順風満帆な人生を歩んできたあかりが次に挑むのは、慶應幼稚舎受験であった。

信頼する友達・凛子の計らいで紹介制の個人教室を訪れると、美貌の講師、北条ミキに、旬の素質を指摘され、幼稚舎受験に心が傾く。

しかし玲奈と百合は、あかりの甘さを指摘、幼稚舎出身の玲奈のお茶会に呼ばれたあかりは、レベルの違いに愕然とする。悩むあかりだったが、凛子に叱咤激励され、受験を決意。

そして半年後、受験の天王山と言われる7月を迎えた。慶應幼稚舎説明会に向かったあかりと修司は―。




「さすがの環境だったなぁ……。校内に並んでた動物の剥製や化石、本物だろ?標本もすごかったし、子供たちの油絵も上手だった」

幼稚舎を出て、古川橋近くまで歩いたところでタクシーを拾うと、修司は興奮冷めやらぬ様子でネクタイを緩める。

どうなることかと心配していたが、講堂で舎長の話を一生懸命聞いてメモを取る修司の姿が、あかりには嬉しく、心強かった。

「ほかにもいくつか説明会行ったけど、校風に関して言えば幼稚舎が一番旬にあってる印象だわ。おおらかで子供が得意なことを思う存分伸ばす、っていう信念を感じたね」

あかりも紺のジャケットを脱ぎながら、講堂で聞いた話を思い返す。

「幼稚園のお友だちって、玲奈ちゃんと、凛子さんだっけ?すれ違ったけど、俺挨拶しなくてよかった?」

「うん、いいのいいの、目立っちゃったら迷惑だろうし。実は、受験するって聞いたことない幼稚園のお母さんたちが、いっぱいいたんだよね…」

最初は、声をかけようか迷った。しかし何人かの母親と会ううちに、あかりはある事実に気が付いたのだ。


まさかあなたが…?あかりに容赦なく視線が刺さる!


勇敢か、無謀な挑戦か。そして究極の夏休みが始まる


彼女たちの刺すような強い視線を感じたあと、あかりは皆が視線を逸らすことに気づいた。

お互い見なかったことにしようという合図なのか、あるいはあかりがこの場にふさわしくないと暗に糾弾しているのか。

どちらとも見当がつかなかったが、校内見学の長い列で凛子とすれ違い、そっと合図を交わす頃には「どちらでもいい」と落ち着いていた。




「先ず獣身を成して後に人心を養う、だっけ……?福澤先生の教育理念。まずはたくましい体力と精神力、その土台の上に教養を身に着けるってことだよね。

昔きいたときはふーん、て感じだったけど、社会に出て仕事してると、腑に落ちるなあ」

配られた冊子を読み返しながら、しきりに感心している修司に、あかりは以前の自分を見ているようで笑いがこみあげてきた。

この半年間、福澤諭吉の著書を読み込み、あかりなりに幼稚舎の理念を理解しつつあった。しかし修司はまだ知らない。この戦いが、どんなに絶望的で、無謀な挑戦かを。

…でも、知らなくていいのだ。修司も、当の旬さえも。

水面下の準備と努力、お膳立ては自分の仕事だと、あかりは腹を括っていたのである。



「では慶應幼稚舎対策講座を受講されているお母様、こちらにどうぞ」

あかりは20人ほどの母親に続いて、教室に入った。

「そろそろ大手のお教室にも行って、場慣れと力試しに行きましょう」と北条ミキが勧めてきたのは、広尾にある大手の教室だった。

広尾の幼稚舎対策夏期講座はすぐに満員になると聞いていたので、なんとか受講できてほっとしたものの、その値段を見てため息をついた。

いくつかの講座を組み合わせれば、夏休みだけでここに最低50万円ほど払うことになるだろう。

対策合宿に行き、他の学校の受験も視野に入れれば100万円だってあっと言う間だ。

講座を厳選しよう、とパンフレットに目を落とすと、50歳前後の痩せた男が入室し、ホワイトボードの前に立った。どうやらここの講師のようだ。母親たちが一斉にお辞儀をする。

「それでは幼稚舎受験生のお母様、お子様の男女別、生まれ月順に並んでください。今から夏休みの旅行先と内容について指示します」

旅行先と内容…?訳が分からず、あかりはそっと周囲を見回す。


指示通りの場所に旅する!?その衝撃のミッションとは?


幼稚舎本番と同一グループ同士。教室が用意した驚きの指示とは?


皆待ってましたとばかりに素早く移動をしている。あかりも急いで、右から2列目、5月生まれのグループに加わった。

講師が4月生まれのグループと何事かを相談している間、隣に座った紺ワンピースの女性に小声で尋ねる。

「私、普段はこのお教室に通っていなくて…あの、夏の旅先の指示って?」

「幼稚舎は、夏の思い出という絵画テーマがよく出るんです」

「それは知ってます、海でも山でも、その場でテーマに対応できるように、両方あるところに行っておくのがベストなんですよね?」

そこまで話したところで、男性講師がファイルを手に、5月生まれグループにやってきた。

「それでは皆さんご存知の通り、本番は生まれ月順に受験番号が与えられますから、ここにいる方々は当日も同じグループであることが予想されます」

あかりは思わずぎゅっと手を握った。幼稚舎対策に定評のあるこの教室は、合格者の多くを輩出している。受験の日の顔ぶれと、そう変わらないのだ。

「当日、絵の内容がグループ内でかぶらないように夏休みの旅行先を割り振ります。鮮やかな色彩、特徴的な動物や魚がいて印象的な絵になるところをピックアップしました。まず正木さんはコタキナバル」

コタキナバル…。元CAのあかりは、とっさにマレーシアの地図を思い浮かべる。指示された母親は、必死でメモをとっていた。

「そこからボルネオ島のオラウータン保護区に行ってください。大きくてカラフルな昆虫を捕まえることも忘れずに。テングザルも絵に書きやすいですね」

他の母親が羨ましそうに見ている。講師は事務的に次の母親に告げる。

「木村さんはケアンズでお願いします。亜熱帯雨林の様子が描けるようによく見てきてください。キュランダ鉄道も必須です。海バージョンとして、シュノーケリングでカラフルな魚を、図鑑を見ながら探してください」




「あの、うちはゴールドコーストに別荘があって、行こうかと思うんですが、大丈夫でしょうか?」

横から入ってきた質問にも、講師は淡々とうなずく。

「では高橋さんはバイロンベイでイルカと一緒に泳いでください。高い山がないので、車で洞窟の土ボタルか、飛行機で行ける日程の余裕があればエアーズロックに行って朝日を見てきてください」

あかりは困惑した。修司はせいぜい5日くらいしか連休がとれそうもない。この人たちの夫は、サラリーマンではなく自営業ということなのか。

「あの、すみません…国内でどこかいいところはありますか?」

あかりは思い切って手を挙げた。恥ずかしがっている場合ではない、何としてもアドバイスが欲しかった。

「では桜井さんは西表島に行ってください。亜熱帯ジャングルをとにかく歩いて。自分の足でイリオモテヤマネコを楽しく探してください。マングローブ林のカヤックも必須です。シュノーケリングでは必ずウミガメを見つけて一緒に泳いでください」

あかりは必死に、手帳にキーワードを書き込む。西表島。イリオモテヤマネコ…って簡単に見つかるものなのか。

天王山の夏休みは、始まったばかり。予算も上方修正が必要だった。

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本番に向けて準備はヒートアップ!そして思わぬ敵があかりの前に現れる!?