―大好きな吾郎くんが、私と結婚してくれたー

数々の苦難の末に、結婚願望のない男・吾郎との結婚に辿りついた英里。

結婚はゴールでないことなど、百も承知。

しかし、そんな二人を待ち受けていたのは、予想を上回る過酷な現実であった。

愛し合っていたはずの夫婦は、どのようにすれ違い、溝ができてしまったのか。

男女の価値観のズレ、見解の相違、そして、家庭外での誘惑...。

これは、“新婚クライシス”に陥った悩める吾郎を傍観し続けた同僚・松田の、ちょっとした小話である。




―あぁ、疲れた。はやく帰りた.........くねぇな......。

夜のオフィスにて、仕事に一区切りついた松田は、首を伸ばして吾郎の席を覗き込む。

だがその席はすでに空であり、心にピュウと冷たい風が吹いた。

少し前までは自分と同じくデスクでダラダラと過ごしていた吾郎であるが、“新婚クライシス”を脱した途端、彼は元来のワーク・ライフ・バランス重視の生活に戻ったらしく、サッサとオフィスを去ってしまう。

「松田先生、どうしたんですか。そんな亀みたいに首伸ばして」

振り向くと、ナオミが立っている。

スーツから覗くピチピチの美脚に一瞬見入ってしまうが、彼女の目に蔑みの色が浮かんだため、急いで咳払いした。

そういえば、ナオミもいつも一人で遅くまでオフィスに残っている。

「あ、いや別に......それよりナオミちゃん、お腹空いてない?メシでもどうかな。奢るよ」

「私が?松田先生とお食事ですか?今から?」

「あ、もちろん都合が悪かったら無理しなくても...」

ナオミは威圧的なオーラを発したまま、無言でこちらを見つめてくる。

彼女のこういう仕草が吾郎と似ていると思うのは、自分だけだろうか。松田の周囲は、なぜだか強気な変わり者ばかりである。

「...焼肉なら」

しかし数秒後、ナオミは口を尖らせて小声で答えた。

猛獣の手なずけは得意な方であると、松田は自負している。


ドMな松田大先生。ナオミにタジタジ


面倒見のいい、松田大先生


「松田先生も、“新婚クライシス”のご経験とかあるんですか。吾郎先生のお節介ばかり焼いて」

『銀座コバウ』にて、ナオミはこの店の名物“サーロインの一枚切り”をパクッと口の中に放り込みながら言った。

コース内の肉だけでは足らず、霜降り肉を次々と追加していく彼女の姿からは、まさに20代相応のパワーを感じる。30代も半ばに達した中年の胃袋では、とてもナオミのペースについていけない。

「クライシスも何も、ウチは常にクラッシュ状態だよ」

誇張でも謙遜でもなく、何気なく口から出た本心だった。が、ナオミは突然スイッチが入ったようにギロリとこちらを睨む。

「そうやって自虐っぽい発言をするのが、美徳とでも思ってるんですか」

「えっ?い、いや、別に深い意味はないよ...ほらほらナオミちゃん、俺はもうお肉はいらないから、食べて食べて」

一体この会話のどこに地雷があったのか全く不明だが、松田はナオミのアグレッシブな態度に尻込みし、ついヘラヘラと肉を焼いて差し上げる。




「...吾郎先生って、男性から見たら、結婚向きの男ですか?」

ナオミが、明らかに寂しそうな声を出した。

その美貌と若さゆえ、自分と似た節のある年上の吾郎に良くも悪くも懐いていたのだろう。奴も罪な男である。

「まぁ、俺が女だったら、あんな奴の嫁になるなんて絶対に勘弁だけど...、吾郎はアレで、意外とピュアだから。嫁さんのことは大切にするんじゃないかな」

「...ふぅん。そうですか」

―素直じゃないけど、きっと、この子は寂しいんだろうな。

ナオミは、アメリカ人の男と別居婚をしている。黙々と肉を頬張る小生意気な彼女を見ていると、松田は何となく妹でもできたような親しみと同情が芽生えた。

「松田先生の奥様のウワサって色々聞きますけど、元々は秘書さんだったんですよね。なのに、尊敬されてないんですか」

しかしナオミは突如顔を上げ、すぐに強気な姿勢を取り戻す。

「たぶん...されてないね。稼ぎも悪くないし、家事もするしさ、なかなか優良な旦那だと思うんだけどなぁ。吾郎みたいにイケメンじゃないけど、愛嬌はあるだろ?あはは...」

「何ですかそれ。バッカみたい。でも松田先生って、ムダに女の我儘や高慢を引き出す“何か”がありますよね」

張りのある若い肌には少々不釣り合いな眉間のシワを作り、ナオミは攻撃的に言い放った。彼女の既婚男への毒舌の裏には、何か理由がありそうな気がする。

だが、深掘りなんて野暮なマネはするまい。

自分がサンドバッグになることで彼女の何かが少しでも発散されるならば、それでいいのだ。

「まぁ...なんて言うか、男って、女の人には絶対に勝てない生き物だからさ」

そう。自分が至極女に弱い性格であることは、とうの昔から分かり切っている。

松田は年の離れた姉3人に囲まれるという、性別的に圧倒的劣勢な環境で育った。きっと生まれながらにして、女にコキ使われる運命なのだ。

そんな自然の摂理に、もはや抵抗する気などなかった。


とうとう噂の「ポンコツ嫁」が登場?!


噂の“ポンコツ嫁”


白金にあるタワーマンションの自宅のドアを開けると、山積みのダンボールとゴミ袋で視界が覆われた。

“家に入る前に、まずゴミを捨ててこい”

という意味である。

出不精の嫁・春子は食品や消耗品の買い物は基本インターネットでオーダーするため、こうして毎日ダンボールが溜まっていくのだ。

しかし春子は、同フロアにあるゴミ捨て場が“苦手だ”と言い張り、ゴミ捨ては松田の担当になっている。

松田はいそいそとダンボールを解体し、ゴミ捨てを済ませてから玄関に上がる。

靴をしまおうと靴箱を開くと、今度は視界が真っ赤に染まった。

ルブタンである。

その数を数えるのは恐ろしいが、1足約10万円として、この靴箱の中にはちょっとした資産が形成されているはずだ。

松田の革靴を置くスペースは皆無だが、そんなことを嫁に告げたならば、「じゃあ広いシューズクローゼットのある部屋に引っ越そう」となるため、グッと堪えて自分のスニーカーの上に革靴を重ねた。

「ただいま...」

「おかえり」

春子は革張りのソファに寝っ転がりながら、こちらを見もせずに言った。海外ドラマに夢中なのだ。

その膝にはペットのトイプードル(嫁いわく“ティーカップ・プードル”)が寛いでいるが、我が家のヒエラルキーのトップは、この犬である。

その名はココ。ココ・シャネルから名付けたという名前に相応しく、この犬のトリミング代は松田の床屋代の軽く3、4倍かかり、輸入モノの服やオーガニックフードが与えられ、そして躾け教室にまで通い、やたらと贅沢に暮らしている。

しかも、ココのトイレ掃除は松田の係であるのに、この犬は嫁にしか懐いていなかった。




「ねぇ、チョコ」

「はい?」

着替えを済ませてリビングに戻ると、春子がボソッと呟いた。ドラマ鑑賞のお供にチョコレートを買いに行けという指示であろうか。

―…一家の大黒柱の帰宅後に、その言い方はないだろう!!

と、たまには怒鳴って威厳を見せつけてやりたい。なんて思ったが、春子は意外な言葉を口にした。

「そのテーブルの上にあるチョコ、あげる。先週バレンタインだったでしょ。渡しそびれちゃったから」

テーブルに視線を落とすと、そこには嫁の言う通り、可愛らしい小箱が置いてあった。

「は、はるちゃん...」

滅多に嫁からプレゼントを貰うことなどない松田は急に嬉しくなり、嫁の寝転ぶソファの端に座る。

「ねぇ、はるちゃん。俺も膝枕したいな...」

「ココがいるからダメ」

「じゃ、じゃあ、肩に少しだけ寄りかかってもいい?」

「...別に、ちょっとならいいけど」

無愛想の中にほんの少しだけ優しさが混じった春子の声で、松田のテンションは一気に上がる。誰に何と言われようと、このツンデレ春子は自分にとっての“プレシャス”なのだ。

「てか、ホワイトデー忘れたら、タダじゃおかないからね」

「もちろんだよ。俺が忘れるわけないじゃん」

「私、もう一匹犬が欲しいの。よろしくね」

「えっ...」

ということは、自分の家庭内の地位はまた一段下がるのだろうか。

まぁ、それでもいい。広い心で受け止めよう。

願わくば、来世では吾郎のようなイケメンのキレキレな男に生まれ変われるよう祈るだけだ。

ーそういえば...アイツ、今日は様子がおかしかったな。

そこで松田は、ふと吾郎のことを思い出した。

GWに控えたハワイの挙式について尋ねると、妙にソワソワと言葉を濁らせたのだ。また余計な屁理屈でも言って、あの可愛い嫁さんと仲違いでもしたのだろうか。

だが、式が中止になるのは困る。どんなに本人に嫌がられようとも、松田は吾郎の晴れ姿を現地で見届けるつもりなのだ。

ーアイツは、本当に俺がいないとダメな奴だな。また話を聞いてやるか...。

松田は手のかかる吾郎についてニヤニヤと思案に暮れながら、春子に「重い」とヒジテツを食らうまで、その肩にピタリと寄り添っていた。

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英里の“ブライダルチェック”にまさかの結果が...?吾郎の決断は...?!