ふとしたきっかけで、ミシンの原点が「編み機」にあると知り、なるほどと感心しました。

 「機織」という技術は、それこそ古代から存在するわけで、人類が毛皮でなく被服を着るようになって以来、メカニズムというものの原点は「おりばた」に由来する経緯は知っていました。

 この「経緯」という言葉も実は織物由来です。確か高校時代、英語の副読本で「Everyday Inventions」といった名のテクストを読まされ、フォークとかタイプライターとかと一緒に、その発生を知った記憶があります。

 しかし、織物は機で織るとして、出来上がった布を縫うのは人間の仕事。あるいは、羊の毛を刈って糸を紡いだ後、それを編むのは人間の仕事・・・。

 そんなふうに、善くも悪しくも区分けして、何千年もの間、私たちの祖先は何も不思議に思わなかった。

 それが、ちょっとしたことで、あらゆる枠組みが変わってしまった。糸偏のイノベーションについて、少し考えて見ましょう。

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「ミシン」の由来

 それにしても「ミシン」という言葉の由来が可笑しい。マシン「Sewing machine」の何をどう聞き違えると「みしん」となるのか?

 日本に初めてミシンが持ち込まれたのは1853年、ペリーが黒船に乗せて持ってきたもので、最初の「みしん」は将軍家に献上されたそうです。

 実際に触ったのは当時の大奥の主、将軍家定の正室で薩摩島津家出身の篤姫だったそうです。

 外人と実際に交渉した幕府関係者が

 「&%$# めし〜ん」みたいなアメリカ英語を 「み、みしん?」と聞いたのかと思われます。「sewing」は、日本語に存在しない母音すぎて聴取不能だった可能性があります。

 結果的に「machine」は「みしん」として日本語に定着した。しかし、それが本当の意味で日本社会に定着し、さらに日本の輸出商品の戦力となるには、その後約1世紀を要しました。

縫製機の「コロンブスの卵」

 さて、冒頭にも記した通り、機織機は太古の昔からあったけれど、布を縫うのは人間の役目、と相場が決まっていた。

 これが転倒し、機械縫いという概念が定着するには、いくつかの契機がありました。

 第1は「編みもの機」の発明、それまで編み棒や編み針を使って、毛糸を絡みつけて手で縫っていたものを、自動的に「結び目」を作り出すシステムを使って、実に効率よく編み上げていくシステムが16世紀末、英国で考案された。

 ここで改めて考えてみていただきたいのですが、和裁でも洋裁でも、人間が針と糸を使って手で縫うというとき、基本的に

 「糸を布に通して縫い進めていく」

 わけですね。ところがミシンは本質的にこれと違って、

 「糸を布に編みつけてゆく」

 つまり、糸1本のほかはすべて布の「編み物」のような、特殊な形で「結わえつけている」断続的にノードつまり結び目を作りながら、縫い進めていくという意味で、縫製の方法が根本的に違う=「一ひねり」されている。

 こんなふうに思うまでは、小学校時代の家庭科で、ボビンに糸をどうたらこうたら、といった面妖な詳細、全く興味を持ちませんでした。

 しかし、これは結び目トポロジーの原型なんだと気づいてから、物理っぽい興味で、私は俄然面白いと思うようになりました。人間なんてゲンキンなものです。

 さて、ミシンによる機械縫製が、実は「縫い」というより「一本編み」に近い原点を持ち、一ひねりした「結び目」で布と布を結わえつけながら縫い進めていくという、従来と根本的に異なる特徴を持つことを確認したうえで、どうしてこれが普及していったのか、もう2段の進展を見てみたいと思います。

 19世紀初年のナポレオン戦争の時期、ドイツの靴職人B.クレムスが近代ミシンの原型を考案します。彼は

 「先端に穴のあいた針」

 を考案したのでした。これは頭が良い。靴というのは皮と皮を縫い合わせます。元来が繊維ではないし、一つひとつ結び目を作って縫製するという、ミシンの方式は、実は靴など皮革製品では古くから「一つひとつ結わえつけていく」という考え方で定着していた。

 クレムスは、針のお尻の方に穴をあけるのではなく、針先に穴をあけて分厚い皮を突き通し、先端が貫通した時点でさっと結んで、すぐ次に進めば効率的だということに気がついたわけです。

 言ってみればコロンブスの卵のようなものですね。常識の盲点を突いた。そして、これが当たった。

 折しもナポレオン戦争期、つまり「諸国民の解放戦争」と言われるようにフランス革命が全欧州に伝播する時期で、また産業革命とも時代が重なっています。

 さらに言えば、ナポレオンが組織した「国民軍」により、従来は一部の軍人だけが武力を掌握していたのに対して、通常の農民や職工も徴兵制度によってリクルートされ、未熟練兵が銃器をもって突貫して行く、新しい戦争の形にシフトする時代にも当たっていた・・・。

 どういうことか?

 つまり、軍靴に大量のニーズがあったということです。

 靴だけではない。ナポレオン戦争以降、国民皆兵が19世紀の常識となるにあたり、今までは個々人ばらばらだった服飾が、軍服というユニフォーム=「制服」で統括管理される、新たな近代社会が現出しつつあり、

 「同じ仕様の靴や服が国家規模で大量発注される」

 という事態が19世紀初頭に生まれた。ここに「糸偏イノベーション」が大きく成長する端緒があったわけです。

 軍需産業と言うと重厚長大のイメージ、糸偏と言うとハト派な印象がありますが、実は産業革命で自動化の端緒となった織機に続いて、ミシンという縫製機械が産業として一大成長を遂げる過程には、産業革命、市民革命と並んで、国民軍の創成とユニフォームの大量生産という、特殊な事情が関係した面があるようです。

日本発イノベーションの逆襲

 こんな具合で19世紀、国民国家の成立、発展とともに成長したミシン産業は、世界の被服風俗と経済構造に様々な影響を与えます。

 日本に最初にもたらされたのは、先ほども述べた通り1853年ペリーの黒船が浦賀に来航した時期ですが、率直に言って明治、大正時代というのは、軍人とか警官などの制服組、あるいは都市の一部勤め人層を除いて、洋服は決して日本国民全体の被服として定着はしていなかった。

 和服は昭和期に入っても、日本人の日常服として市街で普通に見かけられるものでした。それが今日のような状況に変化する端緒が、明治後期、日露戦争後あたりに起こり、やがてグローバルにミシンの常識を変えるイノベーションへと成長していきます。

 1908年、明治41年は日露開戦から3年、まだまだ日本の庶民社会は江戸時代の名残を引きずっていました。

 そんな中、名古屋の安井兼吉は、当時壊れやすかった輸入物のシンガーミシンなどを修理、また販売する「安井ミシン商会」を創業、手堅く商いを伸ばしました。

 その安井健吉が大正末年にあたる1925年に亡くなり、6男4女の長男として、いまだ若干21歳の安井正義が起こしたのが「安井ミシン兄弟商会」で、ここから今日のブラザー工業の発展が始まります。

 ブラザーのミシンは壊れなかった。

 これは、欧米のメーカが単に形だけで金属部品などを考えていたのを、その硬さ、柔らかさなど糸や布地の物性を考え、仮に職人が手縫いしていたら「使いやすい」と言うであろう部品を開発、改良したのです。

 具体的には金属材料を部分的、段階的に焼きなましして粘りに変化をつけてメカを作った。

 日本ならではの細やかな職人の知恵が働いていた。

 舶来のミシンは、なるほど結構なシステムだ。ただ、ややざる勘定で乱暴なところがある。安井健吉は壊れた舶来のミシンを、国内で作り足した部品で修理修繕しながら、こんなだったらむしろ、最初から日本で作った方がいいと思ったに違いありません。

 それを少年少女だった安井家のブラザー&シスターたちは見て育ち、やがて「兄弟商会」として、世界に打って出ることになった。

 実際、その後のブラザー工業はグローバルなミシン界の歴史を塗り替えるとともに、戦後は多様なイノベーション戦略を展開、早くも高度成長期にはミシンからプリンター、ファクスなど、後のIT産業へとつながる多角化を進めます。

 独自の技術力でグローバルシェアを誇り、とりわけ欧州市場で圧倒的な強さを誇るのは、周知の通りです。

ブラザーが進めたイノベーションの内容についてはまた別途、機会があれば触れたいと思います。

 ここで強調しておきたいのは、技術の読み替えと社会のテクノロジーニーズへの敏感なアンテナ、そして思い切った舵取りの対応です。

 戦後早くも1947年に、ブラザーは家庭用ミシンの輸出を開始、糸偏景気がいまだ上り調子にある1950年代すでに先を見越して洗濯機や扇風機、タイプライター製造などに進出、ここからプリンター、ファクス、さらにはATMの現金受払い機などに展開しました。

 その一つひとつのメカニクスに、よく見るとミシンや編み機で培った機構技術の精華が反映しているのが分かります。

 例えば札束を数える、といった技術と、正確な糸繰りとの間には、摩擦など素材の物性を反映させて故障の少ないメカを作るべく、金属部品の焼きなましによる改良から徹底する社風の一貫性が感じられます。

 すでに手にした独自技術を読み替え、大胆な新マーケット開拓に乗り出す積極的な経営を展開、今日もその社風は続いているようです。

 初めてペリーが浦賀にミシンを持ち込んでから(1853)、ブラザーが独自技術の家庭用ミシンを海外輸出するまで(1947)その間94年、1世紀に足らぬ期間です。

 外来の技術で、何かと壊れやすかった「縫製機」を「絶対に壊れない日本製ミシン」に世代交代させたもの作りの原動力は、安井正義を典型に、明らか人材にあります。

 「人材協創」をスローガンに、私たちのグループも大学でプロジェクトを進めていますが、そこで一番問われるのは、舶来「縫製機」を確かな技術に高めるとともに、ミシンの技術を洗濯機にも扇風機にも、タイプライターにもプリンターにも展開していく、柔軟かつ戦略的な地アタマの力が、何よりも求められるように思います。

 考えてみれば、針の先端に穴を開けて糸を通すという、近代ミシン原点の読み替えこそ、楽に靴を縫いたいというドイツ靴職人、マイスター地アタマの最たるものと言うべきかもしれません。

筆者:伊東 乾