多くのラーメンファンに認められている「中華蕎麦 とみ田」(筆者撮影)

JR東京駅から上野東京ライン直行で約30分。JR常磐線と新京成線が通る松戸駅(千葉県松戸市)から徒歩数分。首都圏を中心とした多くのラーメンファンに認められる名店がある。「中華蕎麦 とみ田」である。

「とみ田」はなぜここまで評価されているのか

濃厚豚骨魚介のスープと自家製麺が特徴のつけ麺(メニュー名は「つけそば」)を看板メニューに全国のつけ麺人気店が集まる「大つけ麺博」で2年連続日本一、ラーメンデータベース全国1位、食べログは4.06点でラーメン部門全国2位(2018年2月5日現在)という高い評価を受けている。ラーメン界の中では最高権威とも言われる「TRYラーメン大賞」では大賞を4年連続で受賞、昨年、殿堂入りを果たした。


「中華蕎麦 とみ田」の店主、富田治さん(筆者撮影)

今年1月にはリニューアルオープン。店の中を全て作り直し、客席数を従来の10から9に変えた。同月には店主の富田治さんを追ったドキュメンタリー映画『ラーメンヘッズ』も公開され、海外の5つの映画祭でも公式上映された。行列の絶えない話題のお店だ。

「とみ田」がなぜここまで評価されているのか。富田氏の今まで歩んできた道を辿ってみるとその理由がわかってくる。

富田氏は茨城県笠間市出身。もともとは実家が経営している土木建築の会社を手伝っていた。


「つけ麺の生みの親」などと呼ばれ、日本でつけ麺を広めた故・山岸一雄さん(筆者撮影)

ラーメンが大好きで趣味でよく食べ歩きをしていた。「ラーメン二郎 三田本店」「べんてん」などによく通っていたそうだが、何と言っても大好きだったのが「東池袋大勝軒」だ。「つけ麺の元祖」「つけ麺の生みの親」などと呼ばれ、日本でつけ麺を広めた故・山岸一雄さんのお店だ。

山岸さんが厨房に立っていた頃、富田氏は足しげく通っていたという。富田氏は山岸さんを「マスター」と呼ぶ。

「いつも通っていて、ラーメンを作っているマスターがほんとにカッコよく見えたんですよね。それで、昼は実家の土木建築会社を手伝いながら、夜は茨城県笠間市にある『壱福家』というお店でアルバイトを始めました」(富田氏)

当時の大勝軒では、山岸さんの弟子として田代浩二氏が働いていた。後の富田氏の師匠にあたる人物だ。

ある日、知人から大勝軒が佐貫にできるという情報を得て、家からも近いので行ってみた。すると、厨房に立っていたのは東池袋でよく見かけていた田代氏だった。

仕事を辞め、田代さんの弟子に

家から近いこともあり、週末はよく「茨城大勝軒佐貫本店」(茨城県龍ケ崎市、現在は臨時休業中)に通っていた。アルバイトもしていてラーメン作りに凄く興味があったこともあり、厨房をよく覗いていた富田氏。ある日、田代氏から声をかけられる。

「君はラーメンが好きそうだね。よかったらうちに来ない?」

日本のトップである大好きな大勝軒から声をかけられた喜び。富田氏は仕事を辞め、田代さんの弟子となる。22歳のことだった。


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田代氏は後に「麺屋こうじ」というグループを作り上げる人物だが、当時は「茨城大勝軒佐貫本店」1店舗のみ。初めは店舗の2階に住み込みで修業をしたが、そのうち新店ができるようになるとその立ち上げに追われる日々が続いた。

店舗が増えていくと「味噌ラーメンをやりましょう」「野菜ラーメンをやりましょう」「今度は味噌にバターを入れましょう」とどんどん新メニューの話が出てくる。

一方、富田氏は大勝軒の伝統メニューであるつけ麺をこよなく愛しており、他のメニューに手を広げることには賛成ではなかった。


中華蕎麦 とみ田の外観(筆者撮影)

当時、茨城の2大巨頭として、「茨城大勝軒佐貫本店」と双璧を成す人気店があった。富田氏はその店に通うようになる。家族経営で、ひとつのレシピをずっと守っていくような店。その店主から誘われ、富田氏は店を移った。

ところが、思ってもみない問題が起こる。入社時に約束された給料は支払われず、仕入れに使っている車のガソリン代しかもらえない日々が半年続いたのだ。ラーメン作りを自分のものにしたい富田氏はそれでもがむしゃらに働くが、その後、人間不信に陥ってしまう。

味だけでなく人柄も大事だと気付いた

やむなく退職し、路頭に迷っていると、噂を聞きつけた田代氏から「うちに戻ってこい」と再び声をかけられる。富田氏は再び、田代氏の店で働くことになった。辞めた店には田代氏が一緒に頭を下げに行ってくれたという。

「ラーメンは味だと思っていたけど、人柄も本当に大事なんだなとそのとき感じました」(富田氏)

この思いは「東池袋大勝軒」の山岸さんが背中で語ってきた「ラーメンは豚ガラ、鶏ガラ、人柄」という教えに自ずと繋がってくる。

田代氏のもとに戻った富田氏は松戸の地で「大黒屋本舗」の店長を任される。昼は大勝軒系、夜は二郎系のラーメンを出す“二毛作”草分けの店だ。

ここに、グループの次期店長候補が研修に来るようになる。ただ、富田氏のここにおける再起動は決して順風満帆には進まなかった。富田氏は厳しい指導を行って何人も辞めさせてしまったのだ。ラーメンに真っすぐだったからこそ、という見方もできるのだが、富田氏は、このままでは田代氏の役に立てず、理想も貫けないと判断。田代氏と相談し、「大黒屋本舗」を閉店し、そのまま権利を買い取って独立することにした。

こうして2006年6月に「中華蕎麦 とみ田」が誕生した。

インターネットが少しずつ普及し始めた頃で、開店当初から話題となった。開店日から20〜30人の行列ができ、「ズームイン!!朝!」などテレビ取材も来て、人気は一気に加速した。

開店当初のラーメン・つけ麺は「大黒屋本舗」の昼に提供していた大勝軒系を少し濃くしたもの。これが現在のようにだんだんと濃くなっていくのだが、そのきっかけは「六厘舎」の濃厚豚骨魚介つけ麵。これに衝撃を受け、改良を始めて今の「とみ田」のつけ麺が生まれた。

いちばん美味しいと思うものを食べてほしい

特にスランプというスランプもなくここまで来た「中華蕎麦 とみ田」だが、富田氏は味を常に変え続けている。富田氏が毎日ブレンドする濃厚な豚骨魚介スープ、ピシッと向きの揃った自家製麺。締めのスープ割は、今年1月の店舗リニューアルを機に高級煮干スープに変更した。

「自分がやりたいことは素直にやりたいんです。自分が今いちばん美味しいと思うものを食べてほしいんですよね」(富田氏)


厨房に立つ富田氏(筆者撮影)

富田氏は開店から一貫して自ら厨房に立ち続けている。「旬の味」を常に出したいからだ。

「会社として大きくなっていくのはもちろんいいことですが、厨房には常に立ち続けたいです。この気持ちがぶれたらダメだと思っています。営業時間中は『ラーメン屋のおじさん』でいないと」(富田氏)

リニューアルで客席を減らしたのは、お客さん1人ひとりともっと向き合うための決断だったという。田代氏から学んだ「ラーメンは味半分、人柄半分」という理念は今も忘れない。

「おカネを払って美味しいのは当たり前で、そこに+αの付加価値がなければ続かないと思っています。マスターが大事にしてきたように、人との触れ合いを本当に大事にしています」(富田氏)。

これからの課題はやはり後継者だ。

「味」(レシピ)は決まったものを教えればそれで済むが、それ以外の「人柄」の面をどう教育できるかが重要だという。お客さんと向き合う姿勢、商売の基本をどう教育するか。

富田氏は挫折の中で師匠の背中を見ながら学んだ。これをどう弟子たちに伝えていくか。決して簡単ではない問いの答えを探して模索は続く。