物流が歴史を変えた事例は枚挙にいとまがない(写真:YNS / PIXTA)

世界中の商品がクリックひとつで自宅に届く

インターネット通販大手のアマゾンという企業が誕生したのは、世界の一体化を如実に示す事例だ。クリックひとつで、世界中の商品が購入できる。世界のあらゆる地域からさまざまな商品が自宅にまで届く。

考えてみれば、これは驚異的なことなのだが、この点において「物流」の重要性を私たちは忘れがちだ。インターネットの発展が、グローバリゼーションの大きな要因であると考える人は多い。それは間違いなく正しい。それと同時に、物流がどのように発展していったのかという側面に目を向けなければ、グローバリゼーションの重要な一面を見落とすことになってしまう。

世界中の商品が自宅に届くということは、国際的な物流システムの発展があるということである。それにより、われわれの生活は非常に便利になった。だが、そのような物流システムの発展は、何も現代社会にとどまるものではなく、はるかに以前からあったはずなのである。

拙著『物流は世界史をどう変えたのか』でも詳しく解説しているが、物流が歴史を変えたことの典型例として、「パクス・ブリタニカ(イギリスの平和)」の真因について考えてみたい。イギリスはなぜ、19〜20世紀に世界の覇権を握ることができたのか。イギリスが18世紀後半、世界で最初に産業革命に成功し、世界の工場として活躍したというイメージはかなり強いものと思われる。

しかし、1710〜1910年のあいだ、イギリスの貿易収支が黒字であることは、ほとんどなかった。「世界の工場」といわれ、綿織物工業によって世界最初の工業国家になったイギリスだったが、貿易収支から見るかぎり、それはイギリス経済に大きなプラスを与えてはいない。

イギリスの覇権の要因は、実は工業ではなく海運業であった。19世紀後半以降、海運業からの収入が大きく増えた。これは、イギリスが世界中に蒸気船を送り、世界の物流に大きな影響力を及ぼしたからこそ実現できたことであった。

世界の海をイギリスの蒸気船が席巻した理由については、17世紀、オランダがヨーロッパの海を牛耳っていた時代までさかのぼって考えなければならない。

オランダの中継貿易による利益は非常に大きかった。いくつかの国が、オランダの輸送料収入を減らし、自国のそれを増大させるため、保護海運業政策をとった。その中でも一国だけ、オランダに対抗するために、輸送コストが低い船舶を建造し、オランダ人の手中にあったヨーロッパの物流システムを、自国の輸送システムへと転換することで、経済力を高めようとした国があった。それがイギリスである。

オランダによって、イギリスは、海運業を支配し、物流をコントロールすることの重要性に気づいたのだ。

「歴代のイギリス政府がとった最も賢明な政策」

イギリスは、1651年から数度にわたり、オランダ船の排除を目指し、航海法を制定した。最初の航海法を制定したのは、ピューリタン革命の指導者として著名なオリバー・クロムウェルである。航海法は、イギリスが輸入を行う場合、イギリスの船か輸入先の船でなければならないと定めた法である。

実はイギリスは、輸出についてはすでにイギリスの船を使うことに成功していた。輸入船としてオランダ船を使用しないなら、イギリスの貿易においては、完全にオランダの勢力を追い出せたことになる。すなわちイギリスの貿易においては、輸出であれ輸入であれ、イギリス船で行えば、イギリスと海外との物流は、イギリス人の手中に収められる、と考えたのである。イギリスの物流はすべてイギリス人が行う。それが、イギリスが掲げたポリシーであった。

このようなイギリスの政策が、長期的にみれば、19世紀の帝国主義を成功させることになった。イギリス経済学の創始者ともいえるアダム・スミスも、「航海法は、歴代のイギリス政府がとった最も賢明な政策であった」と述べている。

イギリスは早くから、海運業の重要性に気がついていたわけではない。1560年の段階では、イギリスの海洋国家としての地位は極めて低かった。オランダ、スペイン、ポルトガルは言うに及ばず、ハンブルク、さらにはリューベックという都市と比較しても劣っていた。

このような状況にあったイギリスの転換点となったのが、航海法の制定であった。

イギリス人が所有する船舶の総トン数は、1572年の5万トンから、1788年には105万5000トンへと、200年ほどで21倍にも増加したのだ。19世紀初頭に至るまで、農業を除けば、イギリス最大の産業は毛織物工業であった。そして産業革命によって、綿織物工業へと変化する。毛織物工業全盛時代にも、海運業は、毛織物工業に次ぐ地位を占めていた産業であり、その比率は大きく高まっていった。ことほどさように、イギリスは物流を重視していたのである。

イギリスは1660年の王政復古以降、貿易量――とりわけヨーロッパ外世界との貿易量――を大きく伸ばした。このことは「商業革命」と呼ばれている。この商業革命の過程で、イギリスの貿易では、オランダ船ではなく、イギリス船がどんどん使われるようになった。その結果、やがてイギリス以外の貿易についても、イギリス船が使われるようになっていった。イギリスが覇権を握ることができたのは、そのためであった。

世界の物流を支配する国家へ

イギリスは、大西洋貿易のみならず、ヨーロッパ内部の貿易でも、オランダ船の排除に成功していく。ほかの国々と異なりイギリスは、大西洋帝国とヨーロッパ内部の貿易圏で、国家が貿易活動そのものを管理するシステムの構築に成功したのである。これこそがイギリスの独自性であった。

事実、イギリス以外の国々――フランス、スペイン、ポルトガルなど――は、大西洋貿易においては自国船を使ったとしても、北海とバルト海地方との貿易においては、オランダ船を使用する傾向が強かった。


イギリス船を使うことで、外国人、なかでもオランダ人に支払う輸送料が低減し、国際収支の改善に大いに役立った。近世のイングランド、さらにイギリスは、保護貿易というより、むしろ「保護海運業政策」を特徴とした。この政策により、イギリスは他国との物流においてさえ、支配権を握ることを目指したのだ。

20世紀初頭には、トン数に換算して、世界の船舶の約半分がイギリス船であった。イギリス船は、世界中の商品を輸送していた。

現在の研究では、フランス革命の最中の18世紀末に、イギリスはオランダを抜き、ヨーロッパ最大の海運国家になったと考えられている。それは、19世紀の帝国主義時代において、イギリスが世界の商品を輸送する国家に、言い換えるなら、世界の物流を支配する国家になったということを指している。イギリスの物流は、文字どおり、世界を動かした。

このように、物流が歴史を変えた事例は枚挙にいとまがない。これまでの歴史研究では見過ごされがちなテーマであったが、世界史のダイナミズムを的確に把握するには、欠くべからざる要素といえる。