1972年に開催された札幌オリンピックのスキー70メートル級ジャンプで表彰台を独占、大観衆に向かって手を振る「日の丸飛行隊」。左から金野昭次(銀)、笠谷幸生(金)、青地清二(銅)の3選手(写真:共同通信)

平昌オリンピックが始まった。現在、行われている競技種目は100を超える中で、「スキージャンプ」は昔からひときわ人気を誇る競技のひとつだ。
同競技での日本人選手の活躍は、1998年の第18回長野大会での団体金メダルなどが記憶に新しいが、こうして世界の強豪国のひとつに数えられるに至った今日の地位も、先人たちによる長い奮闘の歴史なくしては語れない。
『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が「冬季五輪のジャンプの歴史」を解説する。

白銀の札幌に舞い降りた「日の丸飛行隊」

1972年(昭和47)2月6日、第11回冬季オリンピック札幌大会の4日目を迎えた宮の森ジャンプ競技場(札幌市中央区)は、この日行われるスキージャンプ70m級が始まる午前10時を前に、詰めかけた満員の観客2万5000人の熱気に沸いていました。

地元の熱い声援を背に、日本選手は1本目終了の時点で、エースの笠谷幸生選手(1943- )が最長不倒となる84mの「完璧」なジャンプを決め、青地清二選手(1942-2008)、金野昭次選手(1944- )らとともに、早くも1位から3位を独占しました。

続く2本目も、3人はプレッシャーに怯むことなく、最高のパフォーマンスで観衆の期待に応え、悲願だった冬季五輪およびジャンプ競技で日本人初となる金メダルを含む、表彰台を独占します(1位笠谷、2位金野、3位青地)。彼らは後に「日の丸飛行隊」と称えられ、その偉業は現代に語り伝えられます。

ただ、こうして栄光を手にした笠谷選手も、札幌大会は自身3度目のオリンピック挑戦で、苦闘を乗り越えての栄冠でした。そして、笠谷選手らに限らず、日本人はさらにその昔から、オリンピックの舞台でこの競技に挑み続けてきたのです。

今回はスキージャンプをテーマに、今日の礎を築いた「日本人ジャンプ選手たちの活躍の歴史」を解説します。

今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

Q1. 日本でジャンプ競技はいつから始まったのですか?

スキーの導入と同じ1911年(明治44)です。

1911年の1月、新潟県高田(現・上越市)に駐屯していた陸軍第13師団の歩兵第58連隊の士官と有志14名が、オーストリアの駐在武官レルヒ少佐から、スキー技術の指導を受けたのが日本におけるスキーの始まりです。

この講習で彼らはさまざまなスキー種目を学ぶのですが、じつはそのひとつに、当時欧州で一般的だった「空中跳飛法」(ジャンプ)も含まれていたのです。

日本ではスキーはすぐに人気となり、2月には高田スキー倶楽部(翌年に日本スキー倶楽部と改称)が創設されています。また、レルヒ少佐は翌年には北海道旭川に移り、そこでも熱心にスキーを教えました。

Q2. ジャンプはその後、日本で普及したのですか?

はい。大正期には北海道大学スキー部を中心に技術的研究と実践も進み、専用のジャンプ台も次々と建設されました。

1923年(大正12)に北海道小樽にて開催された第1回全日本スキー選手権大会には、ジャンプ種目が含まれています。

Q3. ところで、ジャンプはいつから五輪の正式種目だったのですか?

「第1回のフランス・シャモニー大会(1924年)」からです。この大会には、日本も参加する予定でしたが、前年の関東大震災による影響で参加を断念しています。

日本人ジャンプ選手の「苦い五輪デビュー」

Q4. 日本人ジャンプ選手の五輪デビューはいつですか?

1928年(昭和3)開催の「第2回スイス・サンモリッツ大会」です。この大会で、北海道大の伴素彦選手(1905-1998)が、日本人で初めてジャンプ競技に出場しました。伴選手は、1926年に行われた第4回全日本選手権のチャンピオンです。

Q5. 初挑戦の結果は?

惨敗でした。伴選手は、当時の日本にはまだなかった世界標準の巨大なジャンプ台にも臆することなく挑みましたが、結果は全選手38人中最下位。

飛距離も、世界のトップ選手が60m前後の記録でメダルを争っていたのに対し、彼は1本目は最短の34mでしかも転倒し、2本目も39mという残念な結果に終わりました。

とはいえ、このときの日本選手団は、伴選手や他競技の選手と監督を合わせてたった7人でした。スイスまではシベリア鉄道を使っての大陸横断に加え、折れやすい桜材の国産スキー板を山ほど担いで、途中スイスの税関で密輸業者と疑われて一時足止めされるなど、選手にはかなりタフでした。

また、スキー板の材質やワックスの知識もなかったことも敗因につながりました。

歴然だった世界との「差」を、日本人は痛感させられます。

Q6. 日本人はあきらめたのですか?

いいえ、むしろ奮い立ちました。大会の翌年、強豪国ノルウェーから専門コーチを招き、そこから日本人選手の実力はめきめきと上達しました。

1931年(昭和6)には、国内4番目となる本格的なジャンプ台「大倉シャンツェ」(アプローチ全長100m、今日の大倉山ジャンプ競技場の前身)の建設計画も実行に移されました。

こうした取り組みは、1932年(昭和7)の「第3回アメリカ・レークプラシッド大会」で結実します。

「ぶっつけ本番」で好成績をマーク

Q7. レークプラシッドでは、どんな活躍があったのですか?

北海道余市出身の19歳、安達五郎選手(1913-1999)が8位入賞を果たしました。

安達選手は、前年に行われた第9回全日本選手権のジュニアの部(幼年組)で優勝した期待のホープです。

ただし、レークプラシッドのジャンプ台は、アプローチの長さが約80mと、それまで彼が経験した最も大きい台だった札幌シャンツェの65mより、約15mも長い巨大なものでした(大倉シャンツェの完成はオリンピックの練習には間に合いませんでした)。

そのため、彼にとってはある意味「ぶっつけ本番」の挑戦となりましたが、果敢に挑んだ彼は、勝負となる2本目では全選手中3番目の飛距離をマークする大ジャンプ(66m)に成功し、順位を上げました。

Q8. 札幌大会以前に、ジャンプでの日本人メダリストはいたのですか?

いません。しかし、「あと一歩で金メダル(?)」という一瞬もありました。

それは、1936年(昭和11)「第4回ドイツ・ガルミッシュ=パルテンキルヘン大会」での、ある日本人選手の大活躍です。

じつは日本人が「金メダル」に最も近づいた瞬間が「戦前」にあったのです。

Q9. 「ドイツ大会で大活躍の選手」とは誰ですか?

北海道小樽出身の龍田峻次選手(1914-1991)です。

試合当日、未曾有の大群衆で埋め尽くされた競技会場で、彼は自身の持ち味となる、まるで水面に飛び込むような深い前傾姿勢をかける美しいジャンプフォームで、1本目を73.5m、さらに2本目は出場した14カ国47選手の中で最長となる77mの飛距離をマークしました。

このとき、飛距離の合計だけをみれば、なんと同種目で金メダルだったノルウェーの選手を上回っていました。しかし、彼のメダルへの夢は惜しくも実らなかったのです。

Q10. なぜ龍田選手は、金メダルをとれなかったのですか?

残念ながら、龍田選手は2本ともに着地に失敗、転倒してしまいました。そのため、転倒による大幅な減点により、最終順位はビリから2番目の46位に終わったのです。

しかしながら、龍田選手が大観衆の前でみせた「ビッグジャンプ」はかなりのインパクトだったらしく、大会後に作成された公式報告書において、彼の滑空写真が「メダリストと同列」に扱われ大きく掲載されています。

「1940年札幌大会、44年イタリア大会」は中止に

ちなみに、このときの同種目では全日本選手権連覇経験者の伊黒正次選手が7位に入り、ほかの競技ではスピードスケート男子500mにて石原省三選手が、3位の選手とわずか「0.1秒」差の4位と、惜しくもメダル獲得を逃しました。

女子フィギュアスケートでは、当時まだ12歳の小学校6年生だった稲田悦子選手が出場し、23人中10位に入る健闘もみせています。


こうして、日本人アスリートがようやく世界を相手に頭角をあらわしはじめたにもかかわらず、やがて第二次世界大戦が始まると、冬季オリンピックは札幌での開催が予定されていた1940年、さらに1944年のイタリア大会が中止となりました。

戦後、1948年に復活したスイスでの大会には、敗戦国の日本とドイツは参加が認められず、日本が五輪復帰を果たしたのは1952年の「第6回ノルウェー大会」からです。

そして、この間に広がった世界との実力の差は、容易には埋まらず、長い低迷期を経て、ついに日本人ジャンプ選手が悲願の金メダルを手にしたのが、冒頭で紹介した「1972年の札幌大会」だったのです。

今年(2018年)は、日本人が初めて参加した1928年の第2回スイス・サンモリッツ大会からちょうど90年。平昌ではどんなドラマが新たに展開されるのか、みなさんとともに日本人選手へ熱い声援を送りたいと思います。