―大好きな吾郎くんが、私と結婚してくれたー

数々の苦難の末に、結婚願望のない男・吾郎との結婚に辿りついた英里。

結婚はゴールでないことなど、百も承知。

しかし、そんな二人を待ち受けていたのは、予想を上回る過酷な現実であった。

愛し合っていたはずの夫婦は、どのようにすれ違い、溝ができてしまったのか。

男女の価値観のズレ、見解の相違、そして、家庭外での誘惑...。

二人は“新婚クライシス”に陥り、夫婦仲はギクシャクしたまま、ついに別居してしまう。そして距離を置いた夫婦は互いに少しずつ思いを改め、再会を果たした。




「吾郎くん?!」

英里が駆け足でリビングのドアを開けると、そこには吾郎が澄まし顔でソファに座っていた。

「お、おかえり...」

「...おぅ」

横目でチラッと振り返った吾郎の顔を見た瞬間、英里は怒涛に押し寄せてくる感情で胸がいっぱいになる。

これまで何度も平行線の言い争いを繰り返し、本気で離婚まで考えていた。にも関わらず、英里の全身に瞬時に広がったのは、圧倒的な安心感だったのだ。

単に吾郎が戻ってきたというだけで、夫婦間の問題が解決したわけでもない。

しかし、平然を装いながらも切なげな色を浮かべる吾郎の目を見ると、これまでの不満やわだかまりが一気に溶けていくような、不思議な感覚があった。

“夫婦は合わせ鏡”

なんて言葉を聞いたことがあるが、今の自分も、吾郎と同じような顔をしているだろうか。

―英里ちゃんは結局、あの旦那さんじゃないとダメだよー

きんちゃんが言い放った言葉の意味も、今さらながらに心に沁みた。


そして、吾郎がとうとう女のトリセツを悟る...?!


女の機嫌をとるための、単純にして秀逸な回答


―うっ...。

久しぶりに英里と対面した吾郎は、すっかり怯んでいた。

何かに必死にすがるような、うるうると揺れる子犬のようなタレ目。

英里とは長らく険悪状態が続き、最近はきちんと顔を合わせることも少なかったから、自分が妻のこの眼差しにすこぶる弱いことをすっかり忘れていた。

この子犬光線を直に受けてしまうと、これまで何に意地を張り、何にこだわっていたのか、すべてが馬鹿馬鹿しく思えてしまう。

―ぶっちゃけ、もはや全部どうでもいい...。

そもそも、あれだけ結婚を否定していた自分が惚れ込んだ女、自分の意固地を視線だけで溶かすような女と、敵対する必要なんてあったのだろうか。

いや、しかし。

ここで生ぬるい感情に流されては元も子もない。英里と今後も夫婦として人生を歩んでいくには、少なくとも冷静な話し合いが必要だ。

そうして無理矢理に理性を働かせ、いったん呼吸を置こうとしたとき、吾郎は突如、懐かしく甘ったるい香りに包まれた。

「吾郎くん、会いたかった...」

絞り出すような細い声、首に巻きついた柔らかな腕。

久しぶりに触れた妻の肌は、理屈を超えた心地良い温かさがあった。

そういえば英里との結婚も、結局は理屈どうこうでなく、どうにも抗えない本能に身を委ねたことを、吾郎は静かに思い出した。

偏屈な吾郎が、人間的な“本能”なんてモノを揺さぶられるのは、唯一英里に対してだけなのだった。






吾郎が無事家に帰った、翌日。

南青山の『クリントン・ストリート・ベイキング・カンパニー 東京』にて、期間限定だというパンケーキを嬉しそうに頬張る妻の顔を見た吾郎は、なぜ今までこの類の店に付き合ってやらなかったのか、少々後悔の念に駆られていた。

美食溢れる街・東京で、“パンケーキ”なる女・子ども用の好物のため、行列に時間を費やすなんて完全なる情弱(情報弱者)と決め込んでいたが、その付加価値は意外にも大きいようだ。




「おいしい〜!やっぱり吾郎くんとのおでかけは楽しいな」

ニコニコと上機嫌の英里の前では、吾郎の気持ちも緩んでいく。

―女が泣き喚いたり、不機嫌で手を焼いたときは、甘いものを渡すと良いー

日本を代表する文豪にしてモテ男の異名を持つ太宰治がこんな名言を残していたはずだが、そういえば当初、松田ですらケーキを買って帰れとアドバイスをくれたではないか。

奴の言う通り、あのとき千疋屋のケーキを無事渡せていたら、夫婦仲はさほど拗れていなかったかもしれないとすら思える。

「......結婚式、するか」

円満な空気に絆されたのか、自然とこんな言葉が口からこぼれた。

「えっ......いいの......?!?!」

唇にわずかに生クリームをつけたまま、英里は目を丸くしている。

「で、でも......もし吾郎くんがそんなに嫌ならね、写真を撮るだけでもいいの。別に盛大にやる必要なんてなくて...」

「じゃあ、海外にするか。準備なんかは、悪いが俺はあんまり...」

「ありがとう吾郎くん!!もちろん、私が全部するから大丈夫!!!ありがとう、大好き!!!」

こうして、結婚式・ハネムーン問題は拍子抜けするほどアッサリ解決した。

そして新居については「急がなくていい」と英里が譲り、子作りについては、いずれにせよ結婚式が済んでからというペンディング案に落ち着いた。


平和を取り戻した夫婦に忍び寄る、嫌な予感...?


何気ない、親友の提案


「英里...本当によく似合ってる...!」

試着室のカーテンがサッと開けられると、咲子と萌の目が急に潤み始めたため、英里まで目頭がジンと熱くなってしまった。

今日は念願だったウェディングドレスの試着に、親友二人が同伴してくれたのだ。




「私たちも、なるべくハワイに参戦するからね」

「気にしないで。体調や子どものこともあるでしょ。二人でフォトウェディングするだけだから...」

「何言ってるの。私たちが英里のドレス姿見たいのよ!」

結局、吾郎との式は、二人きりでハワイのフォトウェディングを計画している。

それに最近は夫婦関係もかつてないほど順調で、英里にもやっと心の余裕ができた。というのも、吾郎が急に“夫らしく”なってきたのだ。

相変わらずストイックな生活リズムで、週末は突然スキーだの山登りに一人で出かけることも多いが、夕飯の有無や帰宅時間などはマメに連絡をくれるようになった。

連絡については英里が勇気を出してお願いしたのだが、吾郎は意外にもすんなりと受け入れてくた。さらにスキー帰りに笹団子を手土産にくれたときは、その成長ぶりに感激して涙が出たくらいだ。

何かが大きく変化した訳ではないが、吾郎が以前より自分を気にかけているのは明らかで、そうなると、英里の心もすっかり穏やかになった。

「まぁ吾郎先生は、やっぱりもともと秀才型のロジカルシンキングなのよね。彼がきちんと納得するように話せば、ちゃんと聞いてくれるんじゃない。悪い人ではないし」

「それにしても、丸く収まってよかった。赤ちゃんについても、吾郎先生は絶対にNOってワケでもなさそうだし、とりあえず今は、結婚式の準備を楽しめばいいじゃない」

親友たちの温かい言葉に、英里は照れ笑いで答える。

「でも...。もし本当に近い将来に子作り考えてるなら、“ブライダルチェック”くらいやっておいてもいいかもね」

「ブライダル...チェック...?」

萌の言った聞き慣れない言葉に、英里は首を傾げる。

「妊娠や出産希望者向けの婦人科検診よ。風疹抗体検査とか子宮や卵巣のチェックもできるんだって。焦る必要はないと思うけど、一応それなりの年齢だし、念のためやっておいて損はなさそうじゃない?」

「へぇ、そんな検査があるのね、ありがとう!ちょっと調べてみようかな」

英里はふんふんと頷き、その検査を受けてみようと早速スマホにメモを残した。

しかし、この何気ない気軽な会話が、のちに夫婦の命運を左右することになるとは、誰一人予想していなかった。

▶NEXT 最終回:2月24日 土曜日更新予定
“ブライダルチェック”にまさかの結果が...?二人の夫婦生活のゆくえは...?!