熟練の宮大工が研いだ鉋で木を削ると、その木くずは1mmにも満たない薄さになるといわれている(写真:Flatpit / PIXTA)

モノ情報誌のパイオニア『モノ・マガジン』(ワールドフォトプレス社)と東洋経済オンラインのコラボ企画。ちょいと一杯に役立つアレコレソレ。「蘊蓄の箪笥」をお届けしよう。
蘊蓄の箪笥とはひとつのモノとコトのストーリーを100個の引き出しに斬った知識の宝庫。モノ・マガジンで長年続く人気連載だ。今回のテーマは「宮大工」。あっという間に身に付く、これぞ究極の知的な暇つぶし。引き出しを覗いたキミはすっかり教養人だ。

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01. 「宮大工」とは神社仏閣など日本古来の木造建築を手掛ける大工のことで「堂宮大工」「宮番匠」とも呼ばれる

02. 宮大工の起源は約2500年前の中国にさかのぼるといわれ、日本へは朝鮮半島を経由して伝わった

03. 日本の宮大工の歴史は飛鳥時代に朝鮮から来た僧侶・慧滋と慧聡が「飛鳥寺」を建造したことにはじまる

04. 飛鳥寺は6世紀末に百済から仏舎利が献じられたことにより蘇我馬子が建立を発願し建立された

05. 慧滋と慧聡に教えを受けた聖徳太子は「法隆寺」を造り、その後さまざまな歴史的建造物を建立した

06. かつては専門の大工ではなく、僧侶自身が寺社の建築や修理に携わるケースも多かった

07. また宮大工は一カ所に留まらず各地の神社仏閣等を渡り歩いて仕事をするため「渡り大工」とも呼ばれた

08. 宮大工の特長的な技術がくぎや金属のボルト等を使用せずに木材だけで建物を組み上げる「木組み」である

09. これは木材同士をパズルのようにはめ込む加工をすることで固定し、高層の建物から重力を分散させる

10. 宮大工は、温度や湿度による木の変形や、かかる力の強さや方向の変化などに合わせて加工法や木を変える

熟練の宮大工による手刻みならではの手法の数々


11. そのひとつ、「継手」というのは、材木の長さを増やすために木を継ぎ足すときに使用される手法である

12. なかでも「腰掛鎌継ぎ」は主に土台や桁で使用され、下の木を上木で押さえつけるように組む

13. 「追掛け大栓継ぎ」は上木を横からスライドさせてはめ込む手法で、腰掛鎌継ぎより複雑な分、強度も高い

14. 「腰入れ目違い継ぎ」は上木に木のねじれを防止する〈ねじれ止め〉が施されているのが特長

15. これはとても複雑な形状の継手で、熟練の宮大工による手刻みならではの手法といわれている

16. 「大栓継ぎ」とは梁を太い硬木で固定して納める手法で、非常に高い大工技術が要求される

17. ふたつ以上の木材をある角度に接合する手法を「仕口」といい、土台と柱、梁と桁のつなぎ目などに使われる

18. 小屋梁でよく使用される「兜蟻掛け」や「大入れ蟻掛け」など、仕口にもさまざまな手法が存在する

19. 継手や仕口、その他の接合部分など部材の形状全般を曲尺1本で作り出す手法を「規矩(きく)術」という

20. 「規で円を正し、矩で直角を正す」といわれ、宮大工になるためには必ず身につけなければならない

21. 歴史的には古代、中国から伝えられたといわれるが数学の三角関数や微積分、平方根などが応用されている

22. 経験や口伝による工匠間の秘伝だったが、江戸時代に理論化され幕府の大棟梁・平内延臣によって大成した

23. 神社仏閣などの屋根のそりや垂木を放射状に展開した美しい曲線美はこの規矩術によって実現されている

24. 宮大工の作業は建築のみならず装飾にも及び、木材を生かした「彫刻」や「漆塗り」なども手掛ける

25. また有名寺社の修復作業はごく一部の宮大工にのみ認められる〈名誉〉とされ、その修行には数十年かかる

26. 宮大工になるためには資格は必要ないが、建築系の学校で学ぶ、棟梁に弟子入りするなどの方法がある

27. かつて宮大工の技術・技法は、徒弟制度によって師匠から弟子へ口伝で継承された

28. 現在は会社組織になっているものも多く、研修と実地教育を併用することで後継者育成を行っている

新人が最初に習うのは道具の手入れ

29. 宮大工は木材の切り出しから加工までを自身の手で行なうため「道具の品質管理」に非常に気を使う

30. 道具の手入れが悪いと木材に影響し、その木材を使用して組んだ建造物にも悪影響が及ぶためである

31. 新人が最初に習うのは道具の手入れといわれ、ノミや鉋(かんな)などさまざまな刃物の研ぎ方から勉強する

32. 多くの宮大工は一日の作業が終わると研ぎ場につめ、丹念に道具の手入れを行う

33. 熟練の宮大工が研いだ鉋で木を削ると、その木くずは1mmにも満たない薄さになるといわれている

34. また仕上げられた木の表面も美しく、そこにはまるで鏡のように顔が映るともいわれる


後日の評価に備えて最高の仕事をする(写真:イーグル / PIXTA)

35. 宮大工の仕事の工期は短いものでも2年間、有名寺社の修復となると10年以上も現地に留まることもある

36. 神社仏閣が完成した際、宮大工はその寺社に工事関係者の名前を記した「棟札(むねふだ)」を残す

37. この棟札が次に見られるのは解体作業のときであり、短くても数十年、長ければ数百年、誰の目にも触れない

38. それゆえ後日の評価に備えて最高の仕事をすること、そのための弟子を育てることが宮大工の使命とされる

39. 世界最古の建設会社で宮大工の組織としても知られるのが578年に始まる「金剛組」である

40. 創業者は聖徳太子が大阪「四天王寺」を建立するために百済から招いた宮大工のひとりである金剛重光

41. 以来、2005年に経営危機に陥るまで神社仏閣の建築、城郭や文化財建造物の修理などを手掛けてきた

42. 江戸時代までは四天王寺のお抱え宮大工で、織田信長の焼き討ちや大坂冬の陣での焼失時も歴代が再興した

43. その教えの中心にあったのは約400年前に第32代当主金剛興八郎喜定が残した遺言書「職家心得の事」

44. その心得の根底にあるのは〈いつの時代に誰に見られても恥じない仕事をする〉ことであった

45. 織田信長の安土城建設を描いた山本兼一の小説『火天の城』の主人公・岡部又右衛門は実在の宮大工であった

46. 岡部又右衛門の生没年は不明だが尾張熱田の宮大工の棟梁で、室町時代〜安土桃山時代に活躍した

47. 「岡部家由諸書」によると室町幕府将軍家の修理職(しゅりしき)を務めた家柄とされる

48. 岡部又右衛門は1573年に近江・佐和山の山麓で長さ30間、幅7間、櫓100挺の大型軍艦を建造

49. 1575年には織田信長の「熱田神宮」造営に被宮大工として参加している

その名を後世に残す宮大工たち

50. 1576年に築城された「安土城」では棟梁として当時不可能とされた五重の天守閣造営を息子・以俊と共に指揮

51. その功績によって岡部又右衛門は信長から「総大匠司」の位と「日本総天主棟梁」の称号を与えられている

52. 1582年の「本能寺の変」では信長と同宿していたとされるがかろうじて難を逃れ、没後は孫の宗光が相続した

53. 京都・東本願寺の山門の造営などを手掛けた「四代目佐々木嘉平」は1889年富山県の宮大工の家に生まれた

54. 三代目である父に師事し、独学で技術や知識を習得。日本各地の国宝や重要文化財の修復保存に関わった

55. 石川「妙成寺」五重塔や鎌倉「建長寺」仏殿・勅使門の復元、京都「興正寺」では阿弥陀堂及び山門を再建


今日の本堂が再建された(撮影:尾形文繁)

56. 1945年3月10日の東京大空襲で焼失した東京・浅草「浅草寺」の観音堂(本堂)の修理も手掛けた

57. この修理の際、境内の本堂脇に修理事務所が設置され、佐々木嘉平はそこで作業にあたったという

58. 愛媛県出身の宮大工で四国を中心に活躍した「窪田文治郎」は先祖代々、社寺建築の棟梁の家柄であった

59. 明治末期から父や京都の名匠・奥谷熊之輔に師事し、多くの専門技術と知識を学んだ

60. 1922年窪田文治郎は四年の歳月をかけた四国八十八カ所の49番札所「浄土寺」の仁王門を32歳で完成

61. のちに50番札所「繁多寺」の本堂・大師堂・山門、45番「岩屋寺」の本堂・大師堂・山門を完成させた

62. ほかにも「日尾八幡神社」の神門・拝殿や「道後湯神社」の拝殿など数多くの仕事を残している

63. 奈良・斑鳩町出身で祖父、父と代々、法隆寺専属の宮大工棟梁を務め、数々の偉業と名言を残した「西岡常一」


法隆寺回廊伽藍(写真:JACK SWING / PIXTA)

64. 1908年生まれの彼は幼少時から祖父に連れられて法隆寺に出入りし、1924年に宮大工見習いとなった

65. 1928年宮大工として独立し、法隆寺の修理工事に参加。1934年には「法隆寺」の棟梁となる

66. その後、1959年には明王院五重塔、1967年法輪寺三重塔、1970年薬師寺金堂・同西塔などを棟梁として再建

67. 再建プロジェクトではたびたび学者との論争が起こったが西岡は一歩も引かずに自論を通したといわれる

68. そのため西岡は周囲から「法隆寺には鬼(=西岡)がおる」と畏敬を込めて言われたという

69. また飛鳥時代から継承されてきた寺院建築の技術を後世に伝える者として〈最後の宮大工〉とも称された

途絶えていた古代の大工道具「槍鉋」の復活

70. 彼の偉業のひとつが、途絶えていた古代の大工道具「槍鉋(やりがんな)」の復活である

71. 法隆寺金堂の再建のために飛鳥時代の柱の復元を目指していた西岡は回廊や中門の柱の手触りに注目

72. その柔らかな手触りから従来の台鉋や手斧ではなく、創建時に使用された槍鉋なら再建が可能と導き出した

73. ところが槍鉋は15〜16世紀に使用が途絶えて以来、実物もなく使用方法も分からない幻の道具であった

74. 西岡は全国の古墳などから出土した槍鉋の資料を収集し、それを元に挑戦するが思うものができない

75. 仕方なく正倉院にあった小ぶりな槍鉋を元に再現するが、現代の鉄では品質が悪くうまく切れなかった

76. 西岡は法隆寺にあった飛鳥時代の古釘を素材として使うことを決め、堺の刀匠・水野正範に制作を依頼

77. 水野の手によって完成した槍鉋は刃の色から異なり、西岡も感服するほどの出来栄えだったという

78. 完成した槍鉋を手に絵巻物などを研究し、西岡は三年間の試行錯誤の末、その使用方法を見いだした

79. それは体を60度に傾け腹に力を入れて一気に引くという方法で、西岡は〈へそで削る〉と表現した

80. 槍鉋を使うとスプーンで切り取ったような跡が残るが、その切り口は温かみを感じる独特のものだった

81. 1978年3月、大阪・藤井寺市の三ツ塚古墳から地面を滑らすそり式の古代木造運搬具「修羅」が出土した

82. 樫の巨木が二股になった全長9mのもので考古学者の関心を呼び、その復元と運搬実験を行うことになった

83. 修羅の復元を依頼された西岡は奈良県にある元興寺文化財研究所に保存されていた出土品を調査

84. 結果、古代の技術者が樫が水や衝撃に強い利点に着目したこと、二股の巨木からそりを完成させたことに感心

85. しかし復元用に入手した徳之島産「沖縄裏白樫」は二股ではなく2本の木材であったため継がねばならない

86. 加えて古代の修羅に比べると木質も劣り、伐採のタイミングも悪かったため木が不安定だった

87. 結果、金属のボルトを使って接合することになったが、西岡は「使用ボルトは1本のみ」と主張し学者と対立

88. 学者は2〜3本必要と主張したが、修羅が上下に揺れることを考慮すると「ボルトが木を割る」とはねのけた

89. 製作には可能な限り古代の大工道具が使用され、のこぎりを多用せず、斧と手斧で約1カ月かけて完成した

90. 西岡によって復元された修羅は1978年9月に藤井寺市の河川敷で巨石運搬実験が行なわれ見事成功した

宮大工であることのこだわり

91. 西岡の腕は超一流であったが、法隆寺の宮大工であることにこだわり神社仏閣以外は造営しない掟を守った

92. 仕事がないときは田畑を耕し、収入が少なくても清貧に甘んじ、自宅の改築も他の一般大工に依頼した

93. 聖職である宮大工は「民家を建てると汚れる」とされ、建てた者はかつては宮大工から外されることもあった

94. 和服収納に最適な「桐たんす」の製造は江戸時代に始まったが、それを最初に手掛けたのも宮大工といわれる

95. 埼玉県春日部市に今も残る「春日部桐たんす」は日光東照宮建立のために関西から集められた宮大工が元祖

96. 江戸時代、彼らは日光街道の宿場町・春日部に住み着き高い技術を生かして桐の指物や小物を作りはじめた

97. 広島県「府中桐たんす」も江戸中期に寺院建立に訪れた宮大工が石州街道の宿場町に住んだのがはじまりだ

98. 奈良県斑鳩町、法隆寺の西側にある「西里」(法隆寺西一丁目)は「宮大工の里」として知られている

99. 古くから開けた土地で縄文土器や石器も出土しているが、法隆寺作事に携わった大工が多く住んでいた

100. 国内の宮大工は100名前後に減少しているが、その技術は文化庁から「選定保存技術」に指定されている

(文:寺田 薫/モノ・マガジン2018年3月2日号より転載)

参考文献・HP/「宮大工千年の知恵」(祥伝社)「斑鳩の匠 宮大工三代」(平凡社)「五重塔はなぜ倒れないか」(新潮社)、文化庁、日本文化いろは事典、朝日新聞デジタルほか関連HP