川口 雅裕 / 組織人事研究者

写真拡大

神戸大学の金井壽宏教授は「キャリア・ドリフト」を唱えた。あらかじめ厳密な目標や計画を立ててそれに固執するよりも、そんなにうまく思った通りにはならないのだから、前向きな態度で漂流(drift)すればよく、その代わり、節目では漂流した軌跡をしっかりと振り返り、また今後の大まかな方向性を定めればよいという考え方である。

自分で自身の仕事や役割を決めることができない以上、計画がその通りに実現する可能性は極めて低い。社長だって、顧客や市場や株主や銀行に右往左往させられ、思った通りに事は進められない。計画が狂うのはほぼ必然である。それなのに、厳密な目標や計画を立てて、思い通りにならない環境を嘆き、思い通りになっていない自分の現状を憂いてストレスを感じるのはほとんど意味がない。

であれば、思った通りになっていない現状を当然と捉え、目の前の仕事や役割をポジティブに捉え、周囲に対して調和的な態度をとり、そのときどきの仕事や自分の状況に柔軟に対応していったほうが生産的だし、そういう態度のほうが、後になって良かったと思える経験を積めるはずだというのがキャリア・ドリフトの思想だ。「明確な目標と計画を立てて努力すれば、それは実現する」という幻想を、多くの人の実際の職業人生に鑑みた上で修正しようとした、現実的で優れた理論である。

しかしながら、ただ漂流していればよい、何かのときに振り返ればそれでよいという話ではない。また、厳密な目標や計画でなく、大まかな方向性でよいと言っても、それはどのような中身であるべきなのか考えてみる必要がある。

●どのように漂流すべきか

上手な漂流には、まず、不本意な状況や良くない結果を悲観的にならず前向きに認識する力が求められる。起こっていることや自分が置かれている環境を悲観し、不安視すればするほど、これから流れていく先が良くないものに感じられる。堂々と流されるためには、物事の良い面を見て、現状を肯定的に考えなければならない。

沢山の課題や未知の問題に対して混乱せず、状況を正確に把握する力も必要である。課題を整理し、優先順位をつけ、論理的に把握をしなければならない。でなければ、起こっていることの意味づけができず、経験を効果的に自分の中に取り込むことは不可能だ。

同じような意味で、失敗やミスから孤独や自責を感じるのではなく、冷静に分析し受け止める力も大切である。失敗すれば落ち込むこともあるだろうし、ネガティブな気持ちになりがちだ。しかしそこで、冷静になり客観的な視点に立たねば、それから先に進む勇気が湧いてこない。

以上のような、思考・マインドでいるためには他者の存在は見逃せない。物事を進める際には、周囲の人たちと常に自然体でコミュニケーションをとり、協調的な関係を築いていること。組織のメンバーに常に関心を持ち、洞察し、理解しようとすることで互いに認め合う関係を築くこと。迷いごとや困りごとがある場合、互いにそれを打ち明けたり互いの言葉に素直に耳を傾けたりすること。このような他者との良好な関係が、精神的な安定を生み、前向きな思考を促し、漂流に対する自信につながっていくはずであるからだ。

●どのように振り返るべきか

漂流した軌跡を振り返るには、以下の5つの視点が重要になる。

一つ目は、仕事の仲間と良好な関係を築けたかどうか。良質なキャリアは、自分の努力だけで出来ていくものではない。仕事の関係者(上司・同僚・お客様・取引先等)との良好で刺激的なやりとりが自分の血肉となっていく。キャリアは他者と一緒に創るものであり、他者との関係の質の高さがキャリアを優れたものになる。

二つ目は、周囲の期待に応えたかどうかである。周囲の期待がどのようなものであれ、それらに抗わず、受け入れ、適応し、期待に応えることを最優先する。自分がやりたいことより、自分への期待や要望に関心を払う。「置かれた場所で咲く」ことによってキャリアが好転し、飛躍していく。キャリアは、期待に応えた質量に比例するのである。

三つ目は、豊かなインプットを行ったかどうかだ。インプットには、先端の業務関連知識を習得すること、経験を体系化する(整理して応用、伝承できる状態にする)こと、教養(業務に無関係な知を得る。仕事は人としての総合力である)の三つがある。豊かなインプットがあるからこそ、経験を自らの引き出しに変えていけるし、経験が原理原則へと昇華していく。

四つ目は、挑戦したかどうかだ。挑戦はその結果によらず、ドラマやエピソードを残す。成功すれば自信になり、失敗しても大きな引き出しを獲得できる。前例を踏襲した無難な業務遂行は何も残さない。ドラマやエピソードに乏しい人生は寂しい。キャリアとは挑戦の軌跡でもある。

五つ目は、パラダイムに変化や進化があったかどうか。どのような視点で物事を捉え、どのような姿勢で人生に向き合い、どのような軸で物事を判断するか。これがパラダイムであり、あらゆる言動はこのような「観」「パラダイム」の結果だ。良質なパラダイムが良質な言動となり、その蓄積・結晶がキャリアである。キャリアとは「パラダイムの結晶」であり、良質なキャリアを築くにはパラダイムを磨き続けなければならない。

●「大まかな方向性」は、どうすれば見えてくるか。

まず、目標と方向性はどう違うか。目標と言えば「SMARTの法則」が有名だ。これに従えば、Specific(具体的)、Measurable(測定可能)、Achievable(達成可能)、Related(全体や周囲の目標と関連がある)、Time-bound(時間の制約や期限)の5つの要素を満たしているのが良い目標である。これら5つの要素を盛り込むことによって、単なるスローガンや気合や心がけとは違って、現実に実行されるし、達成・非達成が明確になるからPDCAを回していける。

しかし、キャリアは常に、自分の意思や努力では如何ともしがたい環境変化や組織上の要請に左右されてしまうため、このようなしっかりした目標設定はそもそも現実的ではないし、思い通りになっていない状況が、むしろ分りやすくなってしまうのでストレスを生みやすい。だから、「目標」ではなく「大まかな方向性」で構わないというのが、キャリア・ドリフトの言わんとするところだ。

方向性は、目標の5つの要素の中から、Specific(具体的)、Measurable(測定可能)を取ったものと考えればよいだろう。つまり、明確な数字で表すことによって達成したかどうかが正確に測定できるようなものにする必要はない。この2つがなければ、多少うまくいかないことがあっても焦らなくてすむはずだ。だから、キャリアを考える際の「大まかな方向性」は、Achievable(達成可能)であって空想や野望のようなものでないこと、Related(全体や周囲が目指すところと関連がある)なので支援や共感が得られる、という要素を満たした上で、ある程度の時間的な目処を立てている(Time-bound)ということになる。キャリアの方向性は、ARTの3要素を考えればよい。

ここまで見てきて分るのは、上手な漂流には周囲との良好な関係が欠かせないということだ。キャリアは自分だけで作るものではないし、自分の努力だけで出来ていくものでもない。他者との良好な関係があって初めて、前向きに自信を持って流されていける。良好な関係にある他者からの期待や多様な機会が、振り返るに値する経験となって積み重なる。今後の方向性を定めるにも、全体や周囲が目指すところとの関連が大切だ。周囲との良好な関係の構築・維持が、優れたキャリア形成につながっていくのである。

【次回に続く】