一見、何の問題もなく幸せそうに見える仲良し夫婦。

けれども彼らの中には、さまざまな問題を抱えていることが多いのだ。

仲良し夫婦だと思っていた北岡あゆみ(32歳)のもとに届いた一通のメール

「あなたの旦那さん、浮気しています」

夫である樹を疑い始めたあゆみは、友人の紀子と清香と一緒に、大阪へ出張する樹を尾行することに。

樹が新宿のホテルでチェックインを済ませるところを紀子が目撃するが、その事実を知ったあゆみは、疲労から倒れてしまい、結局女性の姿は確認できなかった。




「あれ……。もう朝…?」

月曜日の朝。外はまだ暗い中、あゆみはゆっくりと目を開けた。

起き上がろうとした体はズシンと重く、上体を起こすと立ち眩みのような感覚に襲われた。

週末、夫である樹が「出張」と言って出て行った先は、新宿のホテルだった。

「あなたの旦那さん、浮気しています」 というメールが、あゆみの頭からこびりついて離れない。やはりあのメールは、真実なのだろうか?

結局、その日は会社を休んでしまった。こんなことで会社を休むなんて社会人失格だと思ったが、まともに仕事ができそうになかったのだ。

ミーティングも急ぎの案件もないことが唯一の救いだった。必要事項だけはメールで指示を出し、その後はまた現実に立ち向かうのを拒否するかのように、深い眠りに落ちた。

「今…何時だろう…?」

気がつくと、辺りは柔らかなオレンジ色に包まれている。僅かに聞こえる外の喧騒が、夕方であることを告げていた。

あゆみはゆっくりと体を起こし、渇いた喉を潤すため、冷蔵庫に向かった。水を飲みながら、夕日に染まった部屋の中を見渡す。

樹がどうしても欲しいと言ったデロンギのエスプレッソマシーン。少し無理をして買ったB&Bイタリアのソファ。結婚祝いのロブマイヤーのワイングラス…。

部屋の中全てに、樹との思い出が詰まっている。その光景にあゆみは、えも言われぬ悲しみに襲われた。

-どうして裏切られた方ばかりが、こんな悲しい思いをしなければならないのだろう…。

昨日の清香からのLINEが頭に浮かぶ。

「ジョンストンズのカシミアのストール……」

樹のプレゼントはいつも実用的だった。「アクセサリーも良いけど、何か役に立つものをあげたいんだよ」と。

-樹は、どんな顔をして選んだのだろう…?

そう思うと嫉妬心が抑えられなくなる。ふと、前に紀子が言っていた言葉を思い出した。


紀子の言葉とは?


あゆみの尋問


-自分の全てを否定された気がしたわ。




その時は“そこまで?”と思ったが、今ならその気持ちが分かる。女性として、夫に裏切られたと思うのと同時に、家族でもある相手に裏切られた事実は、それほどの否定感を与えるのだ。

-樹はどれほど本気なのだろう?もし離婚を突きつけられたら、私は受け入れないといけないの…?

これまで、樹が隣にいるのが当たり前だと思っていた。それなのに、急にその“当たり前の人”がいなくなったら……?考えただけで、頭がおかしくなりそうだ。

あゆみが溜息をつきながら冷蔵庫に水を戻した時、鍋が入っているのが目についた。昨日紀子が作ってくれた雑炊だった。

-紀子さんの言う通り、これからが本当の戦い…。どうするにしても、まずは体調を取り戻さないと。

正直、食欲は無い。けれど、せっかく作ってくれたのだからと温め直し、そっと口に運ぶ。その温かくて味わい深い出汁が体中に染み渡り、少しだけ気力を取り戻した。



「ただいま」

水曜日の夜10時。いつもと1ミリも変わらないように思える、樹の「ただいま」の声がした。

「…おかえり」

あゆみはずっと、この時が来るのが怖かった。しかしもう、真実を確かめずにはいられなかった。

出張先から帰って来た樹の姿に、まず目がいったのは荷物だった。やはり、高島屋で買った袋はない。代わりに大阪土産があった。

-きっと、出張ついでのお泊まりだったのね…。

樹の性格から、何日も会社を休んで旅行することはないだろう。だからこの機会を最大限に活用して、都内に一泊したのだ。

「これ、あゆみの好きな、りくろーおじさんのチーズケーキ」

普段なら嬉しくて、すぐにでもお茶を入れて一緒に食べていたが、今はそんな気になれない。冷蔵庫にしまおうと扉を開けると、雑炊の鍋が入っていた場所が、ぽっかりと空いていた。

-紀子さんと清香ちゃんにも迷惑をかけたんだ。きちんと、樹に確かめなきゃ……。

頭の中で幾度もシミュレーションした樹への質問。緊張からか、上手く言葉が出てこなかった。

「…あのさ、この間の日曜日に、早苗が新宿のホテルで樹を見かけたって言うんだけど…。」

さすがに尾行をした、とは言えず、大学時代の共通の友人である早苗の名前を出した。

「…あぁ、そうそう。あの日家を出た後、一緒に大阪に行くはずの担当医師から連絡が来てさ。前日泊まったホテルに忘れ物をしたから、取って来てくれないかって。それで、慌てて取りに行ったんだ。」

一瞬動揺した後の、妙な早口。紀子はたしかにあの日、樹がチェックインした、と言っていた。きっとこれは、咄嗟についた嘘だろう。

それならばもう、レシートのことを聞いてみるしかない。

「私、前に見つけちゃったの。樹が男友達と忘年会に行った日、銀座のフレンチで、二人で食事をしたレシートを…。本当は樹…」

さすがにここまで言えば、白状するだろうと思った。あゆみに一瞬の緊張が走る。


樹の答えとは?


樹の言い訳


「何だろう、それ。知らないな…。もしかしたら、孝之のかな?あの日、女の子とデートした後に合流したって言っていたから。何かの拍子に、俺のところに入ったのかな?」

そんな事、あり得ない。あゆみの疑いを掻き消すように、樹が少し苛立った口調で言った。




「……なに?もしかして、俺のこと疑っているの?」

これまで見たことのないような、鋭い目つき。あゆみは、あまりにも普段と違うその目に怯んだ。

その上、もうこれ以上問い詰められるネタがない。メールやストールのことを聞いても、きっと無理矢理誤魔化すだけだろう。

「…そうだったんだ。良かった、びっくりしちゃった」

あゆみは咄嗟に信じたフリをして、少しでも今の不利な状況を挽回しようと図った。

「ごめんね?変に心配させちゃったんだね。疑うようなことは何にもないから、大丈夫だよ」

その妙に優しい樹の言葉は、全てを封じ込めようとしている。

-この人は本当に樹…?こんな簡単に嘘をつける人だったなんて…。

あゆみは結局それ以上何も問い詰められず、自分の詰めの甘さを後悔した。

そうしてその後の二人はギクシャクしたまま、ろくに会話もせずに眠りについたのだった。



土曜日の午後。あゆみはどうしてもヨガに行く気になれず、一人部屋の中にいた。

あの日以来、樹とはほとんど話していない。樹はあゆみを避けるかのように、残業だと言って帰りが遅くなり、朝も早く出て行った。

-このまま、浮気相手のところに居座って、帰って来なくなったりして……。

そう思うと、不安と悲しさが押し寄せる。

あゆみの問いかけに対して、樹ならすぐに白状して謝り、浮気をやめてくれると期待していた。しかしシラを切り、あくまで逃げの姿勢を見せた樹に心底失望するとともに、相手の女性に対する興味が湧いて来た。

-あの真面目な樹が浮気をするような相手……。どんな女なんだろう?

自分より若いのか?綺麗なのか?色気があるのか?そしてなにより、自分に足りなかった“何か”を持っているのか…?

相手の女性のことを想像すると感情のコントロールがきかなくなって、気付くと無心で部屋中をひっくり返して、何か証拠が出てこないか、探していた。

本棚や書類、郵便物に衣類のポケット、ゴミ箱の中、古い携帯やパソコン。

どれだけ探しても何も出てこない。きっと樹が、隈なくチェックしたのだろう。

きっかけとなったメールには、すでに返信していたが、宛先不明で届かなかった。それでもあゆみはまた、送信ボタンを繰り返し押す。

-なんで……。なんで届かないのよ……。そもそもこのメールを送ったのは、一体誰なの!?

知らぬ間に、涙が溢れ出てきていた。なんで自分ばっかり、こんな惨めな思いをしなくてはいけないのだろうか。

ふと外を見ると、すでに日が傾いていた。電気も付けていない部屋の中は、パソコンと、外からの仄かな灯だけが頼りだ。

電気を付けようと立ち上がると、目の前のスタンドミラーに目を取られる。その途端、あゆみは自分の姿に愕然とした。

暗がりの中映し出されたのは、乱れた長い髪に腫れた目、深く影を落としたクマ。その顔は、とても30代には見えない。その険しい顔つきは、般若のようにも見えた。

-これが…、私…?

これまで、見た目にはそれなりに気を遣ってきたつもりだ。体の線が出るスーツをいつもぴっちり着こなしていたし、メイクやネイルも欠かさない。ヨガや運動で体も整え、食事にも気をつけていた。それなのに…。

-浮気を疑えば疑うほど、どんどん醜くなっていくのね……。

その時、スマホが静かに震えた。

「あゆみちゃん、大丈夫?今日来なかったから、気になって」

紀子からのグループLINEだ。あゆみは涙を拭い、LINEを返す。

「ありがとうございます。近々会えませんか?お願いしたいことがあって」

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あゆみのお願いとは?さらに、新たな問題が…!