不器用で目立たなくても、自分の信じるところを誠実に進もうとする人がいます(撮影:今井康一)

グローバルやAIといった言葉が飛び交い、年々、複雑になるビジネスの世界。働き手へのプレッシャーは年々高まるばかりです。一方で、そこでの主役は今も変わらず現場を支える「普通の人」。本連載では、そんな「普通の人」のキャリアや人生に光を当て、現代に働く人の「リアル」を浮かび上がらせていきます。

日系メーカーでメンターだった「おじさん」の物語


とくさんによる新連載、1回目です

はじめまして「とくさん」と申します。私は、日系メーカーと外資系IT企業2社で、営業からコンサルタント、経営管理まで幅広い仕事を経験してきました。さまざまな年代や国籍の人たちと仕事をしてきた中で、今でも忘れずに覚えているのは、華やかな場所で目立つ活躍をしていた人ではなく、不器用で目立たなくても、自分の信じるところを誠実に進もうとする人たちのことです。

この連載では、そんな人たちの人生の断面を切り取り、そこに託された思いや痕跡を描き出していければと思っています。初回は日系メーカーで私のメンターだった「おじさん」の物語です。

         

僕が新卒で入社したのは創業100年を超える老舗の日系メーカーで、配属は新規事業の海外営業部だった。そこでメンターとしてついたのが椎名さん(仮名)。メンターは、若手から中堅の社員が担当するのが普通だけれど、そのメーカーは日本企業のご多分にもれず40代以上の社員がとても多かった。なので、面倒見がよさそうな椎名さんが選ばれたのだろう。彼はそのとき42歳になっていたが、まだ「課長代理」だった。

椎名さんはドがつく真面目な人で、髪を七三にきっちり分けて、アイロンがビシっとかかった昭和なデザインのスーツを、真夏であっても毎日律儀に着て出社してくる人だった。仕事ぶりも本当に真面目で、毎日遅くまでこつこつと営業資料を作っていた。はっきりいって不器用で、ムダなところまで丁寧な感じだったけれど、それが長年培った彼のスタイルだった。
椎名さんとはよく一緒に外回りに出かけた。外回りの時って本音の話が出てくるもの。彼がいつも言っていたのは、こんなボヤキだった。

「僕はねえ、課長になりたいんだよね。なんとかなれないかなあ」

おいおい新人をつかまえてなにを言うんですか、という感じだけれど、これには背景がある。僕のいた新規事業は、エース人材というよりも、各部署でうまく活躍できていなかった人たちが多く集められていた。それでも、開発部門が画期的な技術をベースに世界的に競争力のある商品を生み出していたし、事業部長の事業にかける情熱はすさまじいものがあったので、うまく成長軌道にのって売り上げは倍々ゲームの形で伸びていた。
そうすると、会社側も期待し始める。主流部門から人が異動し始めてきて、そこには椎名さんの同期も数人いた。その同期はみな「課長」だった。

椎名さんは、あからさまな野心を見せる人ではなかったけれど、これはさすがに悔しかったのだろうと思う。椎名さんは毎晩遅くまで商社のために資料を作り、海外出張して商品の魅力を顧客に必死に語り、事業の拡大に献身的ともいえる努力をしていた。そして、大きな実績も残していた。なのに、結局よその部署から来た同期は、課長として彼の「上司」になっていた。

「課長になりたい」というボヤキはそんなところから来ていたのだと思う。でも、椎名さんは、それで腐ったりはせずに、持ち前の真面目さ(と不器用さ)で毎日仕事に向き合っていた。

印象に残っているのは

ひとつ今でも印象に残っているのは、彼が真剣に英語を勉強し始めた時のこと。

椎名さんは英語が好きで、昔からこつこつ勉強していたようだったけれど、はっきりいって仕事で使うレベルからはほど遠かった。僕は1年間アメリカの大学に交換留学に行っていたので、彼に英語の資料チェックを頼まれることがあった。確認してみると、全部自分で書きなおしたほうが早いくらいだった。

椎名さんも、自分の英語が仕事で使うレベルに達していないことは、自覚していた。

「このまえ直してくれた資料をお客さんに持っていったら、いきなり英語がうまくなりましたね?って言われちゃったよ。私の英語がいかにダメかわかったよ、ははは」と、人懐っこい笑顔で彼が話してくれたことをよく覚えている。

海外の顧客との商談も増えていた椎名さんはここで一念発起し、英会話学校に通い始めた。ある日「英会話学校どうですか?」と聞いてみると、いつもの調子で頭をかきながら、

「いやー大変だよ。宿題が本当に多くてね。全部やるのには週末をつぶさなくちゃいけないんだよね」と答えた。

これには本当に驚いた。英会話学校の宿題を完璧にこなして、休まずに講義にきちんと通っている人なんて見たことがなかったから。たいていの人は入学してもちゃんと勉強せずにそのままフェードアウトしていく。でも、椎名さんはこの勉強を1年間休まずに続けて、ライティングだけでなく、スピーキングも格段にうまくなっていた。彼が海外のお客さんと、日本語っぽさが残りつつも前よりずっと流暢に英語を話す姿はちょっと感動的だった。

では、こんな椎名さんはそのあと念願の課長になれただろうか? 結論からいうと……なれなかった。

その新規事業は急速に成長したものの、競合も一気に参入し、価格競争が激化。結局その関連事業とともに他社に売却されてしまった。椎名さんは他部門へ異動になった。異動先は「知的財産部」で、役職はもちろん「課長代理」。入社以来ずっと営業だった彼は、突然全く畑違いの部門で働くことになって戸惑っていた。

それでも、椎名さんはここでも持ち前の生真面目さで法律の勉強を始めていた。会社で偶然会った時に、いつもの穏やかな語り口で、部署の様子を教えてくれた。

「まわりの若い人がみな優秀でね。法律だけでなく技術にも詳しくて、いやあ立派なもんだよ。毎日必死に勉強しているんだけどね、果たして追いつけるかなあ」

こう話す椎名さんは、ここでも、いつものように自分なりのペースで、自分がやれることを誠実にこなそうとしていた。ただ、やはり営業で身につけた知識や経験が活かせない部門での仕事は、大変そうで、本人もその壁の高さにやや尻込みしているようにも見えた。

「課長」として転職をした先は…

そして、異動して1年が経ったころ、彼はある決断を下す。25年近く勤めたそのメーカーを退職して、非上場の小さなメーカーに転職したのだ。海外営業部門の「課長」として。昔同じ部門で上司だった人に誘われたらしかった。

椎名さんが少し興奮した調子で話してくれた。「非上場で有名ではないけど、その分野では圧倒的なトップシェアでね。世の中にはまだまだ知られてない立派な会社があるもんだとわくわくしたよ。『管理職になれる』チャンスだしね」

もといたメーカーは曲がりなりにも大企業で、椎名さんもその会社を愛していた。そこから、いくらトップシェアの事業を持っていても、そして「課長」になれるとしても、一般的には知られていない小さな会社に移ったことを僕は正直心配していた。しかもすでに年齢は50歳近く。新しい挑戦は素晴らしいけれど、誰の目からみてもそのリスクが高いことは明らかだった。

実際、しばらくして事業部長の定年を祝う会で久々に会った椎名さんは、顔色も悪く疲れきった様子で、とても大変そうだった。

「いやー大変だよ。徹夜して資料作ることも多くてね。この歳できついよ。いやーほんと大変だ」と、昔から変わらない、真面目さのにじみ出る調子で話していた。

それから数年が経ったある日。僕も転職して仕事が忙しく、なかなか連絡が取れていなかったのだけれど、椎名さんの「海外駐在」が決まったと人づてに聞いた。場所はカリフォルニア、待遇は「事業部長」とのこと。これを聞いて僕は震えた。

椎名さんは、いつも「課長になりたい」と言っていたと書いたけれど、あともう一つ「駐在したい」ともよく言っていた。新人だった僕は、正直なところ、いい歳してなんでそんなこと言うんだろうと思っていた。

望んだものを「彼のやり方」でつかみとった

でも、椎名さんは、決してあきらめずに、誠実に仕事をしつづけて、英語も真剣に学んで身につけ、そして50歳を目前にしたところで長く勤めた大企業を辞めるというリスクも取った。その結果として、彼は自分が人生で心の底から欲しいと望んだものを「彼のやり方」でつかみとったのだ。

一昨年、椎名さんとFacebookで繋がった。私からメッセージを送るとすぐ返事があった。

「とくさん、メッセージありがとうございます。そうなんです。今度の3月でカリフォルニア在住丸6年になります。今や日本より暮らしやすいと感じます」

僕がシリコンバレーが本社の会社に転職して本社がサンノゼにあると伝えると、こんな返信がまたすぐ返ってきた。

「それはそれは! すばらしい! シリコンバレーは私たちの生活圏内です。その節は是非私のメールに連絡ください。とくさんのことだから、そのうち本社に転勤になって、アメリカの永住権も取ったらいいよ。よい年になりそうですね!」

真面目で、人のことをいつも気づかっていて、笑顔を絶やさない椎名さんには、カリフォルニアの美しく輝く太陽はよく似合う。彼のことを思い出すたびに、僕の人生はまだまだこれから楽しくできるよなと改めて思う。