シークヮーサー。加工せずに食するときは熟したものを採る。


 人は昔から果実を採ってきた。

 はじめは身の回りにある樹木の実を食べていただけだろう。だが、その後は「栽培」という形で果樹を保護するようにもなる。植物が人の手で実や種を実らせ、人が植物から果実を得る。ここには果樹と人間の“共生”がある。

 私たちが多種多様に味わっている果実「柑橘類」の中から、そんな“共生”の姿を沖縄の「シークヮーサー」に見出したい。日本の柑橘類の多くが外国由来とされるなかで、古くから当地で自生してきた、人と関わり深い果樹だからだ。

 沖縄の人々は近年、シークヮーサーを産業目的で育てるようにもなった。だが、ずっと古くからシークヮーサーが人々を生かしてきたという見方もできる。この2つの関係はどうなっていくのだろう。

 前篇では、シークヮーサーと沖縄の人々が、いかに互いの利益を交換してきたかを見ていく。後篇では、現代において人々が築こうとしている、この柑橘類との新たな関わり方を見てみたい。

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日本の柑橘類、最古の文献は「持ち帰り」

 日本で最初に柑橘類が記録として現れたのは、720(養老4)年に成立した『日本書紀』にて。その記述は、果実を“外国”から得てきたというものだ。

 田道間守(たじまもり)という人物が第11代天皇だった垂仁天皇に命じられ「常世(とこよの)国」へ行き、「非時香果(ときじくのかくのこのみ)」を持ち帰ってきたが、天皇の死後だったので陵墓に献じて自害したという。「常世国」は遠くの国の意味。「ときじく」は「いつも」の意味で、いつも香りの消えないところから、この果実は「タチバナ」の実とされる。

 その後も、柑橘類は天皇や朝廷にとっても価値の高いものだったことがうかがえる。聖武天皇の時代には725(神亀2)年、播磨弟兄(はりまのおとえ)が唐から 「大柑子(おおこうじ)」を持ち帰った業績で叙位を受けたという。また、平安中期の律令の細則「延喜式」にも、各地から献上品として「甘子」や「橘子」が記されている。「橘子」は日本原産のタチバナのではないかともされる。

神歌にも詠まれた長寿延命の木

 本土と離れた琉球(沖縄)には、人々と柑橘類の独自の関わりがあった。当地には1531〜1623年にかけて編纂された「おもろさうし」という古琉球の神歌集がある。この中に柑橘類を詠んだ歌が見られる。

「黄金木(こがねげ)の下で」という歌では、「黄金木」つまり柑橘類の木を植えたところ、木の下で「按司(あぢ)」という王家の近親が踊る見事さがあった、と歌われる。

 東京農業大学の杉原たまえは、「おもろさうし」には柑橘類の歌が「数首記載されている」と述べ、「太陽の霊力を受けて長寿延命の霊力が宿る神木として扱われていた」と指摘している。

語源は「酸い食わし」「九年母」「黄金」

 カタカナで表現されがちな柑橘類関係の沖縄言葉も、その語源を探ると深いゆかりがあると気づかされる。

 まず「シークヮーサー」。もともと酸味や香りのある小ぶりな柑橘類全般を指していたもので、「シー」は「酸っぱい」を意味する「酸い」、また「クヮーサー」は「与える」を意味する「食わし」から来ている。合わせて「酸い食わし」となる。

 沖縄の地域研究をする当山昌直が、佐敷村(いまの南城市)で1934(昭和9)年に生まれた知念盛俊から聞き取ったところでは、シークヮーサー(ここでは種としてのヒラミレモン)は食べることのほか、沖縄などで特産の織物「芭蕉布」に汁を酢として与えて、緩んだ繊維をしゃんとさせるためにも使ったという。芭蕉布に「酢を食べさせる」ということで「シーククヮースン」と表現したそうだ。同様の用途では米酢なども使われるが、高価なので代用としてシークヮーサーの汁も使われるようだ。

「クニブ」も沖縄の柑橘類によく使われる言葉だ。「クニブ」は、本土ではミカン科の低木「九年母(くねんぼ)」に当たる沖縄言葉とされる。ただし、沖縄でのクニブは、本土での九年母よりも広く柑橘類を総称する表現として使われている。「イシクニブ」や「ヒージャークニブ」などが(広義の)シークヮーサーの品種としてある。

「クガニー」もよく使われる。これは「黄金(こがね)」の沖縄言葉。熟した柑橘類の実が黄金色になることから、こう呼ばれるという。輝きを放つ果実を「黄金」と形容したのだろう。

個人利用から産業利用への転換

 いまは「シークヮーサー」の名を冠した飲料、飴、酢などの商品が全国に出まわっている。だが、少なくとも昭和時代半ばまでは、この柑橘類は沖縄県北部の「山原(やんばる)」と呼ばれる地域で細々と利用される程度だった。

 当地では、各家庭の敷地内に1〜2本のシークヮーサーが植えられて個人利用されていた。また、野山に自生するシークヮーサーについては、鳥が実をついばんで種を運ぶことで自然に繁殖する。その果実を字(あざ)ごとに分かち合っていたという。

 こうした人々とシークヮーサーの関わりに変化が見られるようになったのは1960年代半ばから。沖縄本土復帰の1972(昭和47)年より前のことだ。当時の琉球政府は、シークヮーサーを産業の対象に推奨するようになった。

 やんばるの地域の一画にあるのが大宜味村(おおぎみそん)だ。かねてから長寿の人々が多く、1993(平成5)年には「長寿日本一宣言」もしている。県内有数のシークヮーサー自生地であり、年配者たちの間には「健康維持のためにはシークヮーサーを食べなくては」という習慣が残っているという。

大宜味村の自然風景。


熟す前のシークヮーサーとその絞り汁。


 1960年代半ば、この村のパイナップルの缶詰工場は、夏から秋にかけてのわずかな期間しか稼働していなかった。そこで、遊休の期間を使ってシークヮーサー加工が行われ、ジュースが県内で売られるようになった。「産業」としてのシークヮーサー利用の始まりだ。

 昭和50年代になるとジュースの新たな製造法が開発されるなどし、1982(昭和57)年には果汁入り飲料「ヒラミ8」が発売されるなどし、シークヮーサーの栽培面積や生産量が増えていった。

 その後、さらに大きな転換点を迎える。農林水産省が1991年から開始した10年の大型事業「バイオ・ルネッサンス」計画などで、シークヮーサーの健康機能についての研究が盛んに行われるようになった。日本全体の健康志向を背景に、シークヮーサーの認知度は全国的に上がり、ブームとなったのだ。市場規模も数年の間に50倍になったという。

シークヮーサーとの“共生”関係は太くなり・・・

 沖縄の人々は長らくシークヮーサーと“共生”を果たしてきた。長年にわたる細々としながらも安定していたその関係性は、20世紀後半に大きく変化したといえる。

 人々は自分の食、健康、暮らしのための恵みだけでなく、産業を介しての恵みもシークヮーサーから得るようになった。一方、シークヮーサーのほうは自生のみならず、人に手による栽培という新たな繁殖の方法を手に入れたことになる。

 今後、人々はシークヮーサーとどのような関係を、さらに築こうとしているのだろう。新たな関わり方の事例を見ていきたい。

(後篇につづく)

筆者:漆原 次郎