シリコンバレーで、人材育成の議論を様々な人と交わしたのですが、米国人であれ日本人であれ、いやもっと正確にはインド人であれ、華僑系であれ、何であれ、全く揺るがない一点がありました。

 自分自身が引き受ける、という当事者意識の有無です。

 何かやっているようだけれど、すべて他人事であるのが、至る所で垣間見えてしまう・・・。

 そういう人材が大変増えてしまった。これはある種、非常にシリアスな国難なのではないか。そんな論点で様々な方と意見が一致しました。

 当事者意識がないというのは、例えばコンビニエンスストアやファストフード店などで、バイトらしい若者とやり取りしていて、店のことも顧客のことも、何も考えていない対応に出くわすことがあります。

 定時になれば、顧客対応の最中だろうが何だろうがハイさようならと帰ってしまう。まあこういうのは、目に見えて分かりやすい当事者意識の欠如ですが、正規社員でも、けっこう頻繁にこの種のことは実は見受けられる。

 まあそれでも、宮仕えなら何とかなるでしょう。

 問題は、ベンチャー起業など、何かリスクを背負って立ち上がるというときの話で、リスクを背負うというのは、借金をするかもしれない、といったバクチのような不確定性だけを言うのではありません。

 最高経営責任者(CEO)というのは、あらゆる雑用をこなして赤ん坊の心配をする親のようなもの、社長兼用務員だと思った方がいいでしょう。

 そういう「当事者意識」を生み出すうえで、何が一番役に立つかと考えたとき、極めて対照的な2つの候補が話題に上りましたので、それをご紹介したいと思います。

 第1は「宿題」です。宿題こそが「当事者意識」を生み出す絶好の機会になっている可能性のケースを検討してみましょう。

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「自由課題」をバカにする親

 夏休みの宿題などで「自由課題」というのが出ると、これを小バカにする親御さんが散見される現実があります。

 毎日少しずつしっかり解きなさい、という計算問題(「K式」というのがよく知られていますが)のドリルみたいなもの、ああいうのが「本当の宿題」だと思い込んでいる。

 夏休みに海に行った。無人島に上陸した。大きな亀がいた。磯でアメフラシを見つけた。突っついたら紫色の液体を噴出した。夕焼けがきれいだった。楽しかった・・・。

 このような体験は、まあ美しい思い出ではあるけれど、作文みたいなもの宿題としては二の次というか、極論すれば、お受験を考えればどうでもよい・・・。

 そのくらいに思っている親御さんも、最近の若い親層には決して少なくないのではないかという懸念を時折抱きます。

 上に書いた「夏休み」事例は、私自身が小学生時代に三浦半島、葉山の親戚の家に泊まりに行き、森戸海岸という海水浴場と沖に浮かぶ「名島」という岩礁など、現実にあったことを記しています。

 名島の池にいた大きな亀の甲羅の模様まで、いまだに鮮明に覚えており、子供なりに鮮烈で美しい経験だったのだと思います。これを作文に書いたかどうか覚えていませんが、夕日を絵にしたのはよく覚えています。

 なぜ、この経験を私が強烈に覚えているかと言うと、名島は浜辺から少し離れているんですね。

 渡し舟なんかも出ていますが、この「名島上陸」を私一人で決意し、ビニールのボートで単身、たかだか数百メートル沖合いの岩礁を目指して「船出」して行ったからです。

 その頃、学校の授業で何を教わったか、ドリルでどんな算数の計算問題をやらされたかなどは全く覚えていません。自分で主体性をもって「やろう!」と決意してやったことは、細かな細部まですべてが克明に残ります。

 将棋の名人などで盤面を細かに覚えている人がいます。すべての手を主体的に指しているからだと思います。

 私にはそういう才能はありませんが、管弦楽の総譜などは数千冊分、細部まで克明に記憶しているのは、一つひとつと主体的に向き合い、自分だったらどうするか、常に自問しながら子供時代から向き合ってきたからだと思います。

 この「主体的に向き合う」の最たるものが自由研究課題だと思います。もっと言えば、お仕着せのように見える仕事を、いかに「自分の自由研究課題」に翻案し直すか、そのコツをつかむかどうかで、伸びる人材が出てくるように考えます。

仕事の大半は「自由研究課題」

 企業に入っても、あるいは何らかの研究機関などに属すならもっとハッキリしていますが、仕事の99.9999%は、お仕着せの「この問題を解きなさい」なんてものではなくて、自分で創意工夫を凝らさなければなりません。

 昨今は、大学院生などでも「これをやってね」と言うと、その範囲だけきれいにやって、その半歩外も全く考えないというケースを普通に見ます。これはこれで頭痛なのですが、まあ別論としましょう。

 例えば「競合他社の製品売り上げと市場戦略を分析しましょう」という話があったとします。

 上司から「これをやってくれたまえ」と振られた分量だけ正味こなしていたのでは、本当に必要なその回りの余白、つまり実務として展開する最初のタップする領域のこともよく分からずに終わってしまいかねない。

 もっと言えば、勘違いして素っ頓狂なリポートを提出したりもしかねない。

 当たり前の、1人の人間の常識に照らして問題を考え直すという「地アタマ」が問われるはずですが、それがなかなか働かない。

 というか、そういうものを働かせるという観点がない。宿題と言われれば、与えられた定義域の中で、ちんまりとコレコレをやってくる。

 例えば計算機プログラミング、アルゴリズムを考え、かくかくしかじかの課題が動くようになりました。おめでとうハイおしまい・・・。虚空に宙吊りされた課題を解くだけで、それが現実と全く結びつかないケースが普通に見られる懸念があります。

 せっかく学校で何か勉強してきたはずなのに、それが役立たない。例えば経済学や経営学は「そんなもので会社は経営できないよ」と現場から軽んじられる最たる例の1つにもなりかねませんが、本来はそうではないはずですよね?

 「役立つ」ではなく「役立てる」。抽象的なモデルを現実の問題に当てはめて、本当に役に立てさせる「地アタマ」が欠けてしまうと、そういう「役に立たない」論になってしまうように思います。

 この、極めて日本型の疾病には、大いに警鐘を鳴らしておかなければならないと、常々思っています。

もう1つのルート:「バイト」という「社会勉強」

 さて、こういう絵に描いた餅タイプのお勉強は、残念ながら日本では明治以来、しっかり世の中に根づいてしまった感があります。

 日本は100年ほど前、9割以上の人間がつまるところお百姓ならびにその関連で仕事して飯を食っていました。

 生活のホンネはそこにあり、学校で習うものは、読み書きそろばん、最低限のもの以外は、米を作るのにもモノを売り歩くのにも、大して役に立たない。

 そんなことより、せっせと働いて銭稼いだ方が手堅い・・・といった「ホンネ」を、私は40年ほど昔の少年時代、母のサブワークを横から眺め、いろいろ実例を観察したことがあります。

 私は父が6歳で亡くなってから、米軍基地そばの場末の町に引越し、母親は教師と並行して地元の「母子会」というもので(その地方では結果的にインテリだったので)指導的な役割を果たしていました。

 母子家庭の若いお母さん、40歳を過ぎた母からは娘のような世代のヤンママたちの相談に乗っていました。

 1970年代の話ですから、今とは大きく常識が異なりますが「中学を出たらさっさと働いて家にお金入れてもらわないと困る」なんていう親を説得して、子供が進学したがってるんだから、何とか高校までは出させてあげなさいよ、見たいな説諭ですね。そんなことをしていた。

 横田基地という米軍基地が近くにあり、多くが夜の商売をしていたヤンママにとって、「高校で習う勉強なんて世の中で役に立たないでしょ。せいぜい英語が話せると便利」だぐらいの感覚が共通認識だったように思います。

 それを本当に過去のことと笑えるでしょうか?

 子供から、高校で習う教科の内容、三角関数や電磁気学、日本史や世界史が社会生活をするうえで、あるいはお金を稼いでいくうえで、どのように役立つか説明してくれと言われて、親御さんは食卓で、生き生きと楽しそうに、それらの有用性を子供たちに説明できるか・・・。

 グーグルを設立したラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンの2人とも、両親はコンピューターに関連する専門家でした。

 基礎の研究でも応用のビジネスでも、食卓で自在に数理の基礎が1つ解き明かしたことが、応用実務でどのように役立つか、縦横に語ってもらっていた可能性が高いように思います。

 例えば理論的に大陸間弾道弾を飛ばすなどの話題もあり得たでしょう。特にお母さんの影響は大きかったのではないかと想像します。

 さて、翻って日本の大学生ですが、机の上の勉強と、世の中の実務が乖離してしまっています。

 それを埋める意味で「社会勉強」と称してアルバイトする。例えばコンビニに勤める、居酒屋で「チーフ」を任される・・・何でもいいのですが、初めて何事か、責任をもって、信頼されて業務の一端の手綱を預けられると、意気に感じてがんばったりする。

 人事採用において、そういう実務経験を見る側面が、短からざる戦後日本の、特に文系の就職考査で、ポイントとされてきた面があるかと思います。

 これの良い点は「当事者意識」をもって引き受けるという点にあります。それがなければお話にもならない。

 同時に、これの良くない点は、100年前の日本の農村と同じで、三角関数も電磁気学もあまり関係ない。昨今、コンピューターが関わる場合がありますが、あまり本質的なイノベーションとは結びつかない。つまるところ、浅くて、小さい。

 そういう隘路に、若者を導いてしまうように思うのです。バイトでできる社会勉強なんて、世間に出ればいくらでも経験せざるを得ないことです。

 そうではなく、学生時代だからこそできる、固有の「当事者意識」をもって取り組める対象として、ドリル形式ではなく自分自身の創意工夫でどのようにでも深めていける種類の宿題があると思います。

 具体的にはリポートであったり、実験であったり・・・。いずれも「ペーパーテスト」の「厳密な採点」よりは甘いものと見られ、教育ママゴン的には鼻で笑われる傾向のある対象かもしれません。

 しかし、そこで「当事者意識」をもった主体的な<味>を占められるかどうかが、活力あるタフでユニークな人材育成の本当のカギになっていると思うのです。

 そういう観点から、日米欧の人材育成を比較検討してみると、大きな落差を指摘せざるを得ません。紙幅がつきましたので、続きは別稿で展開してみましょう。

(つづく)

筆者:伊東 乾