ロヒンギャ難民キャンプの「食の現場」をレポートします(写真:木村聡)

困難な状況に置かれたとき、人は何をどう「食べる」のか。フォトジャーナリストの木村聡氏が世界の食の現場を訪ね歩く連載の第1回目は、ミャンマーで迫害を受けたイスラム教徒、ロヒンギャたちの「食」です。
難民となってバングラデシュ国境の町コックスバザール近郊に集まる彼ら。長期化する避難生活の中、彼らは生きようと、食べようとしていました。

ニワトリの頭を素手でねじり切る少年


木村聡さんによる新連載、1回目です

9歳の少年は生きたニワトリの頭を強引に素手でねじり切った。頭部を失してもなお暴れるニワトリ。少年は血まみれの手で押さえつけると、大事そうに井戸端へと運んだ。

「やっとニワトリをもらって、殺したんだよ。家族が食べるため。もう男手は僕だけだから」

手を洗う彼の横に母親がやって来た。近くのテント小屋前には祖母と幼い弟、妹も座っている。しかし、そこに少年の父親はいない。ほんの3カ月ほど前だった。何者かが彼が住む村の家に押し入って、父と兄たちを連れ去ったのだという。


ニワトリは素手で絞められ、難民一家が食べる貴重な鶏肉になった(写真:木村聡)

2017年8月末、ミャンマー南部ラカイン州で発生したロヒンギャ武装勢力と治安部隊の衝突を機に、膨大な数の住民が国境を越えバングラデシュに逃れてきた。彼らはみな「難民」と呼ばれ、バングラデシュ政府が設置したこの「難民キャンプ」に暮らす。

少年の家族が経験したような悲劇はここでは誰しもが抱え、いたるところでいやでも耳に入ってくる。故郷で少年が最後に見たのは、暴行を受け血まみれになった父たちの姿だったのだそうだ。

少年の弟は祖母に抱かれ、さっきから泣いていた。ただ、泣きながらもコメの飯の入った容器だけは離さなかった。手でつかみ、涙の塩味とともに口に押し込むパラパラの冷や飯。ようやく祖母がシラミの卵を頭からいくつも摘まみ出すと、それは彼が喰らう飯つぶより、よっぽど白くツヤツヤしている。


配給されたコメに具などない色の薄い汁をかけ、ひたすら食べていた(写真:木村聡)

困難な状況でも難民たちは食べていた。ここでは衣食住の中でとりわけ食につながる行動が目立つ。いや、うごめく人間たちが注力し、繰り広げる風景とはほぼそれしかない。

実はあっちでもこっちでも、難民の女性たちは地べたに作ったカマドで煮炊きしていた。卵を茹でたり、魚を揚げたり、何かの葉っぱを煮たり、さらには絞めた鶏を焼いたり。

「コメが欲しい」

今いちばん望むことを祖母は即答した。そして、何をいまさらという顔をして続ける。

「食べなければ生きていけない。食べることが生きることでしょ」

しかしながら、難民たちを支えるその“生命線”はあまりに脆弱だ。ゆえもない。8月以降、ミャンマーから流入した難民は60万人を超えた。突然これだけの人間たちを養う食料など、バングラデシュの国境地帯に用意されているはずもなかった。なんの生産手段も持たない難民の胃袋は、いま国際機関や国内外のNGOによる援助に頼らざるをえない。現地の国連関係者は話す。

「難民が膨れ上がって登録作業が進まず、どれだけ食料が必要なのか把握できない。ただ、足りないというのは確かだ」

難民の大量発生直後から国連世界食糧計画(WFP)によるコメの配給は始まり、豆や食用油もキャンプに運ばれるようにはなった。しかし、数カ月経過しても難民流入はやまず、緊急食料として配られるビスケット数枚で何日も空腹をしのぐ難民もいまだ少なくない。

国連の人道問題担当者は10月に難民キャンプに入り、「食料、避難所、飲料水などが不足している」と国際社会の迅速な対応を求めた。ユニセフも、国境なき医師団も、赤十字も、どの機関もこぞって支援拡大を訴え続ける。裏を返せば、逼迫した食料不足が解消せずに慢性化していることにほかならない。

失わなくてもいい命が失われる場所

バングラデシュには2016年からすでに数十万人のロヒンギャ難民が避難していたが、今回さらに多くの難民が加わった格好だ。隣り合う「クトゥパロン」と「バルカリ」という既存の難民キャンプはそれぞれが膨張を続け、もはや境目がないほど。ごく狭いエリアに60万人以上の難民が集まるキャンプなど、これまで世界のどこにもない。


「子連れの母親に食料が配られる」との噂が流れた。難民キャンプにはすぐさま人が集まり列ができた(写真:木村聡)

大規模な難民受け入れ施設となったクトゥパロン・キャンプにおいて、やはりつねに人が群がる場所が食料配給所だった。多いのは女性や子ども。難民証や配給チケットを手に、人々は食料を積んだトラックを待ち、暗いうちからひたすら配給所に長い列を作る。

「今度いつもらえるかわからないから、食事は1日1食」

運良く食料を受け取れた難民がそう話し、コメ袋を担いで“家路”へと向かう。キャンプ内は竹とビニールシートで囲っただけのみすぼらしい住居が並んでいた。その間を“汚水の川”が流れ、周辺に排泄物の匂いが漂う。露天掘りの井戸もある。そこでは飲み水を汲み、食べものを仕込み、同時に洗濯と子どもの尻も洗う。

最悪の衛生状態


不衛生な生活廃水と隣り合って暮らすクトゥパロン難民キャンプ(写真:木村聡)

彼らが食料を持ち帰って食べる場所は最悪の衛生状態だ。赤十字の調査では4割の難民が下痢を訴えているという。ひとたびコレラなどの感染症が発生すれば一気に蔓延するだろう。そして、栄養状態が不良で衰弱した、特に小さな子どもたちは病原菌に対し抵抗力がない。食料不足は飢餓という極限状態に陥る以前に、ちょっとした病気でも重篤化してしまう環境だ。ここは救える命でさえ簡単に失ってしまう危機をはらむのである。

仮設テントに6人ほどがいっしょに暮らすサヒールさんのところでも、配られたコメは尽きかけていた。彼はミャンマーでは料理人だったと言った。小さい店で自慢の料理をふるまい人気だったそうだ。その店でサヒールさんは襲撃を受けた。太ももを銃で撃たれ、重傷のまま逃げ、たどり着いたこの難民キャンプ。7針を縫う手術で命を取り留めた。

家の中は立つのも精一杯でとても狭いが、さすが料理人だからだろうか、調理場が居住スペースの一角にきちんと確保されていた。ちょうど彼の妻と娘が食事の準備をしていた。食べるものは配給以外に、近くの農家から野菜などの寄付があるという。もらったニンニクを炒め、拾ったトウガラシを炒め、さらにそこに洗面器に入った、なにやら魚を加工した食材をわしづかみで投入。見れば発酵食品とも言いがたい、限りなく腐敗物に近いグズグズに崩れ異臭さえ放つ自家製の代物だった。

「私たちがミャンマーで食べていたもの。ここではちゃんと作れませんが、郷土の味なんです」

娘が混ぜる鍋を覗き見ながらサヒールさんは話す。家じゅうが刺激臭でむせ返った。

軋轢を生む宗教、民族、胃袋


ロヒンギャ難民が仮設テントの自宅で”民族の味”を作っていた(写真:木村聡)

現在、難民たちは収容所外へ自由に移動することはできない。バングラデシュ軍などが厳しい検問を行って、難民をキャンプ周辺に封じ込めているからだ。

ただでさえ貧しく、人口過密問題を抱えるバングラデシュは難民の受け入れに消極的である。地域住民の人口よりはるかに多く膨れ上がった難民は地元経済を圧迫し、バングラデシュ政府は治安悪化とテロの懸念もあると主張する。国内有数の観光地コックスバザールから遠ざけ、彼らを無人島へ移住させる隔離計画も進む。

「ここは小さな国です。私たちだって食べるのに大変なのに、ロヒンギャを助けるなんて不可能。早く帰ってほしい」

バングラデシュ人の農民が話す。向けた視線の先には稲の刈り取りが終わった水田。そこはすっかり踏み固められ、急ごしらえの難民の住居が造られていた。


国立公園の森を切り拓き、水田を埋め、巨大難民キャンプは日々膨張している(写真:木村聡)

避難先との軋轢に加え、難民たちの間でもトラブルは表面化している。点在する難民キャンプは統合される方向だが、イスラム教徒のサヒールさんは他教徒の難民が混ざることに嫌悪感を示す。

「奴らとは一緒にはなれない。食べるものが違うから」

宗教や民族の対立、国家の都合で生じた難民。どこにも受け入れられず行き場もなく、飢え封じ込まれた胃袋はもはや全体で100万に迫る勢いだ。