タイトル獲得の希望すら抱けなかった2000年代前半のバルサを劇的に変えたのが、ロナウジーニョの入団だった。(C)Getty Images

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 バルセロナは2000年代前半、長くタイトルから遠ざかる深刻な低迷期を経験した。ハビエル・サビオラ、パトリック・クライファート、ファン・ロマン・リケルメらが主力を担い、若き日のシャビがまだチームの脇役に過ぎなかった時代だ。

 当時のチームを想起する際、ミヒャエル・レイツィハーやファビオ・ロッケンバックなど、ノーインパクトに終わった選手の名前が真っ先に思い浮かんでしまう事実が、当時の低迷ぶりを物語る。

 2002‐03シーズンには、優勝したレアル・マドリーに勝点22の大差を付けられて6位に終わるという屈辱を味わった。当時のマドリーは、ジネディーヌ・ジダン、ルイス・フィーゴ、ラウール・ゴンサレス、ロナウドといったビッグネームが数多く顔を揃える、いわゆる“ガラクティコ”(銀河系)の全盛期だった。

 そのシーズンのコパ・デル・レイで2部B(3部リーグに相当)のノベルダ相手に不覚をとっての敗退は、当時のバルサを象徴する惨敗劇であった。「クラブを超えた存在」をスローガンに掲げながらピッチ上ではなんのインパクトも残さない、並みのクラブに埋没するシーズンが続いていた。

 転機となったのが、2003年夏の若き弁護士ジョアン・ラポルタの会長就任であり、フランク・ライカールト監督の招聘であった。そして新会長のラポルタは、会長選で圧勝した勢いを追い風に、プロジェクトの目玉として、当時世界屈指の人気を誇ったデイビッド・ベッカムの獲得を試みた。

 しかし、こうした交渉事では一日の長があるレアル・マドリーとの争奪戦に敗れてしまう。その代役として、移籍金2700万ユーロ(約37億8000万円)で獲得したのがロナウジーニョだった。そしてこのターゲットの変更が、結果的にバルサを長い眠りから目覚めさせる起爆剤となったのだ。

 2002年の日韓ワールドカップを制したブラジル代表の優勝メンバーで、パリ・サンジェルマンの中心選手でもあったロナウジーニョは、重苦しい雰囲気に包まれていたバルサの空気を、笑顔とともに一変させた。

 2003年9月3日、バルサにおけるロナウジーニョの伝説が始まった。

 代表戦の関係により、深夜0時5分キックオフとなったリーガ・エスパニョーラのセビージャ戦で、ロナウジーニョは自陣でGKからのパスを受けると、軽やかなステップで対峙する選手をひとり、またひとりとかわし、ゴール正面から右足で豪快にミドルシュート。相手GKの頭上を破る強烈な弾道がネットに突き刺さり、その瞬間、スタジアム全体が歓喜の渦に包まれた。

 そのシーズン、バルサはリーガで2位に終わり、UEFAカップではセルティック(スコットランド)の前にベスト16で敗退するなど成績自体はパッとしなかったが、ロナウジーニョの魔法のようなスーパープレーと笑顔がもたらす上昇気流は、カンプ・ノウに熱気を取り戻した。

 その勢いに乗って迎えた2004‐05シーズン、バルサは6年ぶりにリーガを制覇。その翌シーズンにはリーガとチャンピオンズ・リーグの2冠を達成した。ヨハン・クライフが作り上げた“ドリームチーム”が1991‐92シーズンに成し遂げて以来の欧州制覇。バルサはついにヨーロッパの頂点に返り咲いた。

 その2005‐06シーズン、マドリーとのクラシコで2ゴールを挙げるなど、圧巻のパフォーマンスを見せたロナウジーニョに対し、敵地サンチャゴ・ベルナベウのファンが、立ち上がって拍手を送るという一幕は、サッカー界の頂点に君臨していた当時の彼を象徴するシーンだった。

 ただ残念ながら、ロナウジーニョの輝きは短期間で終わりを告げ、結果的にこのシーズンをピークに勢いは急速に失われていった。

 とはいえ、バルサに黄金期の幕開けをもたらしたのがロナウジーニョであることに異論の余地はない。リオネル・メッシのトップチーム初ゴールをアシストしたのが彼であるという事実は、何とも示唆的だ。

 スペクタクルなプレーと同様に、夜遊び好きの派手なライフスタイルが問題視され、ジョゼップ・グアルディオラが監督に就任した2008年夏にバルサを退団。以降は、バルサがメッシを中心に黄金時代を謳歌するのを尻目にチームを転々と渡り歩き、徐々に第一線から退いていった。

 そして先月16日、ついにその波乱万丈の現役生活に別れを告げることを発表。短い期間だったが、その間に放った存在感と輝きは格別だった。ロナウジーニョの笑顔と魔法のようなプレーは、バルセロニスタの中で永遠に生き続けていくことだろう。

文●オスカル・サンス
翻訳:下村正幸
※『サッカーダイジェストWEB』では日本独占契約に基づいて『エル・パイス』紙の記事を翻訳配信しています