齋藤孝『大人の語彙力大全』(KADOKAWA)

写真拡大

腹が立ったとき、あなたはどう言うだろうか? 「ムカつく」という言葉が出る人は、要注意だ。明治大学教授の齋藤孝氏は、「デキる人は、深みのある言葉を身につけ、正しく運用している」と説く。どんな表現を選べばいいのか。具体例を紹介しよう――。

※本稿は、齋藤孝『大人の語彙力大全』(KADOKAWA)の第6章「目指せ美しい日本語マスター、夏目漱石が使った語彙」を再編集したものです。

■教養につながる語彙を身につける

日本を代表する文学作品の一つである『源氏物語』。平安王朝の宮廷での生活ぶりや貴族社会、和歌を介してひそかに育まれる恋物語など、当時の文化と教養の髄が詰まった本作が多くの人に読まれたのは、当時の人々がこれらを理解する語彙力とともに素養を持っていたからです。「語彙の豊かさ」とは、ただ単に語彙量が多いということではなく、教養につながる語彙を持っていることなのです。

ビジネスシーンでは、選ぶ言葉によって能力を判断されることがあります。間違いではないけれど、あまりに単純な言葉ばかり使っていると、「仕事も未熟な人だろう」と思われてしまうのです。

そこで差をつけるのが教養につながる語彙です。この度の『大人の語彙力大全』では、上級語彙として「漱石語」という章を設けました。明治の一大知識人である漱石の言葉は、教養につながる語彙そのもの。早速、普段使いがちな言葉を漱石語で言い換えてみましょう。

「ああ、ムカつく!」→「まったく業腹だ」
「いいにおいがする」→「馥郁たる香りがする」
「ツラいです」→「胸が塞がるようです」

左も右も、同じことを言っています。ですが、言葉を変えるだけで受け取るニュアンスはずいぶん違います。単純な言葉がなぜ幼稚に感じられるのかというと、「深み」や「広がり」のない言葉だからです。「ムカつく」は、ただ怒ってイライラしているだけですが、「業腹」は、腹の底でマグマが湧き出しているようなイメージが浮かびます。また、「いいにおい」の代わりに「馥郁たる香り」と言うことで、奥行きのある香りを表現できます。

「単純=幼稚」ではなく、「教養=深み」のある語彙を身につけましょう。

■時代やシーンに適した運用力

語彙力の要素の一つは「運用力」です。言葉の意味を知っていて、かつそれを正しく使いこなせる力=運用力があってこそ、語彙力があると言えるのです。

言葉は、時代やシーンによって使い方や意味が変わるものでもあります。

例えば「女史」という言葉。これは本来「山田女史」「田中女史」という形で、社会的地位のある女性の敬称として使われる言葉です。ですが、男女平等の時代にあって、女性特有の敬称をつけるのは逆差別ともとられかねません。また、気性の激しい女性を揶揄して「○○女史は」と言うケースも見られますが、あまりいい言葉とは言えません。敬称として女史を使うのは誤用ではありませんが、時代状況を考えると、男性同様「山田氏」「田中氏」とするのがいいでしょう。

また、シーンによって意味に注意しなくてはならないのが「無礼講」。身分や地位の上下関係なく楽しむ宴ということですが、会社の飲み会で上司が「今日は無礼講だ!」と言ったからといってそれを真に受けてはいけません。「無礼講」を語義のままに実践し、翌日後悔しなかった人を、私はいまだかつて知りません。だからといって、いつものようにかしこまったままでいると「ノリが悪い」と思われてしまいます。「無礼講」と言われたら、いつもより少しテンションを高くしておくくらいが安全です。

■「忖度=悪いこと」ではない

2017年の流行語大賞になった「忖度」。これは政治家が使って膾炙した言葉ですが、特に目新しい言葉ではありません。元をたどれば、平安中期の菅原道真の漢詩集『菅家後集』にも使われているくらい歴史のある言葉です。

人の気持ちを推し量る、先回りして配慮するという意味で、「忖度する」「このたびの忖度」という形で使います。「忖度」自体に善悪の価値基準はないのですが、政治献金の話題で使われたことによって「忖度=悪いこと」ととらえている人が多いかもしれません。

もし、いい意味で「忖度」を使う文脈があったときに、「その使い方は間違っているよ」と恥ずかしい指摘をしないように、正しい語義を知っておきたいものです。

■ニュアンスを伝える語彙を増やす

ビジネスにおいては、あえて曖昧な言い方をしておいたほうが無難なケースがあります。例えば、大きな声では言えないけれど、相手の耳に入れておいたほうがいいことを伝えるとき。「これは知っておいてください」と言うとあからさまなので、こういうときは「お含みおきください」と言います。「私の口からはっきりとはいえないのですが、頭の隅に入れておいてくださいね」というニュアンスです。

また、頼まれごとをして引き受けたものの、それほど積極的な気持ちがない場合、「了解しました」と言うと、相手にとっては前向きに聞こえます。そこで、「お引き受けするのはやぶさかではありません」と言うと、「引き受けるのはかまわないけれど」という、「けれど」のニュアンスを伝えることができます。

ビジネスは、互いの押し引きがポイントになる世界であり、明確にすべきことと曖昧にすべきことが混在する複雑な世界です。

伝えたいことを確実に伝え、伝えたくないことは曖昧にする、そういう語彙を持っておくことも、時代に即した語彙力と言えます。

語彙は多ければ多いほどいい、ということはありません。必要な語彙、時代に即した語彙、あるいは自分を守る語彙を過不足なく身につけることが大切なのです。

■外来語は今や必須語彙の一つ

最後に、私は教養につながる語彙として古典を大切にしていますが、その一方で外来語も重要だと考えています。

外来語を重視するのは日本語軽視だという意見には、賛成できません。グローバル社会にあっては、外来語が必須の語彙になるのは当然のことです。

必要な語彙は時代とともに変わっていきます。今の時代に必要な語彙があるのです。その代表的なものが外来語です。

むやみに外来語を使うことには同調できませんが、外来語でしか表現できないことは、その意味を知って正しく使えるようになりたいものです。

----------

「クラウドファンディング」……ある目的のために不特定多数の人からインターネットを通じて資金を集めるという意味で、「ファンド」は資金や基金という意味です。現在、ネット上のクラウド(雲)がよく知られていますが、この場合のクラウドは「大衆」の意味です。
「コミット」……関係する、関わりあうことという意味。「結果にコミットする」というキャッチフレーズがありますが、「結果を約束(確約)する」ではなく「結果に関わる」という意味なので、飽くまでも結果責任は当事者にあります。
「アジェンダ」……計画、議事日程のこと。アジェンダとは行動計画のことなので、日程と手順を明らかにしておかなくてはなりません。「アジェンダを用意して」と言われて雑駁な書類を出したら、「できない人」と思われてしまいます。
「プラットフォーム」……基本構造という意味。ビジネスではプラットフォームを作った者がルールを決めると言われています。決して「駅のプラットフォーム」の意味ではないので注意しましょう。

----------

これらは、50年前に語彙力の本を作ったとしたら、おそらく収録されない言葉ばかりです。「日本人なんだから日本語で説明しろ」というのは今やナンセンス。このくらいの外来語を理解していないほうが問題です。

----------

齋藤 孝(さいとう・たかし)
1960年静岡県生まれ。明治大学文学部教授。専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。著書に『三色ボールペン活用術』『語彙力こそが教養である』(以上、KADOKAWA)、『声に出して読みたい日本語』(草思社)など多数。NHK Eテレ『にほんごであそぼ』総合指導。

----------

(明治大学文学部教授 齋藤 孝)