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死後記念写真の盛衰にみるネットと追悼。故人を偲ぶためにテクノロジーは必要か



ある種のテクノロジーには、時間を留める力がある。往年の良い思い出だったり、かつての大切な人だったりを風化させないやさしい力が--。

死後記念写真文化がはかなく散った理由



典型例のひとつとして、19世紀半ばから後半にかけてヨーロッパで流行した「死後記念写真(ポストモーテム・フォトグラフィー)」が挙げられる。1839年に最初期の写真法である銀板写真(ダゲレオタイプ)が発明されたのをきっかけに、肖像写真を撮影する流行が起こったが、それを追うように、亡くなった家族を撮影する需要も高まっていった。

それらの写真はネットで簡単に閲覧できる。生きている家族の中央で生気のない表情の故人が無理に立たせられていたり、特殊技術でまぶたを開いて無表情の瞳を覗かせていたり。どの写真を眺めてもどうしても違和感がつきまとう。現代人の感覚だと不気味な印象を抱くのも無理はないと思う。

ただ、当時の人にとっては、亡き家族の姿を留めておけるかけがえのない手段だったのは間違いない。埋葬されたあと、故人の姿は記憶の中や子孫に受け継がれた面影、あるいは肖像画などを頼りにするしかなかった。それらに対して、写真はとても直接的な情報を残してくれる。



テクノロジーは追憶を補佐してくれる。補佐が必要ないなら、邪魔はしない



そんな死後記念写真は20世紀に入るとあっけなく廃れていった。写真文化が広く普及し、生きている間に肖像写真を残せる機会が圧倒的に増えたのが主な理由なようだ。

生きている頃の写真が残っているなら、何も死後に撮影することはない。没後も元気な頃の写真が遺影となり、故人を偲ぶ依り代として機能してくれる。すると不自然な感じがどうしても出てしまう死後記念写真にすがる意味はなくなってしまう。それが急速な衰退につながったのだろう。

ちなみに、日本で遺影を飾る習慣が生まれたのもこの頃だ。背景には、日露戦争(1904〜05)の戦死者を顕彰する目的で推奨した軍の思惑がある。それ以前も肖像写真を撮る習慣はあったものの、祭壇に飾ったり、語りかけたりする対象とはみなされていなかった。追憶の拠点としての写真の使われ方がちょうど欧米とリンクした。

AIによって故人との双方向のやりとりも視野に



死後記念写真は写真技術の発展と普及によって廃れた。が、その役割は生前撮影の遺影に移って現代もなお生きている。

たとえば筆者が5歳の頃('80年前半)に亡くなった祖父の姿を今もすぐに思い浮かべられるのは、祖母の家の仏間に飾ってある遺影のおかげだ。遺影にない情報は一切思い出せない。何しろ幼少期だったし、住まいが別だったので直接やりとりした記憶は皆無に近い。どんな声だったか、どんな雰囲気の人物だったか、どんな言葉遣いだったかなどは知るよしもない。親戚からの証言も断片的だ。

仮に時代が20年後ろにずれていたら、ビデオカメラやデジカメ、携帯電話などで撮った動画が残っていて、そこから声や仕草を知ることもできたろう。30年ずれていたらスマホの時代に突入するので、より確実に祖父の死後に“動く祖父”を体験できたはずだ。

静止した故人から動く故人へ。さらに、これからは双方向でやりとりできる故人とも触れ合えるようになるかもしれない。

グーグルは深層学習プロジェクトの一環でシェイクスピアなどの文豪の作品を学習し、その人らしいチャットを生成しているし、マサチューセッツ工科大学も当人の過去のツイートをベースにしたAI版ドナルド・トランプ(@DeepDrumpf)のツイッターアカウントを走らせている。国内でも、中部経済新聞が開発した「AI記者」エンジンを元にして、アイドルのツイート代行実験を17年5月に実施したのは記憶に新しい。

これらの技術を使えば、故人が生前に残していったSNSの投稿やチャット、アップした写真とコメント欄でのやりとりなどを素材にして、相当にその人らしく、かつフレキシブルなボットが生成できる。

しかし、そういった方面のサービスが盛り上がっているという声は聞かない。なぜだろう?

面影が残しやすい時代に僕らは生きている



つまるところ、現在は情報過多の時代だということなんだろうと思う。紙焼き写真にデジタル写真、動画データやメール、チャットの履歴など、普通に生きていればその人の“分身”が膨大に作られていく。そんな時代においては、一枚の写真さえ残すことが困難だった19世紀のような渇望は起こりえないんじゃないだろうか。

亡くなった大切な人の面影をいつまでも持っておきたい。そう思ったら、手持ちのアルバムや端末、ネット上の痕跡をしっかり保管して、定期的にメンテナンスすればいい。確かに最新技術を使えば、擬似的に双方向のやりとりも望めそうだが、そこには死後記念写真に似た違和感がやはりつきまとうのではないだろうか。その違和感を乗り越えるほどの需要の高まりは、今のところ想像できない。

ただ、ロボットにおける不気味の谷と同じく、いずれこの違和感は克服できるようになるかもしれない。その未来を体験してみたい気持ちもある。さて、どうなるでしょうね?

古田雄介(ふるたゆうすけ):デジタル遺品の現状を追うライターで、デジタル遺品研究会ルクシー理事。著書に『故人サイト』(社会評論社)『[ここが知りたい!]デジタル遺品』(技術評論社)など。

※『デジモノステーション』2018年3月号より抜粋。

text古田雄介