ドナルド・トランプ氏の元首席戦略官スティーブン・バノン氏から「トランプの前に現れたトランプ」と称賛された安倍晋三首相(写真:Kim Kyung/ロイター)

右派ポピュリズムの波が欧州、米国、インドなどをのみ込んでいるが、日本はまだ無傷のようだ。極右政党を率いるオランダのヘルト・ウィルダース氏やフランスのマリーヌ・ルペン氏、あるいはトランプ米大統領のように、反エリート感情をあおって大衆を扇動する政治家は日本にはいない。なぜだろうか。

おそらく、橋下徹・前大阪市長がこうしたデマゴーグに最も近い存在だった。極右の政治思想やリベラル系メディアに対する敵意は右派ポピュリズムの典型だった。

バノン氏に絶賛された安倍首相

その橋下氏と気脈を通じるのが安倍晋三首相だ。安倍氏は、戦時中に閣僚を務め、後に首相となった岸信介氏の孫であり、外相を務めた安倍晋太郎氏の息子である。これほど政治エリートと呼ぶにふさわしい人物もいない。

が、それでいながら、同氏がリベラル系の学者やジャーナリストに対して見せる敵愾心(てきがいしん)は右派ポピュリストと同様のものだ。日本に右派ポピュリズムが存在しないように見える理由の一端が、ここにある。

戦後日本の民主主義に影響を与えた1950〜1960年代エリートは、日本を戦時ナショナリズムから意識的に遠ざけようとしてきた。これを無効化しようとしているのが安倍氏とその支持者だ。

安倍氏は平和憲法改正や戦争時代に対する誇りの回復、朝日新聞のようなエリート主義的マスコミの評判をおとしめることに力を注いでおり、トランプ氏の元首席戦略官バノン氏から「トランプの前に現れたトランプ」と称賛された。

つまり、右派ポピュリズム的なるものが、大衆(からのボトムアップ)ではなく、名門一族の御曹司(によるトップダウン)という形を取って政府中枢に存在しているのが日本なのである。

とはいえ、日本にルペン氏のような扇動家が現れないのは、こうした逆説的な状況だけが理由なのではない。外国人やエリート層、グローバリズムや自由主義への反感をあおり立てるためには、経済、文化、教育面で歴然とした格差が存在していなければならない。

現代の日本は欧米やインドなどに比べれば、はるかに平等だ。相続税は高く、遺産は受け継がれにくい。米国と違い、大金持ちも控えめなことが多い。中間層の国として、日本は米国を凌駕している。

米国と根本的に異なる日本

人としての価値が知名度やカネといった個人的な成功によって測られる(米国のような)社会では、人々は敗北感を感じやすい。その他大勢の一人であることによって自尊心が傷つけられる。ポピュリストの政治家を支持するのは、こうした鬱憤を抱えたその他大勢だ。エリートに裏切られ、プライドを奪われたと感じている人々である。

このようなことはまだ日本では起きていない。米国流の自己顕示はひんしゅくを買うのが日本だ。確かに日本でもセレブは羨望の的だが、名声や富以上に、組織の中に居場所があり、そこで与えられた仕事をしていることによって自尊心が保たれる社会である。

たとえば銀行には、制服に身を包み顧客に笑顔で頭を下げているだけの中高年男性がいる。こうした仕事は完全な無駄に思えるが、そのような仕事であっても、世の中に居場所があるとの感覚を与えてくれる。

また、日本経済は先進国の中で最も保護され、グローバル化の度合いは最も低い。企業の既得権益や官僚の特権、利権政治など日本政府がロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャー流の新自由主義に抵抗してきた理由はいくつかある。雇用に対するプライドを守ることはその1つだ。効率を犠牲にすることで日本経済の活気が奪われていても、別にそれはそれでいいのかもしれない。

効率は共同幻想を生み出さない。世の中から取り残されていると感じる人たちはエリートを非難する。自分たちが苦しんでいる一方で、彼らはグローバル経済の恩恵にあずかっている、と。

しかし、皮肉なことにこうした米国の人々は、富や成功をひけらかし、自らを天才と呼ぶナルシシストの億万長者を大統領に選んでしまった。このようなことは日本では起きそうにない。その理由をじっくり考えてみれば、価値ある教訓が得られるかもしれない。