―大好きな吾郎くんが、私と結婚してくれたー

数々の苦難の末に、結婚願望のない男・吾郎との結婚に辿りついた英里。

結婚はゴールでないことなど、百も承知。

しかし、そんな二人を待ち受けていたのは、予想を上回る過酷な現実であった。

愛し合っていたはずの夫婦は、どのようにすれ違い、溝ができてしまったのか。

男女の価値観のズレ、見解の相違、そして、家庭外での誘惑...。

二人は “新婚クライシス”に陥り、夫婦仲はギクシャクしたまま、ついに別居してしまう。そして英里は、後輩・新一から思わぬ告白をされてしまった。




凍てつくように寒い夜の銀座を、英里は逃げるように足早に歩いていた。

都会のど真ん中とはいえ、この季節は酷く冷え込む。さらに雨まで降り出したから、手足はじんじんと痺れるような痛みすら感じた。

急いでタクシーを捕まえようとするが、必死に手を振り上げても車は虚しく素通りしていく。夜の銀座には、何らかの規制があるようだ。

―僕、英里さんが好きですー

切羽詰まったような新一の声が、耳から離れない。

頭が完全に混乱し、動揺で呼吸が荒くなった。だがその一方で、英里自身も彼との関係が単なる会社の後輩・先輩を超え始めている気配は薄々感じていたのだ。

しかし新一に抱きしめられたその瞬間、英里は自分の本心に気づいてしまった。

あのとき、驚きと焦りの中で頭いっぱいに浮かんだのは、他ならぬ吾郎の顔だった。

―私、本当に最低...。

大通りでやっと捕まえたタクシーの中で、英里は寒さでカタカタと震える手でスマホを取り出した。


英里が電話をかけた相手は...?


崩壊して、はじめて気づくこと


「まさか、こんな寒い日に水遊びしてたなんて言わないでよ」

雨に濡れた英里の姿を見て、咲子は眉を寄せる。

「風邪引くから、先にシャワー浴びて」

「遅くにごめん、ありがとう...」

タクシーから電話をかけた相手は咲子だった。彼女は何も言わずとも英里の様子を察したようで、自宅に招いてくれた。

「気にしないで。どうせ一人で暇だから」

咲子と同じく他社の商社マンである夫は、駐在で南米にいる。咲子の産休まではとりあえず別々に暮らし、出産後は彼の元で子育てをする予定だと聞いていた。




「それで、新一くんと何があったの」

彼と一緒だったとは伝えていないのに、咲子は何もかもお見通しだ。

「...まだ、ギリギリ何もない...かな」

「あーーー、よかった!」

英里が答えると咲子が大袈裟に反応したので、つい二人同時に吹き出してしまった。しばらく気まずかった空気が、途端に和らいでいく。

「こんな風に夜中にパジャマで話してると、独身に戻ったみたいね」

咲子の言う通りだった。つい先日まで二人は20代で、よくこうしてお互いの家に泊まり恋話に花を咲かせていたのだ。

食事会の品評、デート相手の値踏み、彼氏の悪口に、ちょっとした浮気心。あの頃は、多少の悪巧みややんちゃな話も、すべて笑いに変えることができた。

しかし、今はどうだろう。

ほんの些細な不満や愚痴ですら、年齢とともにどんどん重みが増していく。結婚すれば尚更だ。そうして吐け口が狭まるのも、悩みが深刻化する原因の一つかもしれない。

「でも、英里も私も、もう結婚したんだよ。独身の頃と違うんだから、自覚を持たなきゃいけないのよ。たとえ、夫が何も変わってなくてもね」

咲子は意味深な様子で言った。

「ウチだって、色々あったのよ。旦那の駐在について行くとか行かないとか、私が仕事辞める辞めないとか...。実は、妊娠は想定外だったの。正直、何度後悔したか分からない」

親友の告白に、英里は心底驚く。

たしかにキャリア志向の強い咲子が早々に妊娠したのは意外であったが、彼女は悩む様子など全く見せることなく、いつも元気に堂々としていたからだ。

「え...どうして相談してくれなかったの?一人で心細かったんじゃないの...」

「心細いどころじゃないわよ。体調は日々変わるし、情緒不安定になるし、人生やり直したくて毎晩一人で泣いてた時期もあったわよ。笑っちゃうでしょ。

だけど旦那は何の負担もなく順調に仕事してて...。何で私ばっかりって、彼が憎かった。でも私は、英里みたいにいちいちギャーギャー訴えられない性格なの」

常日頃から鈍感な自分に、英里はつくづく呆れてしまう。そもそも英里にとっては、“妊娠=手放しの幸せ”という発想しかなかった。

「でも...結婚なんて所詮紙切れ一枚の契約だけど、意外と重いのよね。結婚も妊娠も全部嫌になって本気で投げ出しちゃおうかと思ったけど、今は流れに任せようって受け入れてる」

「そうなんだ...何も気づかないで、私ばっかりごめん...」

「だけど、そんな顔してるってことは、英里は結局、何だかんだ吾郎先生が好きなんでしょ。まぁ、私は最初から分かってたけど。ある程度崩壊しないと、本当に大切なものって分からないのかもね」

膨らんだお腹をさすりながら微笑む咲子を見て、英里はコクリと頷いた。


一方、松田大先生に助けられた吾郎は...?


腐っても、吾郎


「...そろそろ気が済んだだろ。血迷うなよ、吾郎」

『P.C.M パブ・カーディナル・マルノウチ』にて、松田はクラフトビールを喉に流し込みながら、吾郎の肩を叩いた。




「...松田、この前は悪かっ...」

「やめろよ。最近お前らしくないんだよ。他人から何言われても、ブレずに根拠なくエラそうなのが吾郎先生だろ。嫁に嫌われても若い女に言い寄られても、腐っても吾郎でいろよ」

「松田......」

褒められているのか貶されているのか微妙な文句ではあるが、熱く語る様子を見る限り、松田が吾郎を励ましているのは間違いないようだ。

「ナオミちゃんは俺がフォローしとくし、お前はさっさと家に帰った方がいいよ」

松田の言う通り、おそらく家に帰るべきなのだろう。

何より吾郎自身も、英里との不仲により他の様々なことにも支障をきたす現状に、いい加減嫌気が差していた。

また、いくら仕事や趣味に逃げようとも、「我が家」というプライベート空間の居心地が悪く、暗い顔の妻と生活を共にすることで、生活全体の充実・満足度は確実に下がる。

要は、夫婦不仲というのは、人生において酷く効率が悪いのだ。

それならばと、多少ソリは合わずとも妻の機嫌をとり、松田のように飼い慣らされる方がずっと楽で賢い選択であることも、やっと少しずつ納得できた。

だが、しかし。

それが本当に、夫婦の正しい在り方なのだろうか。




「...いや、まだ帰れない」

「何でだよ...」

「結婚を決めたときは、嫁はただ俺と一緒にいれば満足だと思ってたが、甘かった。だから自信がないんだよ。この先アイツを幸せにできるのか」

吾郎が思うに、男という生き物は、おそらく根本的に二種類に分かれる。

松田のように情に厚く、他人のために自分を譲ることにさほど疑問を持たない素直な男。そして吾郎のように、自分のプライドや欲求を何より優先し、それを邪魔されたくない自己中心的な男。

言うまでもなく、結婚向きなのも、女を幸せにするのも前者の男であろう。

かと言って、30年以上かけて形成された性格を瞬時に変えることなど不可能である。そんな自分が、どこまで英里に譲ることができるのか。また英里も、どこまで受け入れられるのだろうか。

それに、妻の心はすでに遠く離れた可能性もある。

「中途半端な覚悟じゃ帰れないだろ。...腐っても、俺だから」

「お前は本当に頑固......ってか、実は真面目なんだろうなぁ。まぁ、深く考え過ぎるなよ」

松田は呆れたように笑い、もう一度吾郎の肩を叩いた。

今頃英里は、自宅のベッドでスヤスヤと眠りに就いているだろうか。

吾郎は、妻のあどけない赤ん坊のような寝顔が無性に恋しくなる。

だが、果たして自分はそんな彼女の夫としての役割を全うできるのか、納得のできる答えにはまだ一歩及ばなかった。

▶NEXT:2月10日 土曜日更新予定
吾郎を待つと決めた英里に、“あの男”が接近する...!




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