映画『捜索者』を観たときの強い違和感と陰惨な印象の正体 [橘玲の世界投資見聞録]

 ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の西部劇のひとつに『捜索者』がある。原題は“The Searchers”で、インディアンにさらわれた幼い姪を捜索する武骨な男をジョン・ウェインが演じている。『理由なき反抗』や『ウエストサイド物語』のナタリー・ウッドが出演しているというだけの理由で高校生のときにテレビで見たのだが、肝心のウッドはインディアンの妻となった役でほんのすこししか出てこず、強い違和感と陰惨な印象しか残らなかった。

 ではなぜいまこの映画の話をするかというと、アメリカのジャーナリスト、グレン・フランクルの『捜索者』を読んだからだ。フランクルはこの1本の西部劇について、邦訳で500ページを超える大部の本を書いた。なにをこれほど語ることがあるのだろうかと、不思議に思ったのが本を手に取ったきっかけだ。

 フランクルによると、映画『捜索者』は1956年に大型西部劇として鳴り物入りで公開されたものの、評価も興行成績も可もなく不可もなくという程度で、『駅馬車』や『アパッチ砦』『黄色いリボン』といったフォード西部劇の傑作と比べるとほとんど注目されなかった。

 それが1960年代にジャン・リュック・ゴダールなどフランス・ヌーベルバーグの映画作家たちによって再発見され、マーティン・スコセッシ、スティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、ジョン・ミリアスといったアメリカの新世代の監督たちに熱烈に支持された。『スター・ウォーズ』『未知との遭遇』といった作品にも歴然とした影響が認められるが、『捜索者』を現代に蘇らせたのはなんといってもスコセッシの『タクシードライバー』だという。

 暗い怒りを抱いてニューヨークの町を流すタクシー・ドライバー(ロバート・デニーロ)は、少女の娼婦(ジョディ・フォスター)を救うという妄想に駆られ“たった一人の戦争”を決行する。その狂気は、『捜索者』でウェインが演じたイーサン・エドワーズと共通するというのだ。

 こうした再評価により近年では“『捜索者』現象”とでも呼ぶべきブームが起きていて、アメリカ映画協会が2008年に行なった「アメリカ映画の名作」西部劇部門で1位に輝き、2012年にイギリスの『サイト・アンド・サウンド』誌が行なった投票では総合7位に選出されている。もはや『捜索者』は、押しも押されもせぬジョン・フォード+ジョン・ウェインの最高傑作のひとつになったのだ。

インディアン・アメリカン(インド系アメリカ人)」と「アメリカン・インディアン」

『捜索者』は1868年、南北戦争に敗れた南軍の元兵士イーサン・エドワーズがテキサスの開拓地(ただし撮影地はジョン・フォードが好んだアリゾナのモニュメント・バレー)にある兄アーロンの家を数年ぶりに訪れるところから始まる。そこには兄嫁のマーサ、長男のペン、ルーシーとデビーの姉妹の5人家族と、かつてイーサンが成り行きで助け、家族同然に育てられたインディアンと白人との混血(本人は「インディアンの血は8分の1」といっている)のマーティン・ポリーがいる。

 翌朝、近隣の牧場からコマンチ族によって牛が盗まれたことで捜索隊が出されることになり、イーサンとマーティンが参加する。しかしそれはコマンチ族の罠で、男たちをおびき出した隙に開拓地が襲われた。イーサンたちがあわてて戻ったときには、アーロンとペンは惨殺され、(イーサンがほのかに思いを寄せていた)兄嫁のマーサは犯された末に殺され、ルーシーとデビーの姉妹は拉致された。イーサンは、ルーシーの婚約者ブラッドとマーティンを連れて姪たちの「捜索」を始めるのだ――途中でルーシーが殺されていたことがわかり、自暴自棄になったブラッドは単身コマンチのテントに突入し殺されたため、その後の「捜索」はイーサンとマーティンで行なうことになる。

 これが映画のあらすじだが、このあたりで「インディアン」という表記について述べておかなくてはならない。場合によっては、これはPC(政治的な正しさ)に抵触するとされるからだ。

 新大陸を「発見」したコロンブスはそこがインドだと誤解し、原住民を「Indian(インド人)」と呼んだ(スペイン語では「インディオ」になる)。彼らはもちろん「インド」とはなんの関係もないのだから、その後、「ネイティブ・アメリカン(アメリカ原住民)」という呼称が使われるようになる。これは、「黒人(Black)」が差別語だとして、「アフリカン・アメリカン(アフリカ系アメリカ人)」と“政治的に正しく”呼ぶようになったことに対応している。

 ところが1960年代の公民権運動の盛り上がりのなかで、黒人活動家たちは「Black Power」「Black is Beautiful」を掲げた。アメリカの黒人の多くは、もはやアフリカにほとんど心情的なつながりももっていない。そんな自分たちを「アフリカ」と結びつけた奇妙な呼称を拒否し、「Black」であることに誇りをもとうというのだ。

 ここでさらに追記しておくと、それまで「白人(White)」も差別語とされていたが、黒人がBlackを自ら名乗ったことで、「コケイジャンCaucasian」という(これまた)奇妙な呼称も使われなくなっていく。アメリカの白人はヨーロッパからの移民なのだから「ヨーロピアン・アメリカン(ヨーロッパ系アメリカ人)」でよさそうなものだが、これはヨーロッパ中心主義を連想させるからか、白人とインド人の共通の子孫であるアーリア人の故郷コーカサスCaucasusから「コケイジャン(コーカサス人)」という言葉がつくられた。だがコーカサスがアーリア人発祥の地という証拠は乏しく、ナチスは自らを純粋な「アーリア人種」としてホロコーストを行なった。

 閑話休題。アメリカの黒人が「アフリカン・アメリカン」の呼称を拒絶すると、次にアメリカ原住民が「ネイティブ・アメリカン」という呼び方に異議を唱えた。彼らはコマンチ、アパッチ、ナバホなどの部族の末裔であり、「ネイティブ」などという聞いたこともない人種の子孫ではないのだ。そして、もし自分たちの総称が必要だというのなら、歴史的に使われていた「インディアン」の方がまだましだと主張した。かつて彼らの祖先は「インディアン」として、侵略者である白人と誇りをもって戦ったのだから。

 だがアメリカには、インドからの移民もたくさん暮らしている。そこで「インディアン・アメリカン(インド系アメリカ人)」と「アメリカン・インディアン」が使い分けられるようになった。フランクルの『捜索者』のようにアメリカ原住民を指すことが明らかな場合は、たんに「インディアン」でも問題ないとされている。

 ちなみに、大統領時代のビル・クリントンが大リーグ「クリーブランズ・インディアンス」の始球式にチームのベースボールキャップをかぶらずに登場したことが物議をかもしたように、この表現はいまでも政治的にきわめて微妙だ。球団のマスコットである頭に羽根をつけた「ワフー首長」や、アメリカ原住民出身の選手が一人もいないのに「インディアンス」を名乗ることを問題にするひとたちがいるからだ。――大リーグ機構と球団が話し合った結果、来シーズンから「ワフー首長」のロゴをユニフォームから外すことが決まった。

 さらにいっておくと、日本には「原住民」は差別語で「先住民」に言い換えるべきだとの主張があるが、漢語として両者には明確なちがいがある。「原住民」は「かつて住んでいて、いまも暮らしているひとたち」で、「先住民」は「かつて住んでいたが、いまは絶滅してしまったひとたち」のことだ。日本の台湾統治時代に「高砂族」と呼ばれていたひとたちは「台湾原住民」であり、「台湾先住民」とはぜったいにいわない。このことは霧社事件を描いた台湾映画『セデック・バレ』で教えられたのだが、それ以来、漢字本来の意味にのっとって「原住民」の表記を使っている。

――というように、人種にまつわる言葉の使い方はものすごくむずかしい。そしてこのことは、映画『捜索者』にも大きな影を落としている。インディアンが「政治的に正しく」描かれているかが映画の評価に直結するからだ。

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