「マダムブリュレ HP」より

写真拡大

 大阪の大人気スイーツとして知られるバウムクーヘン「マダムブリュレ」。それを生み出したスイーツ店「マダムシンコ」の創業者で会長のマダム信子こと、川村信子氏の波瀾万丈の半生と、同社社長・川村幸治氏との夫婦愛を描いた映画『やまない雨はない』が先月、大阪・箕面市の109シネマズ箕面にて公開された。同作は、川村会長が綴った同名の自叙伝を原作とし、会長役を川上麻衣子、社長役を永井大が演じている。

 本作では、在日韓国・朝鮮人(以下、在日)としてさまざまな差別と闘いながらのし上がってきた川村会長の熱い“信念”が描かれているが、そこにはどれほどの葛藤があったのか。改めて、話を聞いた。

――映画では、「在日」が大きなキーワードになっていると感じました。川村会長は、誰に観てほしいという思いがあって、映画をつくられたのでしょうか?

川村信子会長(以下、川村) 私と同じ立場の人に観てもらいという思いでつくりました。水商売の人や在日の人って、自分の未来を諦めている人が多いと思うんです。そんな人たちに、生きる勇気を与えたい。映画を観て、もう一度元気を出してほしかったんですよ。そういう人たちにとって私は、歩く見本になれると思うんです。ずっとハングリー精神でやってきましたから。

――未来を諦めている人が多いとは?

川村 水商売の人も在日の人も、誰も守ってくれないんですよ。苦しい時にも、すべて自分で背負わなければならない。頭では「良い時もあれば悪い時もある」とわかってはいても、この苦しさが永遠に続くような気がしてしまう。本当はね、苦しい時だからこそ希望を持って前に進まなければならないはずなんやけど、そこで諦めて自暴自棄になる人は多いでしょう?

――映画でも描かれていましたが、現在は日本国籍を取得していますよね。在日と日本人のアイデンティティの狭間で揺れ動くことはありますか?

川村 日本国籍を取得したのは、5年前に父が亡くなったことがきっかけでした。父は韓国人の血に、とても誇りを持っている人やったんです。だから、父が生きている間は、国籍を変えることはできなかった。ただ、事業が大きくなるにつれて日本国籍が必要やと感じることが増えて、父が亡くなったことをきっかけに、変える決心をしたんです。

 でもね、私自身は“在日出身”の日本人やけど、民族とか国籍で人を区別や差別したことはないんですよ。生まれ育った日本のことは、当然好きやしね。だから、アイデンティティについて、今は悩むことはないですよ。

 母が亡くなる前、「韓国で死にたい」って繰り返し言ってましてね。だから、「韓国から日本に来て、本当に良かった?」って、ある時聞いたんです。そしたら、「日本に来て良かったよ。あんたらが生まれてくれて、商売もできて。日本に来て良かったよ」って答えてくれた。父の時も、やっぱり「日本に来て良かった」って言って亡くなりました。

 両親も葛藤はあったかもしれない。でも、2人が最期に「日本に来て良かった」って言ってくれたことで、私も心の底から「日本が好き」って言えるようになったんです。そりゃあ、子どもの頃は「在日」っていうことでいじめられたりもしましたけど、大人になったら、そんなんはなんもないしね。

――ご両親とは、韓国語で会話していたのですか?

川村 家では韓国語と日本語のちゃんぽんでしたね。とは言っても、両親が慶尚南道の蔚山(うるさん)出身だから、ソウルで使われているような綺麗な言葉じゃないんやけど。かなり柄の悪い言葉を使ってたかな(笑)。だから、私の韓国語も田舎言葉やし、ソウルの人の前では恥ずかしくて話せないのよ。兄たちと違って民族学校も数カ月しか通ってないしね。

――韓国の方も日本と同じでスイーツ好きな人は多いと聞きます。韓国進出を考えられたことはないんですか?

川村 両親が生きていた頃、もう8年くらい前かな? 韓国展開も視野に入れつつ、中国やニュージーランドなど、海外も見て回ったことがあったんです。でも、ちょうどその頃、お店の子たちがいなくなっちゃった。逃げちゃったのよ。私の人生は、順風満帆じゃないの。ほんと、波乱万丈。

 今はね、海外展開はまったく考えてないんです。これまで幸治くん(川村幸治社長)とずっと走り続けてきたから、これからは2人の青春の時間を取り戻したいの。私も昨年の12月14日で66歳。人生残された時間は限られているから、2人でゆっくりしたいんです。

●銀座のヤクザを追い返すのが“仕事”

――映画の中で印象に残った場面のひとつが、川村会長が「マダムシンコ」をオープンさせるよりはるか前、大阪・江坂に新規開店したクラブにショバ代を取ろうと乗り込んで来たヤクザを追い払ったシーンです。映画では、「こいつにはバックがついている」というセリフがありましたが、実際はどうだったのですか?

川村 あははは! バックなんかいるわけないでしょ(笑)。うちの弟がやんちゃだったんですよ。だから、私の周りには弟やその友達がいつもたむろしてたんです。それを見て、「バック」と思っただけでしょうね。私はね、ヤクザ者が大嫌いなんですよ(笑)。

 実はね、そのシーンに出てきた地回りのヤクザと44年ぶりに会ったんですよ。友達が江坂(大阪・吹田市)で寿司屋を開いたのでお祝いに駆けつけたら、そのヤクザがひとりで飲んではったんですよ。「うわ!」って驚いて近寄って行ったら、向こうもびっくりしてましたわ(笑)。昔はあんなに威勢が良かったけど、おとなしい、小さいおじいちゃんになってたなあ。

――川村会長は「水商売は大変」とおっしゃっていますが、当時、ほかにも怖いことなどはあったのでしょうか?

川村 そりゃあ、たくさんあるわよ。でもね、私はヤクザは怖くはないんです。私の父は建設業で、見た目はヤクザそのものだったの。それでいて、昔の在日の男だから、ものすごく怖かった。そういう父を間近で見てきたから、本物が脅してきても怖いと思ったことはないんです。

 何より一番許せないのは、私が汗水垂らして稼いだいおカネを、なんでヤクザに持って行かれなきゃなんないんや! ってことなんですよ。この思いが強かったから、妥協したことは一度もないんです。

 銀座にクラブ「銀座シンコ」をオープンさせた時も、すぐにヤクザがやって来ましたよ。でも、「私は大阪でも断り続けてきたから。1円も払わんよ」って言って追い返しました。よっぽどその時の私が強かったんか、銀座の地回りの中で、「大阪からヤクザな女がやって来た」って話題になったそうよ(笑)。

――とはいえ、場所柄、そう簡単に逃れられないと思いますが……。

川村 ヤクザが店に出入りするようになったら、その店は終わりやないですか。一般のお客さんが寄りつかんようになる。だから私は、「二度と来ないように」って怒鳴りつけたんですよ。絶対に弱みを見せない。ヤクザを店に一歩も入れさせないようにするのが、私の仕事だったんです。

――普通なら、そこは男性の仕事のような気がしますが、さすがです。最後に、これから映画をご覧になる方に向けて、メッセージをお願いします。

川村 私の人生は、自分で振り返ってみても波乱万丈でした。幸治くんとがんばって得るものは得たけど、ここ10年の間に両親、兄が他界して、考えることが多くなったんです。私の人生ってなんだったんだろうなって。

 人は落ちるとどこまでも落ちていくっていうけど、私は悪い時はいつも、「ここが底辺」って決めるんです。そして、そこから上に這い上がる。私が成功して今の地位を手に入れたのは、在日のコンプッレクスをバネにしたから。それがすべてと言ってもいいくらいかもしれません。なんてったって、豚のエサの残飯を食べて育ちましたから。だから親を大事にして、いつか、いつか金持ちになってやると思って、どんな苦労も乗り越えてきました。

 今、私の残りの人生は、自分が経験してきたことを多くの人に知ってもらって、幸せになってもらうことを手伝うことだなと思ってます。未来を諦めている人がいたら、明日への一歩を踏み出すために背中を押してあげたい。この映画が、そういう役に立てればという思いです。
(構成=山野一十)