橘宏樹『現役官僚の滞英日記』(PLANETS)

写真拡大

意見の分かれる深刻な問題について、学生にさまざまな意見を述べさせ、最後に教授がエレガントにまとめあげる。そうした「白熱教室」スタイルの授業は現在も人気です。しかし英国の名門校に留学してきた現役官僚の橘宏樹氏は「『白熱教室』は『オレの答え』を示さない。一方、英国の名門校はそうした欺瞞を許さない」と指摘します。2つの違いを「パターナリズム」という言葉で分析します――。

※本稿は、橘宏樹『現役官僚の滞英日記』(PLANETS)の第3章「エリート再生産システムとしてのオックスフォード」の一部を再編集したものです。

■上下関係を前提に教師がどのように学生を導くか

僕はこれまで、東京大学(学部及び大学院)とLSEとオックスフォードで高等教育を受けてきたわけなのですが、今、これら3校での体験を比較しつつ、ざっくりと「オックスフォードの教育とは何か」についてつらつら考えています。最近、その1つは、言うなれば「ネオ・パターナリズム」ということなのではないか、そしてこれは大学教育論一般を考える上でも大事な視点なのではないか、と思うに至りましたので、これについて書こうと思います。

そもそもパターナリズム(父権主義・家父長主義)とは何でしょうか。一般的な理解が示されていそうなウィキペディアによれば「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉すること」と定義されています。この概念は元来、国家権力などが個人の自由を制限する際の正当性を説明するときに用いられるものですから、大学は学生が自ら望んで師の指導に服しているので、問答無用な国家権力と個人の力関係とは根本的には異なります。

しかし、必ずしも学生全員の学習意欲や能力が最高に高いわけではない教育現場において、上下関係を前提に教師がどのように学生を導くか、教育効果を最大化するか、という点で構造は似ていると思いますから、この概念は少なくとも比喩として便利だと思われます。

なので、ネオ・パターナリズムという語は、本稿かぎりの僕の造語としてご理解ください。英語圏では、Neo-Paternalismという学術単語は前述のように「お節介な」行政施策を論じる文脈で用いられているようですが、今のところ日本語ではあまり使われていない言葉のようです。

僕は教育におけるパターナリズムのスタイルは、

(1)古典的パターナリズム
(2)欺瞞的パターナリズム
(3)ネオ・パターナリズム

の3類型に整理できるのではないかと思います。これらは多少、順に発展段階的である一方、併存可能な教育スタイルでもあります。

■(1)古典的パターナリズム:教師の主張をインストール

まず1つ目は、古典的パターナリズムによる教育です。この立場は基本的に、無知蒙昧な学生たちに知識を伝授しなければならない、また学生の側も知らないことを知りたい、詰め込みたい、という状況に出発します。ゆえにインプット重視で、形式もたいてい大教室での講義型であり、マニュアルや教師の主張をインストールするという教育スタイルを取ります。

日本の大学入試までのペーパー試験における受験競争の勝ち組は、こうした教育方式において強さを発揮してきた連中です。講義に対して質問はありえても、批判することは必ずしも促されず、壇上からの一方的な講義がもたらす師弟関係は自然、権威主義的になりがちです。これは、最先端の知識を共有したり、大人数の知識量を短期に底上げしたりするには最も手っ取り早い方式です。

また、オムニバス形式で多様な視点を紹介する講義内容であれば視座の多角性も維持できますし、講師の話の上手さや内容次第で、学生の満足度を高めることも可能です。しかし概して「聞くだけだと眠い」「退屈」「自分で考える力が養われない」「アウトプット能力が育たない」などの批判があり、こういうスタイルを取る教師は昨今、普通はあまり人気がありません。よくある話です。

ちなみに、LSEは教育機関というよりも最先端の研究機関という性質が強いからか、教授というよりも、多忙な「主任研究員」に貴重な時間を割いてもらって、効率的にその最先端の識見を吸収する場所という感じがありました。そういう意味では、この古典的パターナリズムの色彩が強い学校だったように思います。

■(2)欺瞞的パターナリズム:双方向で議論するが……

前述の古典的パターナリズムの持つ限界を克服するために、よりインタラクティブな、すなわち教師と学生や学生同士が双方向的な議論をしていくスタイルが積極的に導入されることになります。たいてい少人数のゼミナール形式で、活発な発言が評価に加味されたり、学生に多くの発表の機会が与えられたりします。見るかぎり、日英の多くの大学の文系学科では、前述の講義形式とこのゼミナール形式を併用する方式が今日では一般的だと思います。

双方向な授業形式として最も典型的なものは、かの有名なハーバード大学マイケル・サンデル教授の「白熱教室」でしょう。重たい、具体的な、いかにも意見が分かれそうな問いを与え、学生に考えさせ、意見を自由に発言させ、最後に教授がエレガントに「まとめあげる(wrap up)」授業です。

軽妙なやりとりのなかで笑いもこぼれ、参加意識も高まり、最後にはキレも深みもある教授のまとめにうっとりします。教授にものすごい力量がなければ不可能な素晴らしい授業です。特に大人数の教室で双方向なやりとりをマネジメントするのは大変な所業です。ちなみに東大でも、僕がいた十数年前から一部の人気教授はまさにそのような講義を展開していました。どんな突飛な学生の発言にも柔軟に対応するさまは大変鮮やかでカッコよく、みなが先生をキラキラとした憧れの目で見つめていたのをよく覚えています。

■賢く博識な学生ほど発言を控えがちになる

しかし、これらのインタラクティブな講義・ゼミは、確かに自分たちで考えさせる段階を取り入れてはいますが、投げかける設問文をコントロールすることで学生の回答の行方も計算できますし、学生の回答が過去の偉大な学者たちのたどった思考の足跡の範囲を出ることはほとんど不可能です。結局のところ、双方向のやりとりによって参加意識を高める仕掛けはインプットの有効な補助にすぎない、という言い方もできると思います。マイケル・サンデルの白熱教室であれば、学生に思考や発言を促していても、創造性や独自性を育むというより、哲学史の歩みを追体験させているにすぎない「出来レース」的な構成であるとも言えると思います。

そして、よく予習してきた学生や、勘や洞察力に優れた学生からすれば、白熱教室の問いにはこう答えればこういう限界があり、反論にはいくつかの立場があって、それぞれはこう答えるだろうから云々、と論理的な展開の先が「見える」ので、よりまともな発言をしようとすると、1回の発言が長くなってしまいます。極論すれば、最後の先生の「まとめ」を代弁してしまわねばならなくなります。

裏を返せば、迂闊で断片的な発言ほど、先生の授業意図に沿う発言に見え、賢く博識な学生ほど発言を控えがちになるのではないでしょうか。そう考えると、あの大人気講義の「白熱」は、ある意味では、なんだか全体として仕組まれた茶番に見えてくる感すらあります。アウトプットを促しつつもアウトプットを訓練しているわけではなく、「押し付けてはいないよ」という体を取りつつ計算ずくの誘導があり、自分の頭で考えさせているようであっても、創造性や個性の育成よりはあらかじめ用意された風呂敷の中に包み込もうとしているとも言えます。そういった点では、なんだか欺瞞的にも見えるので、僕はこれをあえて揶揄的に「欺瞞的パターナリズム」と呼びたいと思います。

■「理性の目覚めを促す」ことだけで十分なのか

さらに、こうしたインタラクティブ系講義ではたいていの場合、教授はその問いに対して自分の答えを述べません。述べたとしても、重要なのに世間一般で見落とされがちな論点や相対化されるべき固定観念を指摘したりすることにとどまりがちです。自著や講演など他の機会においてはともかく、授業内では、整理したり「まとめ」たりはしても、総合的な「オレの答え」をあまり言いません。なぜなら、こうした授業は、暗黙のうちに前提にしていた概念や偏見の存在に気づかせること、社会通念を疑うこと、すなわち懐疑主義に目覚めさせることを主眼にしているからです。この姿勢は、確かに、大衆の中に思考停止しない人間を増やし、主体的な知性を啓蒙したりする市民教育において、非常に効果的だし、社会的な意義は大きいと思います。また、リサーチ結果の裏付けを得て自説を主張する社会学や経済学等とは異なり、政治学、哲学、歴史学など解釈をめぐる類の学問においては、懐疑主義こそ永遠の本質と言えるのかもしれません。

しかし、この懐疑主義への覚醒を主眼とした欺瞞的パターナリズム教育は、すでに十分懐疑的な知性に対するエリート教育という点ではどのくらい機能するでしょうか。特に、高学歴の人材ほど組織でリーダーシップを担わされがちな世相にあって、最高学府が施すリーダーシップ教育としては「理性の目覚めを促す」ことだけで十分でしょうか。僕は、リーダーに必要な、ある結論に必ず付随する限界や欠点を認識しながらも決断を行うチカラ、そしてその負の側面をも引き受けて何とかマネジメントしていくチカラは、懐疑主義に覚醒するだけでは養えないように思われてなりません。

世の中に真実なんてないことは常識です。最高学府は、鋭い評論家を輩出するばかりでよいのでしょうか。「オレの答え」を出す訓練はしなくてよいのでしょうか(もちろん、マイケル・サンデル教授の「白熱教室」はインプット効果において非常に優れた授業だと思いますし、全講義を受講するなかで、決断力が育まれる部分もあるでしょう。また、懐疑主義には、決断をしないという決断があるという言い方もできます。そもそも、ハーバードにはほかに決断力を養う授業がたくさんありそうです)。

■(3)ネオ・パターナリズム:「オレの答え」も言う

この欺瞞的パターナリズム教育が必然的に持つ、決断する姿勢は示さないという限界に対して、僕がオックスフォードで今受けている教育はひとつの回答を出していると思います。オックスフォードでは東大やLSEと同じように、古典的なマスプロ講義のインプットもあり、学生の発表や自由な議論もある少人数ゼミナールも行われています。しかし、最大のポイントは、オックスフォードの教授は、「まとめる」際に「オレの答え」も言う点にあると思います。

たとえば社会学の授業では、「ジャーナリストと社会学者では何が違うか」という問いが教授から出されました。学生間でひとしきり議論があったあと、教授は最後に、「なるほど。それぞれもっともだ。ちなみに私は、その違いは、“理論”を志向するかしないかにあると考える」とはっきり述べました。また、「社会学とは何か」という議論においても、同様に議論したあと、「私は、社会を“描写する(represent)”のが社会学であると考えている」と添えました。

この手の大きな問いかけにおけるまとめでは、欺瞞的パターナリズム教育では、誰々はこう定義しており、彼はこう定義しているなどと、あれこれ紹介してそれぞれ品評することにとどまりがちです。そういう授業に慣れすぎていた僕にとって、オックスフォードのやり方は、一周回って衝撃的でした。なので、そのときはつい、教授に「では、先生ご自身は〜、とお考えなのですね?」と、復唱して聞き返してしまったりしました。すると教授は再度、「そうだ」とはっきり繰り返しました。

■「引用」とは演出戦略である

また、修士論文における個人指導(チュートリアル)においても、教授は僕の長年の悩みに「結論」を与えてくれました。論文を書くときには、持論の根拠を示したり、研究の系譜をなぞるために他の論文の「引用」をしますよね。先行研究を検索していると、たくさんの論文がヒットしますが、遠くの図書館にしかなかったり、時間がなかったりして、読みきれない論文も多数出てきます。なので、僕はずっと、読みきれなかった論文の中に、引用するのにもっとふさわしい論文があったのではないか、と後ろ髪を引かれる思いがいつも拭えませんでした。

このことは十数年前にも東大で教授に相談したことがあったのですが、その時は、「見切りだ」と言われて、うわあ曖昧だなあ、そんなものかなあ、しかしそんな恣意的なことでいいのかなあ、とその後も悩んでいました。また、引用するのはなんとなく肩書や知名度において「偉い」学者の論文の方がよさそうな風潮(?)も感じていました。でも、知的作業はそんな権威主義的なことでいいのか。非常に優れていると思えたどこかの学部生のエッセイを引用するのは、なぜダメな(感じがする)のか、確たる理由がわかりませんでした。

そこで、このことも現在のオックスフォードでの指導教官に相談してみました。そうしたら、

----------

「よくわかる。ならば、こう考えろ。どの文献を引用するかは、自分の論文をどのように見せたいかという演出戦略によって決めろ。自説に社会的影響力を持たせたければ、権威的な論文を引用すればいい。イノベーティブな論文に見せたければ、まったく異なる様々な分野の論文を引用すればいい。若手の研究を持ち上げたいのであれば、若手の論文を取り上げろ。また、すべての論文には締切がある。しょせんすべての先行研究を読むことはできない。だから、読めない論文があるのは仕方ない。大事なことは、その業界で“有名”な論考への言及を漏らさないことだ。どれが最低限言及されるべき文献かを教えるために指導教官がいる」

----------

とのことでした。

この「引用とは演出戦略である」という断言によって、僕の(少々お恥ずかしい)積年の悩みはスッキリ解消しました。なぜ納得できたのかというと、長い迷いからくる疲労感や、先生への人格的尊敬といった理知的ではない要因も大きかったかもしれませんが、「演出戦略である」という定義が純粋に腹落ちした、というのが率直なところです。とりあえず、しばらくはそう思って生きていこう、と思えました。

引用とは何か。もちろん、世の中には他の見解もあるでしょうし、どの見解も不完全なものでしょう。しかしキリがありません。どこかで最も妥当そうな結論を選ぶ判断を下す必要があります。このオックスフォード大教授は、懐疑主義の迷路の中で目安を失った僕に対して、少なくとも当面は、その責任を負ってくれたわけなのです。

■「オレの答え」を持つオトナたちの背中

現代は、インターネットで断片的知識のみならず、ある程度整理された知識もかなり容易に手に入る時代になりました。しかし右派なり左派なりがいろいろな意見を述べ合ってはいても、バラバラに都合のいいことを述べ散らかしていたりして、それぞれの言い分を丁寧に噛み合わせて構築された議論を見つけることは、相変わらず難しい現実もあります。

ゆえに、飽和する情報の処理の仕方(ネット・リテラシー)、すなわち懐疑主義の重要性が巷で主張されることも増えてきました(ですから、欺瞞的パターナリズムによる教育の需要は高いわけです)。

と同時に、さらにその先で、「オトナ」がより妥当な(暫定的)結論を下すことの意義や難しさもまた、輪をかけて増していると僕は思います。しかし、結論を出すチカラはどのように養えばいいのか、高等教育はそれを養っているのか、養っているとしたらどのように養っているのか、そもそも高等教育で養うべきなのかという問題意識から、今回こんな3段階仮説を考えるに至りました。

そして最後に、パターナリズムの概念を借りて教育を考察した余勢を駆って、世の父性性一般にまで話を少し押し広げてしまいたいと思います。かつての日本には、子を想うがゆえに問答無用に結論を押し付けてくる「昭和な頑固オヤジたち」というステレオタイプがあったと思います。まさに文字どおりのパターナリズムです。そして家族ドラマでは大概、オヤジ側が(なぜか!)口下手すぎたりして、若者はそれに最初は反発するものの、背中から学んだり後から真意を理解したりするなかで、「オトナ」のバトンが後進へと受け継がれてきた、といった美談の典型が見受けられたように思います。

■素敵な「オトナ」は日本社会に足りているのか

他方で、時代も下るなか、家庭内コミュニケーションの欠如や日本経済の失速とともに、居場所や自信を喪失したオヤジたちが増える一方、混沌を生き抜いた戦中・戦後直後派は後退したりと、団塊世代、ポスト団塊世代、バブル世代へと世代交代も進んで、現役のオヤジたちのメンタリティにも世代の原体験の違いに起因する移り変わりが見られます。もちろん、たまたまパターナリズム、オヤジ、オレの答え、といった、男性的な用語が並びましたが、カタカナを用いていることからきっとご理解いただけるように、この議論は本来、性別を問わないものだと思っています。

男女・父母いずれにせよ、未熟な若者と正面から向き合ったコミュニケーションを取り、自分で学ぶチカラを培わせつつも、要所で説得力のある「オレの答え」をガツンと示し、決断者の姿を見せてくれる素敵な「オトナ」は今、日本社会に足りているのかな……と、僕は曇天の続くイギリスの冬空の下、とめどなく悶々と考えてしまうわけなのです。

みなさんの周りには、そんなオトナはたくさんいらっしゃるでしょうか。そして、みなさん自身は、そういうオトナでしょうか。

----------

橘 宏樹(たちばな・ひろき)
官庁勤務。2014年夏より2年間、英国の名門校LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンス)及びオックスフォード大学に留学。NPO法人ZESDA(http://zesda.jp/)等の活動にも参加。趣味はアニメ鑑賞、ピアノ、サッカー等。twitterアカウント:@H__Tachibana

----------

(橘 宏樹 写真=iStock.com)