設立時の日本共産党はソ連「コミンテルン」の日本支部だった。写真は現在のモスクワ(資料写真)


 昨年(2017年)の秋頃に、友人から『佐野学著作集』全5巻が贈られてきた。佐野学(さの・まなぶ、1892〜1953年)といってもほとんどの人が何者かを知らないだろう。戦前、日本共産党が非合法政党だった時代に、最高指導部の一員だった人物である。今、この著作集を読み進めている。

・佐野学 Wikipedia

 佐野学は、あの後藤新平の女婿、佐野彪太の弟であり、東大法学部卒業後、後藤の伝手で満鉄の嘱託社員となっていたが、荒畑寒村(日本共産党創立時のメンバー)の誘いにより共産党に入党している。その後、1929(昭和4)年に上海で逮捕され、32(昭和7)年に治安維持法違反で無期懲役の判決を受け、入獄する。翌年、一緒に入獄していた鍋山貞親(なべやま・さだちか)と共に、「共同被告同士に告ぐる書」発表し、共産党を離党する。

『アサヒグラフ』1948年8月25日号に掲載された佐野学の写真(出所:Wikipedia)


 当時の日本共産党は、1919年にレーニンの提唱によって創立された「コミンテルン」(共産主義インターナショナル)の日本支部という立場であった。コミンテルンへの加入条件というのは、大変、厳しいものであった。1920年に採択された「共産主義インターナショナルへの加入条件」によれば、「現在のような激しい内乱の時期には、党がもっとも中央集権的に組織され、党内に軍隊的規律に近い鉄の規律がおこなわれ、党中央が、広範な全権をもち」とか、「すべての党は、反革命勢力にたいするたたかいで各ソビエト共和国を献身的に支持する義務がある」などと定められていた。

 こういう義務を負った党として、日本共産党は組織されたのである。非合法で小さな党でしかなかった戦前の日本共産党は、戦略、戦術、資金もコミンテルン頼りであった。

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「隣国の革命のほうが重大事」

 戦前の綱領的文書に、1927年に作成された「日本問題に関する決議」(「27年テーゼ」)、32年に作成された「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(「32年テーゼ」)があるが、いずれもコミンテルン主導で作成されたものである。

 当初、コミンテルンは世界革命を目指すための組織として発足したが、レーニンの死後、主導権を握ったスターリンが一国社会主義論を打ち出したため、各国の共産党はソ連の外国政策を擁護する役割を担わされた。

「27年テーゼ」や「32年テーゼ」にも、その影響が色濃く反映している。「27年テーゼ」には、「党は、中国における日本の干渉と、ソビエト連邦にたいする日本の戦争準備とにたいして闘争する義務を果たさなければならぬ」「以上のことから・・・次のごときスローガンをかかげなければならぬ」として、「帝国主義戦争の危険にたいする闘争」「中国革命から手をひけ!」「ソビエト連邦の擁護」「植民地の完全なる独立」を掲げていた。

「32年テーゼ」では、「日本の共産主義者の行動スローガンは『中国の完全なる独立のための闘争』でなければならぬ」「日本共産主義者は・・・すすんでソビエト連邦の勝利と中国国民の解放とのために積極的に闘わねばならぬ」などとされていた。

 要するに中国革命の勝利とソ連の擁護が、日本共産党の一義的な任務だったのである。立花隆氏は『日本共産党の研究(一)』(講談社文庫)の中で、「これだけ露骨に、おまえの国の革命より隣国の革命のほうが重大事だといわれた例はないのではないか」と書いているが、おそらくそうだろう。

大反響を呼んだ「転向声明」

 佐野学は、このコミンテルンのあり様について、「ソ連邦の国策遂行機関」であり、ソ連擁護のために、「各国労働者階級の利益をもこれが犠牲たらしむるを要求している」と批判。日本共産党への態度についても、「我が労働階級の解放を目ざす党たるよりも、日本におけるソ連邦防衛隊又はその世論機関たることにより多くの意義がおかれているかに見える」と指摘している。

 当時、ここまでコミンテルンを厳しく批判した共産主義者は、少なくとも日本にはいなかったはずだ。

 佐野、鍋山の獄中声明は、「転向声明」として大反響を呼んだ。『日本共産党の60年』(同党中央委員会出版局発行)は、「党の最高指導部の一員であった佐野、鍋山らの裏切りは、・・・ジャーナリズムの政治的大宣伝にたすけられて、党の内外に敗北主義の気分や潮流を大きくうみだす契機となった」と述べているように、その後、多数の幹部の転向、党員の離党を生み出していった。共産党に大打撃を与えた「転向声明」であったことは疑いない。

共産党からの離党は裏切りか

 共産党の党史の中では、佐野は最大の裏切り者とされてきたが、著作集を読んでみると佐野の言説は決して間違ったものではないことが分かる。

 当時の日本共産党は、「帝国主義戦争を内乱へ」というのが大きな戦略目標であった。だが単なるほら吹きスローガンであった。これについても佐野は、「実際にやったものは一人もない」と明言している。それはそうだろう。内乱どころか、共産党自身が壊滅していたのだから。こういう状況下でコミンテルンの指導から離れて、日本独自の社会主義の道を探求すべきだというのが、佐野の主張であった。

 日本共産党という政党は、離党者を簡単に“裏切り者”呼ばわりをする。私も離党して、『日本共産党』(新潮新書)を出版した際、不破哲三氏らから「落ちるところまで落ちた」と罵倒されたものである。なぜこうなるのか。

 要するに、共産党という政党や党員は、かつては「前衛」と名乗ったように、一般大衆より一段高いところに位置していると自認しているのである。革命的意識が覚醒していない大衆を指導し、革命的自覚に芽生え、その道を歩めるようにするというのが共産党という政党の役割なのだ。

 だが現実には、ほとんど誤謬と錯覚に過ぎない。この共産党の論理が成立するためには、「資本主義から社会主義への移行は必然」だという、マルクス主義の核心といえる史的唯物論(唯物弁証法)の正しさが証明されなければならない。だが世界のどこでもこの理論の正しさは証明されていない。この理論が世界中でどれほど多くの若者を誤導してきたことか。無為な革命ごっこに若者を走らせてきたことか。離党した人間に悪罵を叩きつける前に、この誤りこそ率直に認めるべきであろう。

それでも社会主義に拘泥した佐野

 現在の日本共産党はどうだろうか。かつては「労働者の祖国」と言って讃えた旧ソ連を「社会主義ではなかった」などと苦しい言い訳をしている。中国も、ベトナムも、キューバも、すべて「社会主義にいまだ到達していない」のだともいう。そして日本独自の社会主義の道を探求するのだという。

 いま日本共産党の党員で、社会主義を目指して活動している党員など皆無であろう。資本主義の枠内での民主主義革命を目指す展望すらまったく見えてこない。日本共産党が政権にたどりつくことは本当に可能なのか。口先はともかく、真剣に政権戦略を追求しているのか、それすら疑わしい。

 にもかかわらず、いまだに社会主義、共産主義の旗を降ろさず、掲げ続けている。社会主義は、21世紀から22世紀にかけての課題だという。まだ100年も先のことなのである。共産党の中では、これが“壮大な展望”などと自画自賛しているが、これはもはや政党の目標ではない。無責任と言わざるを得ない。

 佐野の著作集を読んで、一番の違和感を覚えたのは、それでも社会主義という旗印を掲げ続けていたことだ。

 確かに、社会主義思想は、ユートピア(存在しない場所)思想であり、理想社会を目指したものである。だが現実に出来上がったのは、自由も、民主主義もない残虐なソ連であり、中国なのだ。理想社会など、所詮はユートピアなのである。

筆者:筆坂 秀世