大学入試シーズンたけなわとなってきましたが、長年思っていることを1つ記してみたいと思います。

 「学歴社会」の善し悪しと、日本でしばしば見かけるメンタリティとの落差について考えてみましょう。

 前回記した、iPS細胞不正事件なども同じ根の上に咲いてしまったあだ花と思う、ある種の「リアリティ」の錯誤です。

 受験生などは必死で、気にしていないことが多いのですが、でもこの落とし穴にはまると今後の人生に大きなマイナスになる点ついて、シリコンバレーの開かれた空気の中で検討してみたいと思います。

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見知らぬ人とのコミュニケーション・バリア

 この原稿を私はカリフォルニア州サンノゼの宿で記しています。大学の出張で、昨日はサンタクララ大学に赴きました。

 昼飯を食べようと構内を1人でカフェテリアに向かって歩いていると、「何かイベントがあるんですか?」と日本語で尋ねてくれた青年がありました。

 日本からの留学生で、日本経済とも縁が深いこの大学のロバート・エバーハート教授のファンで留学したのだそうです。

 特定の指導者を選んで心酔して留学、とても良いと思いました。

 やや突飛に思うかもしれませんが、私たちのジャンル、クラシック音楽で留学するというとき、学校名で選ぶ留学は決して主流ではないと思います。

 「パリ音楽院に留学した」「ジュリアード音楽院に留学した」ではなく、パリでオリヴィエ・メシアンに理論を師事したとか、ニューヨークのジュリアードでドロシー・ディレイにヴァイオリンを師事した、といった具合です。

 誰に何を学んだかが決定的に重要なのです。またコンクール歴のような個人のタイトルが問われ、一般的な意味でのキャリアは二の次になる。

 教育とは、そういう人から人、手から手への受け渡ししか本質的にはないと私は考えています。「学歴」のような大括りの考え方には基本的に強い違和感を感じます。

 また、キャンパス内で、全く見ず知らずの私のような日本人に、そんなふうに声をかけてくれたのも、とてもうれしかった。

 日本国内で知らない大学を歩いていても、そういうことはまずありません。私はそういうとき、ビジネスカードを渡すようにしています(昨日1日だけで何枚名刺を使ったか覚えていません)。

 見知らぬ人とのコミュニケーション・バリアが、日本という風土は「けっこう高い」。これは意識しておいてよいことのように思います。

 海外では普通に人と人が繋がる環境、これは日本人でも、ツイッターなどのSNSでは比較的気軽に繋がるように思うのですが、リアルな空気の流れる環境での日本人はどうもあまりネットワーキングしない気がします。道行く人とは基本目を合わせません。

 微妙に問題だと思うのは、日本人でもネットワークを広げようという人はいるのです。ただし、それは年代を問わず、そういうキャラクターの人が人脈の輪を広げていくのであって、必ずしも若いからオープンとは限らない。

 日本のいわゆる「一流大学」とされる学校の学生、あるいは超一流企業と言える企業の専従であっても、決してオープンに人と繋がろうとする人が多いわけではない。

 このあたりの背景をもとに、日本での「学歴の使い方」の間に、ギャップがあるように思うのです。

学歴の2つの効用

 私なりに人事にも長く関わってきた経験から「学歴」というものが参考になる面がいくつかあると思います。

 第1は基礎能力の有無、例えば「東大を出ました」といっても英語が全く読めないとか、数式が出てきただけで思考停止といったケースは少ない。そういう保障は一定の範囲であると思います。

 しかし、逆に言えばそれ以外の何の水準も学歴は保証してくれない。ですから、私が人事を考えるときには、あえて学歴など一切見ないところからスタートするのを常としています。

 私自身は、もしあえて区分するとすれば、実はとても「日本的」な道のりを歩いてきた人間でもあります。

 東大出身で34歳で人事があってから19年間東大で教えている。そんなやつに何が分かるか、とご批判いただく場合も多いと思います。

 ただ、例えば東京大学という場所がごく普通の人間の集まりで、毎年3000人からいる学生は良い意味で別段特殊な人間ではなく、ごくごく普通の青年集団であること。

 教員も職員も、火星人とかエイリアンなどはおらず、いろいろな意味で人間集団であるといったことは一通りわきまえており、何の幻想もありません。

 そういう観点から、また特に助教授就任以降、企業の皆さんとお話するようになってから「OB・OGをわが社に是非いただきたい」といったご相談を受ける中で「人脈」を強く強調されるケースが少なくないのを意識するようになりました。

 すなわち「東大を出た人の中から役所や各企業で出世する人物が出る。それと同期であった人材がわが社にいることで、後々メリットがある」といったホンネのご相談をいただくことがある。

 これについて、とても奇妙に思うのは、東京大学というのはOB会組織のようなものが非常に弱く、ビジネスではほとんど実効的に機能していない。学内ではこれが問題とされることもあります。

 というのは、米国のハーバードでも英オックスフォードでも、米スタンフォードでもMIT(マサチューセッツ工科大学)でも、OBのビジネス連携組織は非常に強固なネットワークを形成して、リアルにパワーを発揮している。

 日本では、率直に申して、慶応義塾大学のOB組織「三田会」類がほとんど唯一の例外で、それ以外に明らかにリアルなパワーを感じる大学同窓組織はちょっと思い浮かびません。

 東京の地下鉄を見るだけでも「都営三田線」と「東急目黒線」が繋がって「三田キャンパス」と「日吉キャンパス」の交通が便利、みたいなところに実学の府、慶応義塾の強味を常々感じます。

 ちなみに東京大学の本郷、駒場2つのキャンパスを乗り換えなしに移動することはできません。また、そんな便利を確保するような動きがあれば、世論の批判を受けそうな気もします。

 20年ほど前、テレビ放送現場に関わっていた頃は「音楽三田会」という組織のネットワークがいかに強固かを様々な局面で痛感しました。

 またその慶応義塾が私を教壇に招いてくれた最初の大学でもあった。いろいろな面で義塾には深く感謝もしています。

 そこで、そういうリアルな力があるとは思えないのに、なぜか「東大から人が欲しい」とおっしゃる企業が決して少なくない。その中に「将来の事務次官と同期が必ずいる」といったある種の意見を聞くことがある。

 でも、ここで言う「同期」は、単にかつて同学年であった、という以上の何物も意味しない。翻って、海外大学の同窓会=アラムナイ組織は、機能的に人と人を結びつける、実効性のあるネットワークとして機能している。

 この間にある、埋めがたいギャップが、日本をどんどん狭く、小さくしているように思うのです。何かの「リアリティ」が違う、それがとても気になります。

「名目資格」としての学歴よ、さようなら

 もう1つ、身近にあったケースを記したいと思います。ある企業で、専従の社員に「資格を取る」よう、上司から指導があったという話を耳にしました。

 「簿記2級」みたいなもので、それを持っていたからといって特段業務に直接の影響があるというものではない。でも人事考査のときマイナスに働かないから、あった方がいいよ、的な話であるらしい・・・。

 こういう現象、とても「日本的」な気がするのです。「資格」が何か、ワッペンのようなものになっている。

 大学でイノベーションや起業支援といった事柄に若干コミットしていますが、最初から本気で起業などするつもりがなく、単に就職の面接で飾りが1つ増える、という程度の興味本位でつまみ食いする、という傾向を目にします。

 ポーズなんですよね。本気でない。最初から「浮気」ですらない。お遊びの傾向がチラチラと見て取れる。

 20歳前後の学部学生などが、受験や入社試験を念頭に「ワッペン」としての学歴やら、起業コンテストのアワードやら、人脈やら何やらを期待する割に、質実剛健、本当の意味での泥臭い実力や、ここで踏ん張るのだという土性骨のようなものを感じるケースは、率直に言って少ない気がします。

 いや、ここでも急いで補っておきますが、光るものを感じさせる若者は確かに存在するのです。その割合が減っている気がするのが、とても心配なのです。

 「一応なんですが・・・」という照れ笑いみたいなものが非常に多い。

 なんちゃって同級生で事務次官と同期、というのが、本当に企業の力になるのか?

 私には正直よく分かりませんが、ルートがないと物事が進みにくい日本社会を考えると、一定の納得はいく気がします。「なんちゃって同級生」の方が、日本というひょっこりひょうたん島ではむしろリアリティが高い。

 そうでない場所の方が世界では普通でしょう。大学内で道行く人に自在に声をかけ、そこで友達になり、それが行く行くはビジネスの大きな力にも発展する・・・。

 ポストンでもシリコンバレーでも、あるいはパリやベルリンでも普通にある。またそういうチャンスが、決して日本にもないわけではないと思います。別のリアリティを持つ人だっている。

 でも「事務次官と同期」みたいなことに、変な「リアリティ信仰」があるとしたら、その一因として、その人自身の「個」のエクスパティーズ、明らかな一芸があり、これをやらせたらどこでも食っていける、という骨の有無があるような気がするのです。

 昨日シリコンバレーでは「ローリスク・ハイリターンの街」という話を興味深く伺いました。

 どういうことかと言うと、ここで起業すれば、成功することもあれば失敗することもあるけれど、失敗しても生活が破綻してホームレス、なんてことはなくて、また次を、やればいいだけ、むしろ経験値が1つ増えた、くらいの風土があるということです。

 その前提として、この街の住人となるには、何か1つ、これがあればやっていけるという抜きん出た一芸が必要だ、というのですね。

 腕に覚えがある人は、何度でもトライして、成功したり失敗したりすればよい・・・。

 それが端的には米国であり、あるいは欧米先進国大半の風土と言って大きく外れないと思います。そういうリアリティがある。日本には希薄なものかもしれません。

 翻って、日本国内にある本音として「自分は基本できない」という萎縮が、特に若い人たちに蔓延することを、一大学教員としては非常に強く恐れています。

 入試程度のことができても、およそ「抜きん出た」ことにならないのは、それをクリアしてきた人が一番よく知っているベースでしょう。はっきり言って、どうということはない。

 それを「資格」その他で糊塗しても、しょせんたいした違いはありません。

 凡庸な入試を通過して、それがライセンス、ワッペンになるという錯誤は、やめた方がいい。そちらの「バーチャルリアリティ」を信じても、その先にリアルな未来はない。

 「入学試験」は、あくまで「入学」の試験であって、その先で大いに伸びてもらいたいと大半の大学教員はホンネで思っていると思います。

 大学に入ったら、社会勉強と称してバイトやら、あるいはサークルやらで遊ぶのも1つの選択と思いますが、それは学業の本分ではない。また、就職活動その他が先に立って学ぶことがないがしろになるのも、本来の大学のあり方ではない。

 そこで「世界に通用する一芸」を磨くこと。本当にそれで勝負できる実力を涵養できるのが、「大学」という場所が本来持っている、固有の強味であるはずです。そこには偏差値もなければ名目だけの肩書きもない。

 「名目資格」としての学歴といった考え方は「ポスト・トゥルース」化の進展とともに症状が重くなる可能性があるかもしれません。

 でも、と言うより、だからこそ、質実剛健で新たにものを作っていこう、という若い人の本当の意味での土性骨を強く期待すべきだと思うし、一教員としては役に立ちたいと思い、今現在もサンノゼで悪戦苦闘している次第です。

(つづく)

筆者:伊東 乾