「Thinkstock」より

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 うっかり説得に乗ってしまい、あとで後悔する。誰にも経験があるだろう。私自身、若い頃にそんな経験を何度もしているので、巧みな説得術に乗せられて後悔している人の話を聞くと他人事ではない。

 そこで今回は、なぜ安易な説得に乗ってしまうのか、その心理メカニズムについて考えてみたい。そこを踏まえておけば、説得に対する抵抗力が高まり、身を守ることができるはずだ。

 Aさんは数カ月前に英会話教室の勧誘を受け、その場で申し込みをした。申し込んだ時点では、「よし、これを機にがんばってみるか」と前向きな気持ちだったのだが、なぜか次第に気が重くなってきた。家に帰り、落ち着いて考えてみると、英会話を習おうなどといった思いは勧誘されるまではまったくなく、そもそも英会話をやる必要性がないのだ。でも、せっかく申し込んだのだからと通い始めたものの、すぐに後悔し、結局ほとんど通わずにやめてしまい、払い込んだ授業料が無駄になったという。

 日頃の運動不足が気になっていたBさんは、つい先月、スポーツジムのチラシを見て、軽い気持ちで見学に行った。良い感じだったら週1〜2回くらい通おうかと思っていたのだが、説明を受けているうちに、つい勢いで毎日使えるコースを申し込んでしまった。だが、仕事帰りにスポーツジムに寄る時間がなかなか取れず、先月も今月も週1回、がんばっても2回しか通えていない。

 Bさんは、初めから週1〜2回と思っていたのに、なぜ毎日使えるコースを申し込んでしまったのだろう、しかも当初に想定していたより高い料金だし、その大半が無駄になっているし、ほんとうに自己嫌悪だという。

 このようにうっかり説得に乗ってしまって後悔するというのは、誰もが経験しているはずだ。それが学びや趣味ならまだよいが、ビジネス上の契約だったりすると大きな痛手を被りかねない。そのような事態を防ぐためにも、まずは身近な事例をもとに、つい説得に乗ってしまう心理学的背景についてみておきたい。

●そこにはどんな心理トリックがあるのか?

 なぜ英会話などにまったく興味のなかったAさんが、英会話教室に通う申し込みをしてしまったのか。何か自己啓発的なことをしなければといった向上心がなければ、そのような申し込みをすることはない。それはそうなのだが、うっかり申し込んでしまった背景には、必殺の心理トリックがある。

 Aさんは勧誘の際に、初めに週3回コースの説明をされ、そんなに通うのは無理だなと思い、「週3回も通うのは無理だから、結構です」と断った。すると先方は「では、週1回のコースはどうですか。ほんとうは週に何回か通っていただいた方が効果的なのですが、お忙しい方は週1回コースにいらしてます。いかがでしょうか」と強く勧められた。

 週3回も通うのは無理だなと思い躊躇したAさんも、週1回なら無理なく通えそうな気がしてきて、申込書に記入した。だが、ここに落とし穴があった。もし、初めから週1回のコースを勧められていたらどうだっただろうか。「とくに英会話を習う必要性もないし、わざわざ通うのも面倒だ」と思い、あっさりと断ったのではないだろうか。

 初めに「週3回」という高いハードルを提示してきたところに罠が仕掛けられていたのである。「週3回」と比べたら、「週1回」は非常にハードルが低く感じられる。そこに働いているのが対比効果だ。

 Bさんの場合は、逆に「週1〜2回」のつもりだったのに、毎日使えるコースを申し込んでしまった。なぜそんなことになってしまったのか。実は、ここでも同じ必殺の心理トリックが使われている。ただし、Aさんのケースと違い、回数でなく料金のトリックだ。Bさんは週1〜2回使えるようなコースを申し込みたいと思ったが、週1回のコースの2倍ちょっとの料金で毎日使えるとのことだった。「週1日の2倍ちょっとの料金で週7日使い放題ですから、とてもお得だと思いますけど」と強く勧められると、Bさん自身も「たしかにそれは得だな」と納得してしまった。

 だが、ここにも落とし穴があった。2倍ちょっとの料金で7倍使えるというとものすごく得な気がする。たとえば、週1日コースが月4500円なのに対して、週7日コースが9900円だとすると、週7日コースが非常にお値打ちに感じられる。ここにも対比効果が働いている。ほんとうは2倍以上も払うのに、安く感じられるのである。

●説得で駆使されるドア・イン・ザ・フェイス・テクニック

 このような対比効果を用いた説得は、ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックを応用したものだ。これは初めにわざと過大な要請をしたり、ハードルの高い条件を提示したりすることで、本来の要請や条件を受け入れさせようという心理テクニックである。

 この心理テクニックを提唱した心理学者チャルディーニたちは、通行人に献血への協力を依頼する実験によって、その効果を証明した。実験では、2つの依頼の仕方が用いられた。ひとつは「献血にご協力いただけませんか」と、いきなり本来の要請をぶつけるやり方である。その場合、献血への協力を承諾した人の比率は32%だった。もうひとつの依頼の仕方は、「これから数年間、2カ月ごとに献血していただく契約を結んでいただけませんか」と、いかにも無理な要請をし、「それは無理だよ」と断られたあとに、「では、今回一度きりでけっこうですから、献血にご協力いただけませんか」と頼むやり方である。このような頼み方をすると、承諾率は49%に跳ね上がった。いきなり本来の要請を切り出す場合と比べて、なんと1.5倍の承諾率となった。この心理テクニックについては、多くの心理実験が行われ、その説得効果が実証されている。

 そこに働いている最大の要因は、対比効果である。最初に過大な要請を突きつけられると、つぎに差し替えられた要請が実際以上に小さなもの、簡単なものに感じられ、受け入れやすい心理状態になるのである。「2カ月ごとに献血する契約を結ぶなど面倒くさい」と思ったところに、間髪を入れずに「では、今回一度きりで結構ですから」と言われると、対比効果が働いて、「それならまあいいか」という感じになり、要請を受け入れる。最初の要請があまりに過大なため、そのあとで切り出された要請のハードルが下がり、受け入れやすくなるのである。

 ビジネス交渉でも、こういった心理テクニックはよく用いられるので、注意が必要だ。たとえば、値引き交渉。損益分岐点からしておそらく15%まで値引きができるはずと見当をつけた場合、初めからそれより低い10%の割引きを要求したからといって、先方がすんなり受け入れるとは思えない。相当な抵抗を示すはずだ。そんなとき、初めに思い切って20%の割引きを要求すれば、当然向こうは「それは無理ですよ。こちらの儲けが出ませんから」と断ってくる。そこで間髪入れずに「わかりました。では、お互いギリギリの線として、10%の割引きで手を打つというのはいかがでしょうか」と持ちかけると、向こうも受け入れやすい心理状態になる。

 納期交渉も同じだ。納期をできたら1週間早めてほしいというときも、いきなり1週間早めてもらえないかと依頼するよりも、初めは2週間くらい早めてもらえないかと頼んでみて、「いくらなんでも、それは無理ですよ」と断られてから、「そうですか、どうしても無理ですか。困ったなあ。では、なんとか1週間早めていただけないでしょうか」と頼むほうが、受け入れられる確率は高い。

 こうした心理テクニックにうっかりはまってしまい、あとで後悔するような事態に陥らないように、「対比効果」というものをしっかりと頭に刻んでおきたい。
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)