制裁を加えることによる直接的なメリットは、本人にとってはゼロです(写真:1001Love/iStock)

「ルールを破った誰か」や「ズルをしている誰か」を、"正しい自分"が徹底的に糾弾し、バッシングする。ネット上でよく見掛けるこの光景は、どんな心理状態で行われているのか。脳科学者・中野信子氏が、最新刊『シャーデンフロイデ』で、"暴走する正義漢"が生まれるメカニズムを解説する。

「ズルをしている誰か」を許せない

2017年6月、東名高速であおり運転による危険運転致死傷事件が起きました。逮捕された人物は、過去に何度も同じことを繰り返していたといいますから、自分が悪いことをした、という認識をまったく持ち合わせていなかったのでしょう。それどころか、オレの気分を悪くさせた相手に、制裁を加える「正当な権利」を、オレは持っている、と感じていたのではないかと思われます。

自分だけは正しく、「ズルをしている」誰かを許せない。だから、そんなやつに対しては、俺/私がどんな暴力を振るっても許される。そんな心理状態によって実行に移される行動を、英語で「サンクション(制裁)」といい、学術的な用語としても用いられます。

電車などの公共交通機関や街なかで暴行を働く「暴走老人」も、このサンクションという心理に基づいていると思われます。サンクションが、ご年配の方に多いと考えられるのは、残念ながら、特に偏見というわけでもなさそうです。生理的には前頭葉が持つ抑制機能の低下が、こうした振る舞いの原因として想定されるのですが、この機能は一度低下してしまうとなかなかそれを劇的に高めるということができません。

暴走する「正義漢」(こうした表記に引っ掛かりを感じる読者はひょっとしたら、サンクションを発動させやすいタイプの人かもしれません)を止める方法としては、その方の気力・体力が衰えるのを待つ以外に、有効な方法が考えにくいのです。

もちろん、脳には可塑性があるので、時間をかければどんなことでもまったく不可能ということはないでしょう。ただ、たとえば行政等の観点から言えば、はたして高齢者に費用と労力と時間をかけてその暴走を止めていくことに、どれほどのコストパフォーマンスが期待できるか、といった議論が想定されます。

特にテストステロンの分泌量が多い男性は、前頭葉が担っているブレーキの機能が脆弱になっていると、心ゆくまで他者を攻撃し、ボロボロに傷つけて快感を覚える、ということをやめられなくなります。DVの加害者側に見られる心的状態にも、類似の構造があります。

他者を殺傷することが許される国ではないのに…

日本は法治国家であり、原則として私刑という形で報復的に他者を殺傷することが許される国ではありません。その法治国家の住人であるにもかかわらず、「私刑を加えても自分だけは許される」「先にルールを破ったのはこいつだから、どんなに制裁を加えようがかまわない」「善良な国民である俺の気分を悪くさせたこいつを許しがたい(謝罪しろ!)」という、認知の歪みが生じるのです。これは一見、不可解に見えますが、ごく一般的に起きていることです。

「サンクションを加えたくなる衝動」を感じたことがないという人がいるかもしれません。でもそれは、感じたことがあっても忘れてしまっているか、感じたことを他の人には知られたくない、という人だと思います。

制裁を加えることによる直接的なメリットは、本人にとってはゼロですが、規範を逸脱した人に対して制裁を加えることは、「正しい」あるいは「世のため人のため」と(少なくとも本人には)認知されています。敢えて相手に対して言いにくいことを言ったり、世のため人のために誰もがやりにくいことをやっている自分は、正しくて善良な素晴らしい人間である、とさえ感じています。

それでは、誰かに対して制裁を加えたいという気持ちが高まることで得をする人は、一体どんな人なのでしょうか。

もちろん、制裁を加える本人ではありません。制裁を加える本人は、制裁することによる仕返しのリスクを負わなければなりませんので、客観的に見れば、制裁というのは、"損"な行動なのです。制裁に掛かる「労力」と「時間」というコストの問題もあります。

つまり、個人という単位で見たときに利得が高くなるのは「何も見なかったことにする」という行動を取った人です。何かアクションを起こすこと自体が、時間と労力の損失になるからです。

仕返しのリスクがあるにもかかわらず、それを行うのは何らかのインセンティブがあるからだ、と考えざるを得ません。一応、私たちヒトも生物のはしくれですので、何らかの得がなければその行動を選択しません。

しかし、想定できる利得というのは、実は制裁を加える本人の脳内に分泌されるドーパミンだけなのです。ようするに「目立つあいつ」「ムカつく誰か」「一人だけズルをしているかもしれないあの人」が傷ついたことによって得られる、ドーパミンの分泌による快感です。

すべての集団で起こり得る現象

では、なぜ、「不謹慎」を叩くことによってドーパミンが分泌されるのでしょうか。

これはちょっと不思議なことのように感じられるかもしれません。個人という単位では、まったく利得がないばかりか、損失が大きくなるかもしれない行動を、わざわざどうして、ドーパミンを分泌させてまでやらせるのか。自ら(ドーパミンを分泌させてまで)損失を被りたがる個体が出現することで、利益を得る人たちは誰なのか。


それは、その人を除いたすべての集団構成員です。

集団において「不謹慎なヒト」を攻撃するのは、その必要が高いためです。「不謹慎な誰か」を排除しなければ、集団全体が「不謹慎」つまり「ルールを逸脱した状態」に変容し、ひいては集団そのものが崩壊してしまう恐れが出てくる。

その前に、崩壊の引き金になりかねない「不謹慎なヒト」をつぶしておく必要があるのです。これは、すべての集団で起こり得る現象です。

結論を言えば、誰かを叩く行為というのは、本質的にはその集団を守ろうとする行動なのです。向社会性が高まった末の帰結と言えるかもしれません。