学生デモと治安部隊の衝突がエスカレートし、数千人の死傷者を出す大惨事に――。1980年5月の光州事件で、犠牲者の棺に寄りかかって泣く女性(FRANCOIS LOCHON/GAMMA/アフロ=写真)

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韓国の文在寅大統領が記念式典で「あなたのための行進曲」の斉唱を指示したことが議論を呼んでいます。この曲は一部から「北朝鮮を賛美し、国家を否定する内容が含まれる」と指摘されているからです。文大統領は、なぜこの曲にこだわるのか。その背景には1980年の「光州事件」というトラウマがあります――。

■民主化運動の聖歌か、北朝鮮賛美か

「あなたのための行進曲」という、韓国の歌をご存知でしょうか。1980年5月、韓国の光州で、デモをしていた群衆に軍が発砲し、多くの死傷者が出ました。「あなたのための行進曲」は、この光州事件の犠牲者たちを追悼するために作られた歌です。光州市民は、この歌を涙なくして聴けないそうです。

文在寅(ムン・ジェイン)大統領は2017年5月18日、光州事件の犠牲者を追悼する記念式典で、「あなたのための行進曲」を斉唱するよう指示し、自ら式典参加者とともに、歌いました。このことに対し、韓国国内で批判の声が上がっています。韓国の保守派は、この歌には北朝鮮を賛美し、国家を否定する内容が含まれると主張します。光州事件を題材に北朝鮮で作られた映画で使われたことも、その理由の一つです。

この歌が作られた光州事件とは、果たしてどんなものだったのでしょうか。

■学生デモが大規模衝突にエスカレート

韓国では1979年10月26日に朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が暗殺された後、12月12日に全斗煥(チョン・ドゥファン)保安司令官らが「粛軍クーデター」を起こし、実権を掌ります。

1980年、4月の新学期がはじまると、全南大学をはじめとする光州の大学生は全斗煥らの軍部クーデターに抗議し、デモを行います。これに、市民も加わり、5月16日、デモは5万人に膨れ上がります。警察は学生たちを次々と逮捕しましたが、手に負えず、17日には全土に戒厳令が布告され、野党指導者の金泳三(キム・ヨンサム)、金大中(キム・デジュン)らを逮捕しました。

18日には、学生と軍隊が衝突、市民も学生を支援し、光州市内は騒乱状態となります。市民はバリケードを築き、火炎瓶などで応戦しました。

21日、デモ隊に対し、軍が一斉射撃を行い、多くの市民が射殺されます。市民は怒りに燃え、警察や軍の武器庫から銃・弾薬を奪い、武装し、市民軍を編成しました。韓国は徴兵制で、一般市民も銃の使い方の訓練を受けているため、銃武装が容易でした。

こうして、軍と市民軍が対峙し、光州市街で銃撃戦が展開されます。徹底した報道規制のため、韓国国民は光州で起こっていることを知りませんでした。わずか38年前、すぐ隣の国でこんなことが起きたということ自体、ちょっと信じられないような思いがするかもしれません。

最終的に、軍は戦車部隊を投入し、4月27日に市内全域を制圧します。光州事件全体の死者は民間人168人、軍人23人、警察4人。負傷者は4782人、行方不明者は406人にのぼりました。(*注1)

■陰謀による内乱か、正当な民主化運動か

光州事件は全斗煥政権下で、「金大中などの北朝鮮シンパに扇動された内乱」と規定されました。しかし、1993年、金泳三政権が発足すると、光州事件は内乱ではなく、市民たちの正当な民主化運動であったと再評価されます。光州事件の責任を追及された全斗煥と盧泰愚(ノ・テウ)は起訴され、それぞれ無期懲役、懲役17年の判決を受けます(その後、特赦)。

しかし、光州事件の再評価の動きに対し、保守派から疑義が呈されます。保守派の識者で元韓国陸軍大佐の池萬元(チ・マノン)は様々な観点から、全斗煥政権が光州事件を「内乱」と規定したことを擁護しつつ、「光州事件は北朝鮮特殊部隊の工作だった」と主張します。池萬元は2008年、市民団体から名誉棄損で訴えられますが、2012年、最高裁は「正当な評論の範囲内」として無罪判決を下しました。

こうした保守派の主張に沿った報道番組も放送されました。そして、光州事件犠牲者を追悼する前述の「あなたのための行進曲」には、北朝鮮を称賛する意味が込められているという解釈が強まります。とはいえ、「北朝鮮の陰謀があった」という解釈や見解に対しては、当時の保守与党であったセヌリ党からも否定的な意見が出ています。

韓国政府は毎年5月18日を、光州事件の公式記念日に指定しています。1998年から2008年まで、「あなたのための行進曲」はこの日の記念式典で斉唱曲として歌われてきましたが、保守派の李明博(イ・ミョンバク)が大統領になると、合唱曲に格下げされました。

斉唱曲は全員が歌うべきもの、合唱曲は歌いたい人だけが歌うものです。「君が代」を歌う際には、「国歌斉唱!」と掛け声がありますが、「国歌合唱」とは言いません。李明博政権に続き、朴槿恵政権でも、「あなたのための行進曲」は合唱曲のままでした。

それが、文大統領の指示によって9年ぶりに再び斉唱曲となったわけです。文大統領は昨年の記念式典で、こう演説しました。「文在寅政府は、光州民主化運動の延長線に立つ」。

■韓国でデモが頻発するのはなぜか

光州事件の実態は恐らく、韓国のいつもの左派デモが過熱化しただけのものと思われます。軍事政権時代にはとくに、左派デモはひんぱんに起きており、珍しいものではありませんでした。最近では朴槿恵を退陣に追い込んだ「ろうそくデモ」なども記憶に新しいところです。(ちなみにこの「ろうそくデモ」でも、労働組合団体などが「あなたのための行進曲」を熱唱していました)。

2015年にはソウルで、光化門広場に国旗の掲揚台を設置することに反対する市民団体が激しいデモを行い、鉄パイプを振り回し、警察車両を壊しました。デモ隊は顔をマスクで覆って暴れたため、国会は「覆面禁止法案」を制定。軍事政権時代に使われた「騒擾罪」を適用し、暴徒を捕らえて厳罰に処しました。

とはいえ、どこの国でもいつの時代でも、左翼的な発想を持つ人間はいます。それをいちいちスパイだの「北朝鮮の陰謀」呼ばわりするのは適切ではないでしょう。

韓国は異常な格差社会です。所得上位10%への富の集中度は、アジアの主要諸国中、最高水準(*注2)。財閥一族の多くが、他の財閥一族や政治家・官僚と婚姻関係を結び、昔も今も既得権層を形成しています。しかも、富の再分配を可能にする仕組みも韓国にはありません。貧困に追いやられる一般国民は常に不平不満を抱いているため、激しいデモや反権力運動が発生する土壌が慢性的に存在するのです。

「民主化運動」という美名のもと、このような一般国民の不平不満は、しばしば暴力的に発露されてきました。さすがに今日では、光州事件のように軍と市民が銃撃戦を繰り広げるような事態は起きにくいでしょう。しかし、上記のような韓国社会の格差を是正しない限り、国民の怒りは形を変えてまた爆発するに違いありません。

■財閥改革を掲げてはいるが

文在寅は財閥改革、雇用対策、福祉等の社会保障改革、中小企業支援などを大統領選の公約に掲げ、当選しました。財閥改革などは、文在寅の師匠である盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領も公約の柱にしていましたが、経済への影響が甚大で、結局は手をつけることさえできませんでした。

「光州民主化運動の延長線に立つ」と大見得を切った文在寅大統領ですが、「延長線」に立った末に国民の「怒りの爆発」に吹き飛ばされないよう、注意しなければならないでしょう。

(*注1)文京洙『韓国現代史』(岩波新書) 2005年。犠牲者数についてはその他諸説あり、2003年に韓国政府が発表した調査結果によると、死者207人、負傷者2392人、その他の被害者が987人。2005年「5・18遺族会」などの発表した調査結果によると、けがや後遺症による死亡もふくめ死者は606人。
(*注2)聯合ニュース 2016年9月4日「急激に格差広がる韓国 上位10%への所得集中は米に次ぎ2位」

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宇山卓栄(うやま・たくえい)
著作家。1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『「民族」で読み解く世界史』(日本実業出版社)などがある。

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(著作家 宇山 卓栄 写真=FRANCOIS LOCHON/GAMMA/アフロ)