―大好きな吾郎くんが、私と結婚してくれたー

数々の苦難の末に、結婚願望のない男・吾郎との結婚に辿りついた英里。

結婚はゴールでないことなど、百も承知。

しかし、そんな二人を待ち受けていたのは、予想を上回る過酷な現実であった。

愛し合っていたはずの夫婦は、どのようにすれ違い、溝ができてしまったのか。

男女の価値観のズレ、見解の相違、そして、家庭外での誘惑...。

二人は“新婚クライシス”に陥るが、英里はそんな中、「子どもが欲しい」と宣言する。だが夫婦仲はギクシャクしたまま、二人はついに別居してしまう。




吾郎が家を出て行ってから、数日が経過した。

カチャっと自宅のドアの鍵を開けるたび、英里は胸が軋むような痛みに襲われる。

もともと無駄なモノの少ない彼の部屋は、家主の不在によりさらに無機質さを増している。夫と離れるのは、予想を上回る寂しさがあった。

あれほどすれ違いの日々を苦しいと感じていたのに、本当に一人になった今、英里が感じるのは途方もない孤独感だ。

着替えのためにクローゼットを開けると、そこは以前よりがらんとスペースが余っており、つい溜息が漏れる。英里のいない間に、吾郎が服やスーツを持ち出したのだ。

新婚夫婦が住むには、クローゼットも小さく少し不便だと思っていた部屋。しかし一人になると、今度はやけに広く感じる。

だが、いくら寂しくても、何も解決しないまま吾郎と元に戻るのは躊躇われたし、かと言って、本気で離婚に踏み切る覚悟が自分にあるかどうかも疑問だった。

-本当にダメな女だな、私...。

身動きが取れずに自己嫌悪に陥る英里に、一通のメールが届く。

-英里さん、相談があるんです。お時間作ってもらえませんか?-

その送り主は、咲子に苦言を呈されてから接触を避けている、後輩の新一だった。


一方の吾郎に、思わぬ急展開が訪れる...?!


不意打ちの誘惑


家庭が崩壊した男ほど仕事で成果を出すという一説は、やはり嘘ではないと吾郎は思う。

惚れた女に認められ、敬われ、受け入れられることは、何だかんだで結局、男の自尊心を最も満たすことの一つであるのは否めない。

よって、その女を失った男は、自信を保つために仕事に専念するしか道がなくなるのだ。

さらに仕事に没頭することで、自身喪失した情けない自分から目を逸らすことだってできる。プライドの高い男にとって、これほど便利なエクスキューズはない。

-......くそっ。

柄にもなく自虐的な思考に陥る自分を戒めるように、吾郎は人の少ない深夜のオフィスで強くキーボードを打つ。

「また、奥様のことでイライラされてるんですか」




挑発的な声に振り返ると、ナオミがコーヒー片手に立っていた。

「どうぞ。こんな時間なので、一応ディカフェです」

「...悪いな」

吾郎はコーヒーを受け取るが、彼女と長話をするのは躊躇われた。というのも、妻と決定的に決裂してしまったきっかけは、このナオミと一緒にいるのを目撃されたからなのだ。

もちろん彼女に罪はないが、必要以上の絡みは避けるべきと本能が告げている。

「吾郎先生、とうとう家出されたって本当ですか?反抗期の中学生みたい」

クスクス笑うナオミを、吾郎は強く睨みつける。すると彼女は言い訳するように言った。

「情報源は知りませんけど、秘書さんたちの噂の的になってますよ。吾郎先生は、やっぱり人気者ですから」

家を出た直後はオフィス近くのフォーシーズンズホテル丸の内に仕方なく宿泊していたが、結局『オークウッド』のサービスアパートメントを借りてしまった。

あの英里からあれほどの拒絶を受けたあとでは、とてもすぐに顔を合わせる気になれなかったからだ。

「恋人から夫婦になる過程って、誰だってそれなりに衝突しますよ。でも時間が経てば、自然と落ち着いて収まるところに収まります。だから、先生はそのままでいてください。

結婚して急に角が取れて丸くなっちゃう男性なんて、情けないし」

ナオミはツンと澄ました声で言うが、彼女なりに励ましているつもりなのだろうか。しかし次の瞬間、吾郎は耳を疑った。

「...でも、いくら吾郎先生でも、急に一人になったら寂しいでしょ。私、お部屋に遊びに行ってもいいですか?」

女嫌いの吾郎が珍しく信用したナオミだが、その女の声に、媚と打算が混じっている。驚きのあまり、さすがの吾郎も呆気に取られ言葉を失った。

「ナオミちゃん、いい加減その辺にしとけよ」

ピンと張り詰めた空気の中、気づくと松田が傍に立っていた。

「ちょっと外してくれる?コイツと二人で話があるから」

松田が叱るように言うと、ナオミは「かしこまりました」と言い捨て、不貞腐れた様子で姿を消した。


そして、年下男・新一がまさかの行動を起こす...?!


引く女と、追う男


「英里さん!メール見てくれました?」

仕事終わりにオフィスを出ようとする英里を、新一が焦ったように引き留めた。

「あ、ごめんね...ちょっと忙しくてバタバタしてて...」

「相談がある」というメールにも返信はせず、英里はなるべく彼を避けていた。先日は咲子に反発したものの、新一と噂になっているという忠告は無視できなかったのだ。

「しつこくてすみません。でも、少しでいいので話せませんか?」

英里は動揺しながらも、切実そうな彼の様子にNOとは言えなかった。




「無理言って、すみません...」

新一と英里は、『銀座 真田』のカウンター席に静かに腰を下ろした。

ここは銀座のど真ん中にある品の良いシックな蕎麦屋だが、深夜遅くまで営業している上にフランクに居酒屋使いもできる便利な店だ。

「いいの、ちょうどお腹も空いてたし。それで、相談って?」

「あ、えっと...とりあえず、乾杯しましょう!」

新一は僅かに言葉を濁し、ビールを喉に流し込む。

「英里さんは、最近どうですか?話すの少し久しぶりですよね。ご主人とは、その後落ち着きました?」

「...実は...」

新一に曇りのない瞳で問われると、英里はついポロリと吾郎が家を出たことを吐露してしまった。別に、無理に誤魔化すことでもない。

「そうだったんですか...」

新一はいつものように、肯定も否定もせず、絶妙に相槌を打ちながらじっと英里の話を聞いてくれる。そんな彼を前にすると、胸に溜め込んだ気持ちが一気に流れるように、心が少し軽くなった。



「あ!私ったらごめん!今日は新一くんの話を聞くはずなのに...!何かあったの?」

食事を終えて外に出たとき、英里はハッと我に返った。結局自分の話ばかりで、新一の相談は聞いていないことに気づいたのだ。

「あ、いや...、実はそんなに大したことじゃないんです。時間も遅いし、今日は送りますよ」

だが、彼はやはり何故だかこの話題を避けているようだ。少しばかり緊張した空気に包まれながら、二人は大通りに向かって歩く。

真冬の夜は冷え込み、ぱらぱらと冷たい小雨が降り始めていた。

「英里さん、実は、近いうちに海外に行くかもしれません」

突然、新一に後ろから抱きしめられた。あまりに急なことに心臓が止まりそうになる。遠慮がちにひそめた彼の呼吸が、わずかに頭上に降りかかった。

「...新一くん」

「この前、部長に打診されたんです」

新一くん、ともう一度呼びかけてみたが、彼はそれを無視して、腕の力を少し強めた。厚いコートの上からでも、新一の熱い体温が感じられる。

「僕、英里さんが好きです」

「...新一くん、ごめん」

「男として見られてないことは分かってます。でも、どうしても伝えたくなりました。すみません」

新一はそこまで言ったものの律儀に謝り、やっと腕の力を少し抜いた。

「ごめん、今日は帰るね」

英里はその隙に、急いで彼から離れる。

そして、強さを増した雨を振り切るように、足早にタクシーを探した。

▶NEXT:2月3日 土曜日更新予定
新一の告白に戸惑う英里。そして、家出吾郎に心境の変化が...?