橋爪謙一郎さん。「本質を突き詰めるのが近道ですけど、準備するのは滅茶苦茶大変なんですよね。そこは気合いでやるしかない」と笑う(撮影:村田らむ)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第23回。

生前の元気だった頃の面影が戻るエンバーミング


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エンバーミングという遺体に施す処置がある。赤く染色した薬剤を遺体の血管から注入して血液と入れ替えることで防腐処置を行い、皮膚も消毒・滅菌処置を施して衛生的に良好な状態を維持する。それと同時に、生前の元気だった頃の面影が戻るよう、闘病の末のやつれや事故で受けた損傷なども修復する。故人の状態を保つための総合的な技術だ。

エンバーミングを施した遺体は長持ちするので、1カ月近くかけて遠方から駆けつける遺族がいても対面が望めるし、海外で亡くなった遺体を長距離輸送して自宅に安置するといったことも可能になる。米国では南北戦争(1861〜1865年)のときに北軍の戦死者を生家に送り届ける需要が高まって急速に普及し、現在でもおよそ8割の遺体がエンバーミングを施されているといわれている。

しかし、日本ではそこまで一般化していない。国土が米国ほど広くなく、亡くなったら数日で火葬する習慣が浸透しているため、エンバーミングの必要性が相対的に薄いと考えられることが多いためだ。国内に近代的なエンバーミング施設ができたのは1988年のことで、年間処置数が3万件を超えたのは2014年に入ってから(※一般社団法人日本遺体衛生保全協会(IFSA)の情報より)。それでも故人の100人中3人がお世話になっていると考えると、なかなか普及している感もある。

今回インタビューした橋爪謙一郎さん(50歳)は、日本でエンバーミングがほとんど知られていない1994年に渡米し、本場のエンバーミング技術を身につけて帰ってきた黎明期の雄の一人だ。2007年にドラマにもなった漫画『死化粧師』(三原ミツカズ作)の主人公・間宮心十郎のモデルになったことでも知られる。

まったく別の業界から一念発起し、言葉も技術も留学のノウハウも知らない状態で本場に飛び込み、現地のプロたちに一目置かれるほどに腕を上げた背景にはどんな苦労があったのだろうか。橋爪さんが経営するジーエスアイのセミナールームでこれまでの歩みを伺った。すると、柔和な話しぶりから想像てきないほど筋肉質な学びぶりが見えてきた。

橋爪さんが生まれたのは1967年3月の北海道千歳市。父は祖父の代で興した葬儀社を経営しており、物心ついた頃には葬儀業界にどっぷりと浸かった生活を送っていた。

「家には両親以外に社員さんが4〜5人いて、ほかにもパートでお手伝いをしてくれる知り合いが同じくらいいて、それでも手が足りないからと小学校の頃から家業を手伝わされていました。学校から帰ってきたら、道具の清掃とか整理とかとにかく何か指示されて。ドライヤーは(葬儀会場外に飾る)花輪の名札を乾かす道具だと思っていましたからね(笑)」

小学校4年生の頃には、父についていって病院から遺体を搬送する手伝いをしたこともある。家族旅行の際に葬儀の依頼が入ったために両親がトンボ帰りして、旅館に妹2人と取り残されたこともある。病院関係者や旅館の女将からけげんな顔をされたのを今も覚えている。父はとにかく厳しくて逆らえなかった。

実家は航空自衛隊の千歳基地の近くで、小学校の同級生はほかの地域から引っ越してきた自衛隊員の子供が大半。葬祭業という仕事は物珍しく見られた。両親が誇りにしている仕事をけなす気は毛頭なかったが、思春期の頃には、からかわれるし自分の時間も持てない職業につくのは嫌だという思いが募っていた。

ではどんな職業がいいのか? 高校生の頃にピンときたのは新聞記者だ。当時はベトナム戦争の時代で、報道写真家の沢田教一氏やほかの戦争ジャーナリストの活躍に胸が躍った。新聞記者になろう。なら文系だ。理系の特進クラスに進んでいたが、受験直前に文転したためあえなく玉砕。二浪の後、成城大学法学部に入学する。

「当時はいろいろなことを知らなくて、新聞記者なら文系の大学を出なくちゃって妙な思い込みがあったんですよね。文系なら法学部というのも同時に決めていました。法律を通して社会の仕組みを知りたかったんですよね」

実家から離れた東京での暮らしは、家業の手伝いもなく開放感に満ち満ちていた。ただし、子供の頃から染みついている性分はとにかく暇を嫌う。授業のほかに夕方はグランドホッケー部で汗を流し、夜は渋谷でバーテンダーのバイトに勤しむ。部活がシーズンオフになる冬場にはお歳暮のデータベースをひたすら入力するバイトに没頭するなど、卒業するまではとにかく忙しいキャンパスライフを続けた。

就職活動では、複数の新聞社の最終面接まで進んだもののすべて不採用となり、最終的に出版事業とチケット販売事業を展開している株式会社ぴあから内定をもらった。橋爪さんの配属希望は当然出版事業部だったが、辞令に書かれていたのは会員に向けたサービスを行う部署で、後にチケット事業本部に回されることになる。なかなか希望どおりに事が進まない。

しかし、ここで仕事にのめり込む。部署の仕事はコンサートのイベンターなどと交渉して販売計画などを立てるのが中心。目利きと企画力、交渉力があればキャリアを問わず結果が得られる。入社して3年経たないうちに、ブレイク前のスピッツのライブ計画に長くかかわったり、レゲエイベントで新たなチケット販売システムを企画して前年比10倍の観客動員を記録したりと、目に見える成果がついてきた。橋爪さんは「まだベンチャー気質のある頃で、新人の頃からベテラン社員と一緒に扱われたのが楽しかったですね」と密度の濃い社会人生活を振り返る。

父からの電話

その生活が終わりを告げたのは1993年10月のこと。きっかけは会社にかかってきた父からの電話だった。

「話したいことがあるから、2〜3日北海道に帰ってこれないか?」

当時はPHSすらなくポケベルが一部で流行っていたくらいの時期で、現在より連絡が取りづらかったのは確かだ。それでも職場に親から電話が来ることは珍しく、父がそんなアプローチをしたことも初めてだった。何事かと思いながら実家に帰った橋爪さんだったが、そこには今まで見たこともないほど興奮した父の姿があった。

「父はNFDA(全米フューネラルディレクター協会)の米国研修旅行に参加したんですが、そこで目の当たりにしたエンバーミングの技術がすごかったそうなんです。最初はちょっと腐敗臭がしているご遺体があったそうですが、処置を施していくうちに臭いがしなくなって、見た目もきれいになって、苦悶の表情を浮かべていたのが安らかになっていったというんですよ。それはもううれしそうに熱弁して。こういう父もいるんだなって、不思議な気持ちになりましたね」

その興奮のまま、父は息子に米国でエンバーミングを学ばないかと勧めてきた。

もともと家業を継いでほしい思いがあることは知っていたが、これまで父が自分の進路に口出しすることはいっさいなかった。厳しいながらも、学ぶことと働くことに関しては一貫して子供の意思を尊重してくれる。その父が現職を辞めて、何年間か留学してこないかと誘っている。留学中の最低限の生活費は父の会社でまかなってくれるとまで言っている。橋爪さんの心は揺らいだ。

「さすがに即答はできなくて1〜2週間考えました。最終的に行くことに決めたのは、まだ日本でマスターしている人がほとんどいない技術をモノにできるのは面白そうだと思ったのが大きいです。今逃したら2度とこのチャンスは巡ってこないという思いもありました。あと、あの父にあそこまで言わせる技術なら絶対に何かあると確信めいた感触もありましたね」

突然辞意を表明された上司は驚いたが、理由を話したら理解してくれた。ぴあでの仕事は楽しかったが、「就職して3年目で、生意気ながら、ひととおりのことをやりきった感があったんですよね」とのことで、タイミング的にも区切りが付けやすかったところもある。翌月末に退職届を提出した。

ピッツバーグに留学

エンバーミングが学べる大学に留学して卒業するのに早くて1年。その後の実地研修を経てエンバーマーのライセンスが取れるのも早くて1年――それだけの期間帰ってこない決意をし、当時付き合っていた女性との結婚も決めた。

父親の研修旅行の伝から、留学先はペンシルベニア州にあるピッツバーグ葬儀科学専門大学に決まった。年が明けた1994年に渡米すると、学長自らが出迎えて、英会話能力も留学の知識もほとんどない橋爪さんを手厚くサポートしてくれた。下宿の手続きを手伝ってくれたのも学長だ。しかし、大学にとって初の留学生だったため事務的なノウハウはなく、学生ビザの申請に必要な書類はなかなかそろえてくれなかった。そこで、新年度が始まるまでの間に語学学校に通うことにする。

「ビザ関連のノウハウがある語学学校で書類をそろえて、それを大学側で書き換えてもらうことにしたんです。英会話も学べて一石二鳥ということで(笑)」

これでどうにかビザは間に合いそうだが、まだ“足”がない。学長からはクルマがないと生活できないと教えてもらったが、州の運転免許の取り方がわからなかった。そのうち、ピッツバーグに留学した日本人に代々伝わるコミュニティ誌があるらしいと知る。夫婦でどうにか持っている人を見つけ、ようやく免許が手に入った。インターネットが普及する前の時代はニッチな情報はなかなか入ってこない。

奥さんも海外経験はなく、夫婦2人で手探りの日々。日本人の舌に合う食材もクルマで片道5時間かけてワンシントンD.C.まで行かないと買えなかった。父の会社からの仕送りとぴあ時代の貯金があっても、もちろんぜいたくは望めない。

そんな苦労の絶えない日々だったが、大学の授業に比べたらかわいいものだったという。

大学は9月に始まる1年度=3学期に加え、翌年度にもう1学期履修するプログラムを組んだ。4学期16カ月で合計1600時間、80単位の授業を受けることになる。しかし、単位の取得はどれも容易ではない。まず遅刻厳禁は当たり前で、無断欠席が3日以上続いたら学期内のすべての単位がなくなる校則があった。

すべての科目で「授業の積極的な参加」が評価の2割を占めるようになっているので、質問を投げかけたり解釈を発表したりする姿勢をサボると期末試験でそこそこの点数が取れても落第しかねない。留学生とて例外ではなかった。

「しかも、大抵は教科書がなくて、板書きもほとんどしてくれないんですよ。ずーっとしゃべってる。OHP(オーバーヘッドプロジェクター)を使う授業だと、どう考えてもそれだけじゃわからないような資料がサラッと投影されるだけだったり」

いったんついていけなくなると、2週間に1回の小テストで深刻なダメージを負い、たちまち単位取得に暗雲が立ちこめる。もう必死だった。講師の話は一言一句漏らさず受け取り、とにかく集中してその場でノートに要点をまとめていった。

語学学校や日常的な反復学習の甲斐あって入学前からリスニング能力が高いレベルに達していたからこそできた技だ。OHPシートからは出典を調べあげ、大学の書店や近所の古書店で資料を見つけて丸暗記した。プリントが配布された場合も同様だ。学生の間にはひそかに過去問が回っていたが、留学生の立場では知りようがなく、すべての授業を正面突破していくしかなかった。

授業は1日8時間だが、2学期に入るとそれとは別にエンバーミング実習も加わる。大学の医学部や市の検死局などに出向いて5〜6時間かけて処置をするため、実習がある日は1日の残りが10時間程度となる。そのうち5〜6時間を勉強に当て、睡眠は4時間とれればいいという日々。実習がない日はその分が勉強の時間になるだけ。家族との時間は学期間の短い休暇くらいしかとれなかった。

「初めて処置したときのことはよく覚えています。教官に言われてご遺体の右鎖骨上を小切開したら、まったく出血がなくて。『そうか心臓動いていないんだよな……』と思わず口から出ました。もうとにかく緊張していましたね」

見返りは小さくなかった。2学期になってスピーキングが見違えて上達し、授業中の発言がまったく苦にならなくなったという。期末試験で満点をとることもザラで、クラスメイトにノートを貸してと頼まれることも日常茶飯事。元々手先が器用だったこともあり、エンバーミング実習は経験を重ねるごとに精密さを増していく。気づけば圧倒的な優等生になっていた。

留学生には大打撃の事実、新たな試練が…

壁を乗り越えたあとの勉強は、相変わらず大変ながらもはかどった。ところが、3学期に入ったとき新たな試練が頭をもたげる。ペンシルベニア州では米国国籍を持たない人はエンバーマーのライセンスを得られない。小テストの設問にそう書いてあるのを見つけた。学長も知らなかったくらい細かな条項だが、留学生には大打撃の事実だった。

米国のエンバーマーのライセンスを得るには、まず全米の国家資格であるフューネラルディレクターを取得する必要がある。そのうえで、州ごとに定められた条件を満たすことが求められる。葬儀社に勤めて一定期間実地研修することでライセンスが得られる州が多いようだ。ただ、条件に米国国籍が絶対条件の同州にいては、日本人は永遠にエンバーマーになれない。となると、国籍を問わない別の州で葬儀社に就職して経験を積む必要が出てくる。

条件に合う州はカリフォルニア州やニュージャージー州、ハワイ州などいくつかあった。それらの州のうちで日系人が多い地域の葬儀社に絞り、片っ端から履歴書を送り、電話をかけた。その数は優に200社を超える。

「結局7年間留学していましたが、なかでもこの時期がいちばんストレスを抱えていました。どれだけ履歴書を送っても返事がいっさい来ないんですよ。米国は、僕が就職したら別の誰かが首を切られるという世界。その首を切られる候補の人が履歴書を受け取るものだから、決定権を持つボスには行かずにシュレッダー送りになるわけです。そんな構造、当時は知らなかったのでもうただただ苦しかったですね。自分じゃどうしようもできない」


「留学する当初は7年間も過ごすなんてまったく思っていなかったです(笑)」(撮影:村田らむ)

同州の葬儀社なら大学のコネや名前でどうにかなったかもしれないが、州をまたぐと外国と同じ。ようやくカリフォルニア州の葬儀社に就職が決まるまでには、大学を離れてから丸2年を要した。同州では勤務先のエンバーマーの下で2年間実地研修し、学科試験をパスすることでライセンスが得られる。

雇い主はエンバーマー見習いを薄給でこき使える人員とみなすタイプで、橋爪さんは昼夜問わずの搬送車での遺体のお迎えから各種申請書類の作成や提出など何でもやらされた。ライセンス取得のために耐えたが、期限が迫っている専門職ビザ(H1-B)の申請を(脱税がバレるのを恐れて)拒み続けられたため、1年経って転職を決意せざるをえなかった。仕事にも慣れて、同僚と別れなければならなかったことは残念だったが、決断する以外になかった。

「尊敬される」フューネラルディレクター

ところが、今度の就職活動はあっさりと終わった。同州での実務経験があったのと、後述するように大学院で心理学を学んでいたのが大きかったらしい。2つ目の葬儀社は橋爪さんを1人の人間として接するタイプのスタッフばかりで、近隣住民からも尊敬されているのが肌でわかったという。


『エンバーマー 遺体衛生保全と死化粧のお仕事』(橋爪謙一郎著/祥伝社)(筆者撮影)

「日本では、よく米国の葬儀社スタッフ(フューネラルディレクター)は尊敬の眼差しで見られていると説明されますが、あれは半分違います。尊敬されている人もいれば、毛嫌いされている人もいる。職種ではなくて、人柄や仕事で見てくれるというのが正解です」

橋爪さんもまた、周囲の人たちに尊敬を持って迎えられたのを覚えている。遺体搬送の際にベッドから安置所まで丁寧に付き添っていると、いつしか界隈の病院で評判が広まって声をかけられるようになった。地域の日系人の人たちからは「ケンがいてくれるから俺たちは安心だ」と言ってもらえたりもした。

そうして2年が経った2001年1月、ついにエンバーマーのライセンスが橋爪さんのもとに降りてきた。

エンバーマーのライセンスは留学生活の終わりを意味している。地域になじんでいた橋爪さんは一時期「いっそこのまま永住しようか」とも考えたというが、この頃にはすでに日本に戻る決意を固めていた。

遡ること半年。カリフォルニア州に日本の葬祭事業者たちが視察に来たとき、通訳兼案内役を買って出たことがある。一団と言葉を交わしながら、「ああ、日本の葬祭業はこうやって変わりつつあるんだなあ」と実感した。少子化や高齢化が進み、家族の形も変わっている。

そのなかで求められる葬儀の姿は何か、と皆が真剣に考えている。その一方で、米国の葬儀業界に身を置く橋爪さんから見たら、足りないと感じる部分は多々あった。だからこそ、自分がやれることがあるんじゃないかと強く思えた。日本に戻って後進を育てよう。エンバーミングの技術はもちろん、「尊敬される」フューネラルディレクターの本質も伝えたい。

帰国は2001年3月。このとき、7年間をともにした奥さんと離婚している。激烈な留学生活と新婚生活の両立は難しいところがあったのかもしれない。

エンバーミングの本質とは

日本に戻ってからの就職活動は、“持たざる者”だった留学以前とは明確に違った。2001年の夏には、神奈川県平塚市にできたばかりの日本ヒューマンライフセレモニー専門学校(現・日本ヒューマンセレモニー専門学校)の副校長となる。視察団にいた1人が葬祭業の専門学校設立を計画しており、手伝ってほしいと直接請われたうえでの就任だった。

副校長として始めにやったのは、カリキュラムの再編だ。

「元のカリキュラムは卒業後の展望が描けていなかったので全部直しました。葬儀やエンバーミングの現場で『あの学校を出た人、けっこう使えるよね』と言われるくらいにならないとダメでしょう、と。そこから逆算して、実地研修や一線で働いている人の講義を増やすなどして組み立てていきました」

講師や学生とのやりとりを経てどうにか形ができた2003年4月、今度は国内でのエンバーマー育成をスタートさせたIFSAからスーパーバイザーになってほしいとの要請に応じ、東京や大阪の研修施設で教壇に立つようになる。そして翌年の2004年には、有限会社ジーエスアイを設立(後に株式会社化)。以降は自らの会社を拠点にした活動にシフトしている。また、この時期に現在の奥さんと結婚している。


国内にあるエンバーミング処置室での橋爪謙一郎さん。『エンバーマー』(2009年1月発行)を出す直前に撮影した

ジーエスアイには橋爪さんを含め10人ほどのエンバーマーが所属しており、当初はプロのエンバーミング集団として活動していた。ほかに替えの利かない事業ということもあり2005年には黒字化し、経営を軌道に乗せる苦労はあまりなかったと振り返る。しかし、この事業形態では長続きしないこともわかっていた。

「IFSAによる育成が進んでいましたし、いずれはクライアントである葬儀社さんのほうでエンバーマーを雇用するようになるのは見えていましたからね。いま堅調でもどんどんニーズが減っていく。そうなる前にもっと本質的な事業を始めなければと思っていました」

エンバーミングの本質とは何か。

橋爪さんは「ご家族がご遺体と対面したときに『あ、帰ってきた』と思える感覚。それを一瞬で持ってもらうきっかけを作る技術だと思っています」という。変わり果てた遺体の異質感を取り除き、生前の雰囲気が感じられる状態にする。衛生的にも内面的にも健康な状態にする技術といえるかもしれない。つまるところ、悲嘆(グリーフ)にくれる遺族の心に作用するところにエンバーミングの本質があると考えている。おそらくは、1993年に橋爪さんの父が驚くほど感動したのもここの部分だろう。

興味が惹かれたらその本質を知りたくなる性分は、「法律を通して社会の仕組みを知りたかった」と法学部を目指した10代の頃から変わらない。留学中になかなか就職先が決まらずに苦しんでいた頃、ジョン・F・ケネディ大学大学院に入学して独自に勉強を進めてもいた。ピッツバーグ葬儀科学大学で受けたグリーフケアの授業が強く印象に残っており、その本質を知るために心理学を極めたかったのだという。

悲嘆に寄り添うというところに立ち返って事業展開を考えると、視界と市場はぐっと広くなる。

「国内のエンバーミング需要を考えたとき、多く見積もっても亡くなった方の20%がいいところだと思います。年間死亡者が130万人なら26万人。対して、悲嘆にくれるご家族やご友人はどれだけいるのか考えると、130万人の周りにそれぞれ10人近くいるとしたらざっと1300万人になるわけです。そんな大きな市場なのに、ビジネスとしてその人たちの受け皿になっている取り組みはないなと気づいたんですよ」

この種の取り組みはビジネスとしてとらえなければならないと橋爪さんは強調する。ボランティアベースだと、継続的に活動するのは難しく、全国に散らばる1000万近くの人をサポートする展望が描けない。寄付金や補助金、あるいは参加者のモチベーションを拠り所にするのもリスクが大きい。目的を成すならしっかりと対価をとって拡大していけるビジネスベースが最善だ、と。

そこで、2008年にもう一本の収益の柱として、グリーフサポートを伝える教育事業とそれを元にした法人コンサルティング事業を始めた。橋爪さん1人で展開できる事業のため、元手がかからず黒字化は早かった。企業に呼ばれて行くスタンスではスケジュールが回らなくなるほど好評で、同社のセミナールームに各々来てもらう方針に替えたほどだ。


グリーフサポートバディの解説ページ

この取り組みは2012年発足の「グリーフサポートバディ」という同社運営の認定制度にもつながっていく。2018年春にバディ認定者は100人を超える予定だ。葬儀業界に限定せず、さまざまな職種の人が取り組んでいるという。

そして、最近はさらに本質に立ち返ったビジネスを構想している。

「今は世界中で無宗教化が進んでいるんですが、それでも追悼の場として葬儀を大切にする動きが目立っています。それを支えるセレブラントという職業が注目を集めていまして、いずれ僕の会社でもやりたいなと思っているんですよ」

宗教に則った葬儀を軽んじるわけではなく、無宗教であっても厳粛な追悼の場をプロデュースできる職業が広まれば選択肢が増えて、誰も損しないかたちで共存できるという思いがある。近年続く葬儀の簡素化からくる“葬儀離れ”の流れを防ぐのが狙いだ。

「結局のところ、エンバーミングも葬儀もグリーフが本質といえます。どんな世の中になってもそこは変わらない。葬儀の簡素化や宗教離れといった表層の動きにつられて、そこがなおざりになってしまってはいけないと思うんですよね」

本質に向かって仕事をしている確信


エンバーミングは悲嘆に寄り添う=グリーフサポートの技術のひとつ。だから、自社もGSI=グリーフ・サポート・インターナショナルと名付けた(撮影:村田らむ)

橋爪さんの取り組みは、本質へ本質へと進んでいく。それは「具体から抽象へ」という、ビジネスの形にしづらい探求のように思えるが、グリーフサポート事業もエンバーミングと同じように収益化させた実績がある。

「本質的なところは突き詰めるほど面倒なんです。だけど、面倒だからこそ、コピーされにくい。絶えず変化する部分もあるから、そのときそのときの成果物をまねしても長続きしないですしね。回り道のようでいて近道を進んでいるような気もしています」

そう信じて歩んでいける根底には、あらゆる難関を正面突破してエンバーミング技術をものにした留学時代の自信がある。

10年後20年後はどんな活動をしているのか。まだ見えないが、身体が動いて社会に必要とされている限りは、本質に向かって仕事をしている確信があるという。何しろ74歳の父も現役バリバリで働いている。引退のイメージはわいてこない。

※参考文献・・・『エンバーマー 遺体衛生保全と死化粧のお仕事』(橋爪謙一郎著/祥伝社)