熊本県菊池市の米は、毎年秋に開催される「米・食味分析鑑定コンクール」で3年連続の金賞を受賞する実力(熊本県菊池市提供)

お正月休み、実家に帰省して「やはり地元はいいな」と思った人も多いのではないだろうか。地方出身者なら一度は考える、Uターン転職。熊本県には、そんなUターン転職を実現した30〜40代の新規就農者が、盛り上がりを見せている地域がある。

熊本空港から車で30分、熊本県菊池市は、県北部を流れる菊池川の上流に位置しており、阿蘇外輪山に源流を持つ美しい水源、ミネラル分を含んだ豊富な湧き水がそこかしこにある。昔から、この地の利を生かした農業が盛んで、コメどころとして知る人ぞ知る地域だ。

熊本県でもっとも多くの新規就農者が集まる

熊本県内の新規就農者の数は、2016年度で301人と、4年連続で300人を超えた。うち45人が菊池地域で就農しており、熊本県内では一番多い。政府の支援制度「農業次世代人材投資事業」が、30〜40代の新規就農を後押ししている面もあるようだ。支援制度を活用すれば、就農前の研修期間2年以内と就農直後5年以内、年間150万円が国から支給される。


無農薬にんにくを生産している今坂知章さん(本人提供)

支援制度を使い、ウェブデザイナーから転身した今坂知章さん(43歳)は昨年4月から熊本県立農業大学校で研修を受けている。

20代から30代半ばまで地元を離れ、福岡、東京で働いたが、結婚して子どもができ、いつかは地元に戻りたいと思い始めた。老後ではなく現役の間に仕事の基盤を作りたいと2011年、菊池地域にUターンした。

農業に適した地にもかかわらず担い手が少ない。昔ながらのやり方を踏襲するのではなく、無農薬の自然栽培で付加価値を付けネット販売するなど新たな農業を模索するなら、「今がビジネスチャンスだと考えた」(今坂さん)。現在は酪農家の父親が牛のエサを育てるために使っていた畑で、無農薬のにんにく、かぼちゃ、菊芋などを作っている。

菊池市Uターン組の一人、田中教之さん(41歳)は、2014年にクレソン農家に転身した。農家といっても変わり種だ。売り上げの8割以上を熊本県、福岡県、東京都の50店舗以上の飲食店向けが占める。


耕作放置された棚田を活用してクレソンを生産する田中教之さん(本人提供)

大学卒業後、東京都のIT企業に就職し2008年、熊本県の飲食コンサルタント会社に転職した。クレソンの生産を始めたきっかけは、「九州圏でクレソンの仕入れ先を探して欲しい」という、東京で飲食チェーン店を運営する友人からの依頼だった。

生産者を探すが量を確保できるだけの仕入れ先が見当たらない。生まれ育った場所を見渡すと、高齢化によって農業の担い手が減り、耕作放棄された田畑が目についた。

クレソン栽培に必要不可欠な水には事欠かない。この地の利を生かし、耕作放棄された棚田を活用して、田中さんはクレソン作りを始めることを思い立った。昨年には福岡県内の大手スーパーと契約し、業務用だけでなく小売り販売も拡大しようとしており、「現状は、生産量が追い付かない状態だ」(田中さん)。

1人では限界があることから、熊本県のほか福岡県、佐賀県、静岡県などの農家との契約も進めている。クレソンは水はけが悪く、日当たりが悪いところのほうが育ちやすい。コメ、トマト、しいたけなどの農家に、使っていない畑で作ってもらえば、「売り上げが月3万円でも、高齢の農家の方々は孫に小遣いをやれると喜んでくれる」と田中さんはいう。

これら地元食材を使った料理を提供する、飲食店もUターン組が元気だ。

かつては、男性客を中心とした団体客がコンパニオンを呼ぶ宴会型の温泉地として栄えた「菊池温泉」。菊池市の宿泊客は1989年の約44万人をピークに、現在ではその半数程度にまで減っている。

お世辞にも活気があるとはいえない温泉街の中ほど、スナックと小料理屋の隣にイタリア料理店「コントルノ食堂」がある。建物の奥にある店の扉を開けると、カウンターに熊本市内から訪れたという男女2人、福岡市から男性1人、テーブル席には大阪府、東京都から訪れた2人の客がいた。

手書きのメニューには「菊池産モッツァレラ」の前菜や、「菊池産の有機小麦と有精卵」を使った手打ちパスタ、「菊池農場のあか牛」ローストなど、地元食材を使った料理名がずらりと並ぶ。

客単価1万円でも大繁盛


「地元の食材のおいしさに気付いてもらう場所にしたい」とイタリア料理店「コントルノ食堂」をオープンした菊池健一郎さん(本人提供)

コントルノ食堂の菊池健一郎さん(43歳)は、「肉、小麦粉、野菜、卵などできる限り地元のものを使うようにしている」と話す。菊池市は農業・牧畜業を中心に第1次産業従事者の比率が約2割と高い。

他県から訪れる人が菊池市の食材のおいしさを知るきっかけを作り、生産者が元気になれば菊池市の活気にもつながると考え、2015年にコントルノ食堂をオープンした。

菊池さんは、高校まで熊本県菊池市で過ごし、大阪に移り住んで料理の専門学校に通った。卒業後は関西圏でフランス料理店、イタリア料理店、ホテル内レストラン、レストランバー、カフェなどさまざまなジャンルの飲食店を9年間ほど渡り歩き、熊本にUターンした。

地元に戻ると実家近くの商店街は、地方の例に漏れずシャッター街になっていた。「もう一度、人が集まる場所にしたい」――。40歳にして、いつかは持ちたいと常々考えていた自分の店を開店するに当たって、場所は地元の菊池市以外にないと思った。

こだわりの飼料を使った豚肉、自然栽培の米、無農薬の旬の野菜など、季節ごと、その日ごとに手に入った食材でメニューを決める。「不自然なことはしたくない」から、イタリア料理の定番食材とはいえ、真冬にはズッキーニ、ナスは使わず、トマトも手に入らなければ使わない。代わりに旬のごぼう、かぶ、大根を使った料理を提供する。

食材にこだわると原価率は上がる。一般的に飲食店の原価率の平均が30%前後とされる中でコントルノ食堂は50%超。「60%超になることもあって、経営的には厳しいときもある」(菊池さん)。

前菜からメイン、デザートまでのコース料理を頼み、「熊本ワイン」のボトルを注文すると1人当たり料金は1万円ほど。地方の物価を考えると決して安くはないが、コントルノ食堂で料理を食べるために菊池温泉を訪れ旅館に宿泊するというファンもいる。

「大事なのは原価よりコスパ」


「ナポリピッツア研究所 イルフォルノドーロ」の自社工場で手作りするモッツァレラチーズは、全国のファンからネットで注文が入る(本人提供)

コントルノ食堂から南西に2キロメートルほどの場所には、「ナポリピッツア研究所 イルフォルノドーロ」がある。オーナーの原田将和さん(39歳)もまた、20代前半までは東京都内の飲食店で働き、2010年に店をオープンしたUターン組だ。

原田さんの場合、「自分がおいしいと感じる食材を求めたら、自然と地元食材を使うことが多くなった」と言う。

オープン当初はイタリア食材を輸入していたが、ある時届いた小麦粉が腐っていたことがあった。新鮮さを追求するなら熊本県産の小麦粉のほうが良い。今ではイタリア食材の定番、モッツァレラチーズも原田さんの親戚が作る牛乳を使い手作りするこだわりようだ。

特段、「無農薬」にこだわりがあるわけではないが、おいしいと感じるものを選んだら、地元の無農薬野菜を使うことが多くなっていった。

「大事なのは原価よりコスパ」だと原田さんは考えている。「あえて“無農薬”の野菜を使っていると謳わなくても客には伝わっている気がする。原価が高くなっても良いものを使えばおいしいと無意識で感じ、また訪れようと思ってくれるはず」(原田さん)。

理想論のように聞こえるかもしれないが、看板メニューのピッツァとモッツァレラチーズ目当ての客が、地元だけでなく県外からも引きも切らず訪れる事実が、原田さんの言葉を裏付けている。

Uターンだけではなく、神奈川県から移住し、大手電機メーカーのエンジニアから農家へと転身を果たした人もいる。亀川直之さん(45歳)は6年前、熊本県菊池市に移り住んだ。

この地を選んだのは「肥沃な土壌と豊富な水。農業をやるのに適した土地だった」(亀川さん)からだ。現在は、オクラ、インゲン、西洋野菜などを自然栽培し、ナチュラル・ハーモニーなど個人宅配向けをメインに販路を広げている。

亀川さんが移住した2012年は、東日本大震災をきっかけに関東圏からのIターン移住者が一気に増えた年だった。だが今では、「所得の低さなど経済的な理由から、当時移住した人の半分以上が近隣の都市部に転居したり関東に戻っている」(亀川さん)。

亀川さんは、「ただ移住したいと思って熊本県菊池市に来たわけではなく、昔から関心があった食に関する仕事、農業をやりたいと思って移住したので、経済的に大変でも気持ちがぶれなかった」と話す。

地方にはない教育や雇用環境などを求めて福岡、大阪、東京など都市部に移住したものの、結婚や子育てなどライフスタイルの変化によって、生まれ育った自然環境の価値をあらためて発見し、Uターン転職したいと考える地方出身者は多い。ただ、就職先がなく、都市部ほどの給与も見込めず二の足を踏むのが現実だろう。

実際、「物価が安いから生活費を抑えられると思っていたが、公共料金や生活用品の価格は都市部とそれほどの違いはない」というのがIターンした亀川さんの実感だ。

地方は稼げないという常識を覆せるか

もちろん、毎月の家賃は安くなり、土地代も安いことからマイホームを建てることは夢ではなくなる。前出の今坂さんは「東京都内の賃貸マンションでは、下の階に住む人に配慮して子どもたちに静かに歩くようにといつも注意しなければならなかった。今は元気に走り回っていても笑顔で見守ることができる」と、地方暮らしのメリットを感じている。

また、都市部でさまざまなキャリアを積んだ人材の地方でのニーズは高い。前出の熊本県菊池市のUターン、Iターン転職した人々のように、「何を作れば売れるか」「何を必要としているか」など、人口が多く消費都市である東京や大阪で身に付けたマーケット感覚を生かせるからだ。

これは、地元でのビジネス経験しかない人々の中では、かなりのアドバンテージだ。都市部で経験を積み、地方に戻ってその経験を武器にビジネスをすれば、「地方は都市部ほど稼げない」を覆せるかもしれない。熊本県菊池市の新規就農の動きには、そんな新たな可能性がある。