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江戸時代の農村は日本史上、もっとも子育てしやすい環境だったというが「勉強しなさい!」と活を入れる教育ママはいたのだろうか? 子育ての歴史研究者が意外な事実を明かす。

■子供を「大人4人」が教育し世話をした

「教育ママ」を定義するのは難しいですが、1つには「近代化の産物」といえるでしょう。身分制度が揺らいで流動性が高まり、多くの人が、社会的な地位を上げることが可能になった。競争社会に参入する人が増え、勉強すれば勉強するほど、カネや権力を手に入れられると考えることのできる時代が来たのが近代という時代です。

さらに、働き方という観点もあります。明治時代になると、人々が都市に集住し、父親が企業や役所に働きに出るかたわら、母親が専業主婦として家事・子育てを一手に引き受けるようになった。そうして「ワンオペ母親」が誕生し、子供を厳しく教育し、躾を行う「教育ママ」が広まっていったといえるのです。

それでは、江戸時代の人々は、近代以降に比べて教育を疎かにしていたのでしょうか。また「教育ママ」はいなかったのでしょうか。そうではありません。教育そのものの目的が違っていたというのが正しいでしょう。

周知の通り、江戸時代は身分・階級が固定化されていました。ただ、一定の幅の中では能力のあるものが出世し、下級士官がより高い地位の官吏になったり、学者として取り立てられたりすることもありました。ですので、武士の家では、わが子の成功を願って、論語だったり剣術だったりの教育に熱心になる親がいましたし、「教育ママ」もいたかもしれません。

しかし、基本的には、特に農村では「親の家業を継ぐ」ことが当たり前であり、そのための教育がされていたのです。

平和が長く続いた江戸時代の農村は、日本の歴史上でも例外的といってもいいくらい、子育てがしやすい環境にありました。どこの家庭も子供は1〜2人で、息子が結婚して嫁を迎え、家に残る直系家族が多かった。娘はよその家へ嫁に行く。家族の形態としては、(長寿に恵まれた家では)祖母と祖父、父と母、子供が2人、という形が一般的になります。つまり、5〜6人の家族だと、子供を見るための大人たちが4人いることになります。教育の手綱の引き具合に余裕があったんです。

さらに、当時は村落という共同体が一体になって、子供を育てていた。もちろん、村落の中で監視されるような息苦しさもあったでしょう。しかし、子供をしっかり育てないと、という規制力が働くという利点もありました。

■村に逗留した儒学者や算法法師、修験者に教えを請うた

では、農村の教育で、「教育ママ」はいたのか。はっきりいうと難しかったでしょう。理由としては、女性の結婚・初産の年齢の平均が、20〜23歳前後だったことが挙げられます。対して、夫のほうは30歳前後から30代半ばが平均。現在の年齢の感覚と比べることは難しいとはいえ、20歳のいわば少女である未成熟な母親が口を出すことは難しかったでしょう。

ですので、より主体的に教育にかかわったと考えられるのは、直系家族でいう祖母のほう。自分自身の子育てが終わり分別もついた、教育ママならぬ「教育ババ」が誕生していた、と考えることができます。「教育ババ」といっても、50歳くらいの年。現在の感覚だと十分子育て世代です。

さて、農村で行われる「教育」とはどのようなものだったのか。江戸初期では、基本的には家業についての教育です。農家であれば田植えの仕方や畑の耕し方、山に入って薪を集める仕事を教える。漁村であれば、船の扱いや釣りの仕方、波の読み方を教えるということが主でした。農村の仕事は重労働ですので、中心を担うのは男で、男親から息子への教育が基本。女性は、田畑で働く男たちに弁当を持っていくなど、支える側の仕事が多かったと考えられます。

この時代の教育は競争に勝つというよりは、1つの家内で行われる伝承が中心だったのです。

とはいえ、外からの知識を手に入れる教育の機会もありました。代表的なものは、寺院です。和尚が、教訓話や生活の知恵などを教えていた。また、武士や商人ほど頻繁ではありませんが、寺子屋や手習い塾に通う子供もいました。

ほかにも、儒学者や、和算を教える算法法師、修験者などの知識人が移動中に村に逗留することがあり、彼らを宿泊させる代わりに、教えを請うこともありました。

江戸時代には本屋が各地を回って本の商いを行っていました。

■明治時代以降になると「教育ママ」が誕生

江戸中期になると、農村でも教育熱は高まります。農業について記された「農書」が広く出回るようになります。効率的な農法を勉強すれば、収穫も増える。蚕や煙草など商品作物を育てれば現金収入が得られる。努力による格差が生まれはじめました。

また、農村でも積極的に商取引が行われるようになり、なかには高利貸しを行ったりするような、豪農と呼ばれる農家が増えていった。すると近辺の農家とのネットワークが生まれたのです。村落の豪農の間で婚姻が交わされるようになり、通婚圏が広がりました。富裕な階層では子供も増えていくので、婿や嫁の面倒も多くなります。「あの豪農の家に婿に行くなら」「嫁に行くなら」最低限の知識は必要だ――と、教育熱は高まった。主に文化・文政期以降(1800年代前半)の話です。当然、豪農になれば取引のため数字に強くないといけませんし、書物を読む教養も必要になりました。

ただ、上昇志向に支えられた、競争社会はまだごく一部の人のものです。

しかし、明治に入り、都市化が進むと、ホワイトカラーから都市の新興住宅に暮らすようになり、核家族化が進みました。前述したように、夫が外に働きに行くようになり、子供の教育の担い手は専業主婦となった母親1人に集中しました。また、勉強すれば出世できる社会になるとともに、良き妻・母たれという「良妻賢母」教育が広まり、都市に女学校や高等女学校が開校しました。こうして、エリートを育てる「教育ママ」が生まれたのです。

しかしながら、この30年ほどで、日本に大きな変化が起こっています。共働き世帯が当たり前になり、90年代初頭には専業主婦世帯の数を超えました。少子化が進み、性別役割分業をする必要性も減ってきました。もはや女性だけが子育て・教育にかかわる時代ではありません。さらに、経済が発展したことで、エリートを目指さなくても食べていける社会となりました。「教育ママ」が滅びたわけではありませんが、多様な生き方を選ぶことが可能な社会になったといえるでしょう。

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太田素子
和光大学 現代人間学部 心理教育学科 教授
1948年、東京都生まれ。75年お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。湘北短期大学、埼玉県立大学教授などを歴任し、現職。2008年『子宝と子返し−近世農村の家族生活と子育て』で第6回角川財団学芸賞受賞。
 

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(和光大学教授 太田 素子 構成=伊藤達也 写真=iStock.com)