東京を生きる女たちは、もう気がついている。

「素敵な男の隣には、既に女がいる」という事実に。

自分が好きになるくらいの男を、他の目ざとい女たちが見過ごすはずがないのだ。

繭子は商社勤務の洋平と付き合って2年になるが、彼からプロポーズの気配がなく、他の女の影を感じて彼に嘘の予定を告げ、深夜に我を忘れて洋平を待ち伏せる

帰宅した洋平は繭子を優しく宥め、その後ふたりの関係は改善したように思われたが、30歳の誕生日に「まだ結婚は考えられない」とはっきり言われてしまう。

繭子は洋平との別れを考え始め、駆け引きのつもりで「結婚できないなら別れる」と告げたところ、洋平はあっさり「わかった」と引き下がってしまった。




すれ違う心


-私、洋平と別れたの…?

すっかり色を失ってしまった世界から目を背けるように、無気力に目の前のPCを見つめる。

一晩明けても、私はその事実を未だ受け容れられずにいた。

「“わかった”って…。私たち、これで終わりなの?」

引き止めて欲しかった。引き止めてくれると思っていた。それなのに…。

私の問いにも、洋平はただ気まずそうに黙って俯くだけ。

鍋がぐつぐつと煮立つ音だけが響く空間に居た堪れなくなった私は、ソファに置かれたバッグを掴み、逃げるようにして家を飛び出したのだった。

「小柳さん。あのぅ…昨日のメールって、読んでいただけましたか?」

ふいに背後から私を呼ぶ声がして、ゆっくりと振り返る。

筋肉質な体がすぐそばにあり、見上げると、角ばった顔を蒸気させた日高さんが落ち着かない様子で立っていた。

「メール…?」

そう口走ってから、そういえば彼からデートに誘われていたのだった、とようやく思い出す。

「ああ、えっと…映画、でしたっけ?」

-こんな精神状態で、日高さんとデートなんて…絶対無理。

私は、なんて間の悪い男なのだろうかと改めて呆れ、続く言葉を探した。


人生最大の失恋に絶望する繭子。不器用男・日高さんと進展はあるか


痛みを半分にしてくれたのは


「ごめんなさい、私…その…」

働かない頭で断る言い訳を必死で探したが見つからず、途中で面倒になってしまった私は、もうはっきりと言ってしまおうと思った。

視界の隅で、シバユカがちらりとこちらに目を向けたのに気づき、私は声を潜める。

「実は彼と別れたばかりで…ちょっとそういう気になれなくて」

気まずさを誤魔化すためになんとか笑顔を作ったが、それは自分でも不自然に感じるほどわざとらしいものになってしまった。

「そう、でしたか…」

日高さんが、小さく呟く。

その声に答えようとして彼の顔をもう一度見上げ、私はハッとした。

彼の表情が、私の痛みを分け合うかのように苦しそうに歪んでいたのだ。

「それは...辛いですよね。そんな時に変なこと言っちゃって…ごめんなさい、忘れてください」

日高さんに何も非はないのに彼は私に謝り、そしてまるで彼自身が失恋したかのように、見るからに落ち込んだ様子で肩を落としてその場を去って行った。

彼の大きな背中を複雑な思いで見送りながら、しかし私はさっきより、幾らか心が和らいでいることに気がつく。

共に悲しんでくれる人がいれば、痛みは半分になるというのは本当だったんだな、などと私はぼんやり思った。

そのことを、洋平じゃなく、まさか日高さんに気づかされるなんて。




その日の夜は、同僚の優奈と後輩シバユカが「美味しいもつ鍋でも食べよう!」と誘ってくれて、皆で足を延ばし西麻布の『亀吉』を訪れた。

シバユカが前に彼と来て美味しかったから、と教えてくれたのだが、こじんまりとしたアットホームな雰囲気が、初めてなのに妙に居心地がよくて私も珍しくお酒が進む。

洋平と別れたことを二人には話していないが、言わずとも気配で察知しているのだろう。二人してあえてその件には触れない優しさが身にしみる。

「それにしても」とシバユカが唐突に大きな声を出し、私に悪戯っぽい視線を向けた。

「繭子さんってば。日高さんとデートくらいすればいいのに」

「...やっぱり、聞いてたんだ」

私が小さくため息をつくと、シバユカは聞こえたんですよ、と口を尖らせてから思いがけぬ話を始めた。

「日高さんってあんな感じだから上に可愛がられるし、仕事ぶりも真面目で会社から評価されてるみたいですよ。もしかしたら、最年少で課長昇進するかもって噂もあるし」

「え、そうなの!?」

間髪入れず食いつく優奈にシバユカは大きく頷きながら「結婚向きですよねぇ」としみじみ言っている。

「…てゆーか、シバユカはそういう話、一体どこから仕入れてくるの?」

私は半ば呆れて問いかけたが、しかし彼女は平然とこう言ってのけるのだった。

「どこからって…ちゃんと見ていれば普通にわかります。繭子さんと優奈さんは見るからに素敵!っていう男の人にしか興味を示さないから…色々見落としてるんですよ」


結婚したい癖に、結婚向きの男には惹かれない繭子。未だ洋平の残り香から抜け出せない


私たちは、まだ繋がっている…?


恵比寿の自宅に戻った私は、ソファに腰をおろしたが最後、身体中の力が抜けて動けなくなってしまった。

飲みすぎたのもあるが、「私、洋平と別れたんだ」と思い出すたび鉛を飲み込んでしまったかのように胃のあたりが重くなる。

会社にいるときは仕事で、優奈とシバユカと一緒にいるときは賑やかな笑い声で、随分気を紛らわせることができていたのだろう。

たった一人で静まり返った家にいると、息苦しくなるほど押し寄せてくる虚しさ。「絶望」とは、まさに今私を包んでいる感情を言うに違いなかった。

ぼんやり見つめる視線の先、リビングテーブルの上には、洋平がプレゼントしてくれたティファニー T のブレスが置いてある。

去年…29歳のお誕生日に、彼が私に買ってくれたもの。

そう、私と洋平が過ごしてきた2年間は、本当はたくさんの笑顔で溢れていたはずなのだ。




-もうこれで終わりなんて、嫌…

往生際が悪いのは、承知している。それでも私は、後悔することをやめられなかった。

何より感情的になって、「さよなら」も「今までありがとう」も告げずに家を飛び出してきたことが悔やまれる。最後に見た洋平の顔も、最後に見せた私の顔も、苦しく歪んでいたことが。

こんな気まずい別れが最後なんて…嫌だ。

-もう一度、会いたい。

私は無意識に、自分を正当化しようとしていたのかもしれない。

終わりにするなら終わりにするでもいい。だけど、もう一度だけ会いたい。

“もう一度、きちんと話がしたいです”

逡巡する指先を、最後はもうどうにでもなれ!という気持ちで送信ボタンに置いた。

思いがけずすぐに既読になったLINEに私はホッとして、そうしてようやく立ち上がることができた。

-大丈夫。私と洋平は、まだ繋がっている。

コートを脱ぎ、バスタブにお湯を溜めながら、私はそう自分に言い聞かせ、祈るような思いで彼からの返信を待った。

…それが、独りよがりな勘違いであるとも知らずに。

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男と女は、一度すれ違うと簡単には戻れない。繭子と別れた洋平の、その後。