―大好きな吾郎くんが、私と結婚してくれたー

数々の苦難の末に、結婚願望のない男・吾郎との結婚に辿りついた英里。

結婚はゴールでないことなど、百も承知。

しかし、そんな二人を待ち受けていたのは、予想を上回る過酷な現実であった。

愛し合っていたはずの夫婦は、どのようにすれ違い、溝ができてしまったのか。

男女の価値観のズレ、見解の相違、そして、家庭外での誘惑...。

二人は “新婚クライシス”に陥るが、英里はそんな中、「子どもが欲しい」と宣言する。だが夫婦仲はギクシャクしたまま、英里は後輩・新一に心を開き始め、そして吾郎まで後輩の女弁護士・ナオミと意気投合し、険悪な夫婦仲に開き直ってしまう。




-あれは、誰なの...?

美女を乗せたタクシーと、マンションのエントランスの中へと消えていく吾郎を見つめながら、英里は我が家の前で呆然と立ち尽くしていた。

いや、邪推するには早すぎる。吾郎とあの美女は単にタクシーに乗り合わせただけであり、仕事関係の会食や接待の帰りである可能性も高い。

-そうよ。あの吾郎くんに限って、変なことはない...はず...。

そう。吾郎は類稀なる容姿と頭脳に恵まれてはいるが、それが災いし、むしろどちらかというと“女嫌い”である。独身時代から幾度となく衝突はしたものの、女関係に頭を悩まされることは一度たりともなかった。

しかし、だからこそ、彼が若く可愛い女の子と一緒に遅い時間に帰宅するのは、やはり意外なのだ。

慎重で妙に警戒心の強い吾郎がそんな無防備な行動に出るなんて、よっぽど相手を信頼している証拠とも思える。自分を棚にあげるようだが、英里が新一と少し仲良くするのとは、きっと次元が違う。

英里は嫌な胸騒ぎを振り切るように、ゆっくりとマンションへ入っていった。


再び衝突する二人。事態は最悪の展開に...!


「こっち、向いてよ」


「吾郎くん...」

吾郎が振り返ると、英里が玄関にひっそりと立っていた。

寒空の帰宅で冷えたのだろうか。青白く生気のない彼女の顔を目にすると、吾郎は自然と警戒心にスイッチが入り、つい身構えてしまう。

「ねぇ、今、誰かと一緒に帰ってきたの?」

静まり返った部屋の中に、小さくも棘を含む妻の声が響く。

「会社の後輩だ。少し飲んできた」

ナオミと一緒に帰宅したのを見ていたのだろうか。だが、別に後ろめたいことは一つもない。

松田と気まずい状態に陥り、気軽な飲み相手がいなくなってしまった中、たまたまナオミが遅くまでオフィスに残っていたから軽く食事しただけである。にも関わらず、吾郎はおもむろに英里に背を向けてしまった。

一体、いつからだろう。妻と面と向かうのが、これほど億劫になったのは。

いや、億劫とは少し違う。まるで被害者のような表情、自分を責めるような目つき、そして、彼女の求める”理想の家族像”という重みを、吾郎は恐れている。

そしてそれは、“恐れ”から嫌悪感、あるいは鬱陶しさへと変わり、どうしても目を背けたくなるのだ。




「珍しいね、吾郎くんが女の子と一緒にタクシーに...」

「風呂、入ってくる」

-今は、話しても無駄だ。

そう判断している吾郎は、英里の言葉を遮りバスルームへ向かおうとする。

「...こっち、向いてよ」

しかし妻の震える声が、吾郎の足を止めた。

「吾郎くん、ねぇこっち向いてよ。どうして逃げるの?どうして私を避けるの?もう、私なんていない方が楽なの?」

また、始まってしまった。吾郎は言葉でなく深い溜息で意思表示するが、英里はそれを黙認する気はないようだ。

「私、もうこんなの耐えられない。会話もなくてずっとギスギスしたまま、同じ家でお互いに一人暮らししてるみたいじゃない...!」

これ以上、俺を突くのはやめてくれと、吾郎は怒鳴り散らしたいような気持ちに駆られる。女という生き物は、どうしてこう無意味な争いをわざわざ繰り広げようとするのか。

「...世の中の夫婦ほとんどは、そんなものだろう。俺は今のままで構わない。想定の範囲内だ」

「なによ、それ...!」

英里の声はだんだんとボリュームを増し始める。こんな会話はさっさと終わらせてしまいたい。

「結婚して他人同士が一緒に生活すれば、価値観の違いで衝突する。そして、独身の頃より冷めて落ち着いた関係に変わる。最初から分かってたことだ」

いったん口を開くと、吾郎は意外にも饒舌になった。これまで胸の内にくすぶっていた苛立ちが、堰を切ったように押し寄せてくる。

「ついでに言っておくが、結婚式云々はまだしも、俺はまだ子どもは要らない。お前は友だちが羨ましいとか可愛いとか単純に考えてるだろうが、子どもなんて爆弾を抱えるのと同じだ。四六時中面倒見て、振り回されて、自由がなくなる。

いったん生まれたら、この先何年も縛られるんだぞ。俺たちの関係だって、今とは比べ物にならないほど変わる。そういうマイナス面も考えた上で子どもが欲しいと言ってるのか?」

「.........」

「だから、とにかく少し時間をくれ。今はお互い自由に過ごせばいい。それも別に悪くないだろ」

英里は俯いたまま沈黙している。今夜は、これでおしまいだ。吾郎は興奮を収めるべくシャワーに向かったが、背後の妻のセリフに凍りついた。

「...私、本当に限界。もう、吾郎くんとは別れたい...」


英里の衝撃発言に、吾郎のとった行動とは...?!


とことん惚れ込んだ男を、女が拒絶するとき


「もう、吾郎くんとは別れたい...」

とうとう言ってしまったと、英里はどこかぼんやりと自分のセリフを聞いていた。

険悪な関係でも構わない、今のままの、お互い自由な夫婦も悪くない。英里の必死の訴えを冷たくあしらう夫には、悲しみや怒りを通り越し、冷ややかな諦めを感じた。

何よりも、「子どもは要らない」と断言されたのには絶望した。

戸籍上の夫婦である以外に“夫婦らしい”ことは何一つないうえに、コミュニケーションすらままならない自分たちが子どもも望めないなんて、もう本気で耐えられない。

「......お前は、本当に......!」

すると、予想外なことが起こった。

とうとう吾郎が怒りのこもった目でこちらを振り向いたかと思うと、英里の身体を乱暴に抱きしめたのだ。

「......?!」

「もういい加減にしろ...!俺はお前が好きだし、結婚生活も悪くないと思ってた。今まで順調にやってきたのに、それで満足できないのか?子どもだの何だの、俺に無駄な負担をかけるのはやめてくれ」

苛立った口調と同じく、吾郎は荒々しく腕に力を込めながら、強引に唇を近づける。




「やめてよっっ!」

英里はそう叫ぶと同時に、吾郎を思い切り突き飛ばしていた。長年とことん惚れ続けた彼をこんな風に拒絶するのは、初めてのことだ。

「私は、別れたいって言ったのよ...!無駄な負担なんて、夫婦として大切なことなのに、どうしてそんなことが言えるのよ...?馬鹿にしないでよ...!」

吾郎は衝撃でよろめき、少し姿勢を崩したまま、何もない床をじっと見つめていた。

「...わかった」

しばらくすると吾郎は小さく呟き、ベッドルームからボストンバッグを持ち出すと、再び英里の正面に立った。

「俺のことがそんなに嫌なら、しばらく出て行く」

無感情な夫の声。それを聞きながら、英里は小さく身体を震わせ、棒のように立ち尽くし、彼が静かに家を出て行くのを見送ることしかできなかった。

そのままぺたりとリビングに座り込み、一体どのくらい時間が過ぎただろうか。

気づくと窓の外が白み始め、朝の訪れを知らせていた。ずっと起きていたようにも、少しは眠ったようにも思えるが、英里の視線は吾郎の出て行った玄関に固定されたままだ。

そのドアが開き、吾郎がいつもの不機嫌な顔で戻ってくる。

どうして、そんな風に思ったのだろう。それとも、まだ彼に何かを期待しているのだろうか。自分で自分の本心がまったく分からない。

しかし、一つだけ確かなことは、自分がとてもとても弱い人間だということだ。

「ばかみたい」

一人きりの部屋で、英里は声を出して泣いた。

▶NEXT:1月27日 土曜日更新予定
吾郎と英里、ついに別居。平行線の二人の関係修復は不可能なのか...?