デハラさんの人形はかわいいだけの作品ではない(写真:筆者提供)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第22回。

浅草のモグラグギャラリーで開催されていた、デハラユキノリさん(43歳)の新作フィギュア個展に足を運んだ。

個展のタイトルは『THE HOMELESS』。文字通りホームレスのフィギュアが所狭しと並べられている。

デハラさんの人形はかわいいだけの作品ではない。毒の成分も、グロテスクな成分も、風刺の成分も、ふんだんに含まれている。だが、それでもやっぱりかわいいし、眺めていると物欲が刺激されるのがわかる。

実際ほとんどの作品がすでに売約済みであり、人気の高さがうかがえた。デハラさんは会場にいて、お客さんと気さくに話をしている。会場がクローズした後に話を聞いた。

生い立ちは


この連載の一覧はこちら

「幼少期は高知県高知市で育ちました。街からは少し離れていて、そこそこ自然もあって、近くに小さな漁師町がある……そんなところでした」

小さい頃は、兄や兄の友人と虫をとったり、魚を釣ったりして遊んでいた。

家では、同居している祖母が絵を習っているのに付き合って一緒に水彩画を描いていた。モチーフはツバキの一輪挿しなど、子どもにしてはずいぶん渋いものだった。

「子どもの頃は両親が何をしているかよくわからなかったですね。夜中に出かけていったり……。普通の会社員ではない感じでした」

だいぶ後になって、学校の書類に親の職業を書かなければならない機会があり、なんて書けばいいの? と尋ねると

「うーん……。とりあえず金融関係って書いておきなさい」

と言われた。どうやら消費者金融的なもので生計を立てていたらしいと大人になってわかった。

小学校3年からは少し都市部のマンションに引っ越した。

「『マンションに住むんだ!』って驚きましたね。あと『信号がある!』 って。それまで住んでた町には信号ありませんでしたから」

小学校時代は、大声出したり、友達にキックをしたりと、少し変わった生徒だった。

「みんなに見てもらいたかったんでしょうね。友達はいましたけど、まあ嫌われていたと思います(笑)」

図工は得意だった


小学校の頃から図工は得意で、粘土を触った感覚を今でも覚えている(写真:筆者提供)

小学校の頃から図工は得意だった。授業で粘土を触った感覚を今も覚えている。

図工の先生も慕っていた。初老の先生だった。ある日、図工室に呼び出された。通学中によその学校の女の子にいたずらで水をかけたのがバレたのだ。そんなイジワルをしたのも、今思えば注目されたいがゆえの行動だったと思う。

「薄暗い図工室で先生が『お前がやったのか?』ってドスの利いた声で聞いてきたので、言い訳しようとしたら、そのスキもなく問答無用で払腰でバン!って投げ倒されました。柔道の技を食らったのは人生で初めてで、泡を食ってしまいましたね。それからも図工は好きでしたけど、しばらくは警戒していました(笑)」

小学校高学年になってくるとちょっと勉強ができるようになって、中高一貫の進学校に入学。しかし、すぐに授業についていけなくなる。

「中1ですぐに落ちこぼれました。でも中高一貫なんでこれが6年続くんですよね」

当時はバスケ部と生徒会に入っていた。友達や先輩後輩が増えて学校自体は楽しかったが、ただただ勉強ができなかった。

「どうせ良い大学行けないんだったら好きなことしよう」と、高校2年から美術大学を目指すことにした。美術系の予備校に通って受験をし、大阪芸大に合格した。


大学ではグラフィックデザインを専攻した(写真:筆者提供)

専攻はグラフィックデザイン。その響きから、絵を描けるコースだと思っていたが、実際にはタイポグラフィ(文字書き)を何時間もかけて描いたり、提出課題も写真に文字を配置してポスターとして完成させたりするようなものが多く、デハラさんが思っていたような好きな絵を存分に描ける授業はなかった。

「学校の課題で自由な絵が描けないなら、授業以外で描こうと思いました。大学2年の時に先輩に誘われて、初めてグループ展(4人展)に参加しました」

そして同級生のお父さんが初日に1万円で作品を買ってくれた。

学生が展覧会をする時、作品を販売しない人も多い。このグループ展でも「売り物じゃないんで」と断った参加者もいた。

「『絵って売れるんだ!』って素直に嬉しかったですね。制作した作品には対価をもらえるんだと知りました。売る作品の数が増えればプロになれるんだとリアルに感じた瞬間でした」

初めての個展では、たくさん撮った自分の顔写真を拡大コピーして、その上から色を塗り別人の顔にした。そんな作品を壁一面にズラッと並べた。同一テーマの作品を並べて展示するというスタイルは、現在の個展の手法に通じている。

大阪のクラブ(ディスコ形態のクラブ)のイベントに参加して、店内に飾る絵を描いたりもした。店のオーナーが絵を気に入って購入してくれることになり、大学の先生に相談して値段を決めた。

「大学ではクラスメイトとあまり仲良くなれませんでしたね。あいさつが返って来ない地味目の子たちと大阪出身のイケイケの子、そのどちらにも属せないでいました。美大特有の『プライドは高いけど絵は描かずに飲むと大きなことを言う』みたいなヤツも多かったです」

大学途中でグラフィックコースをやめ、マーケティングコースに入った。授業は絵を描くよりも広告や商品開発の内容に変わった。

イラストレーターになりたいという気持ちもあったが、すぐには無理だろうと感じて就職活動をはじめた。

「当時『わさビーフ』っていうお菓子が大好きだったんですよ。それで『自分の絵が入ったパッケージを作りたい!』 って思って、わさビーフを作っている山芳製菓をはじめ、カルビーや湖池屋など菓子メーカーの入社試験を受けました」

面接では、「 わさビーフのパッケージを作りたいです!」と訴えたが「デザインは外注してます」と言われてあっさりあきらめた。

結局、京都のデザイン会社に就職した。パッケージの部署に配置されたので、はからずもお菓子のパッケージをデザインするという夢は少し叶った(ただし和菓子だった)。

会社はデザイン事務所だが、営業職の数が多く、大多数の社員はスーツで出勤していた。会社に行くと朝礼で営業的な話を聞かされた。いかにもな感じのゴルフ焼けした営業部長が「タイガー・ウッズを目指せ!!」などと、全然ピンとこない激励をしてくる。

私服でポロシャツを着ていくと裾をズボンの中に入れろと怒られた。

「会社の寮から会社に行く時、毎日お腹が痛くなってました。1年ちょっとでしたけど続けられたのは、各部署で働く人たちを観察対象として見ていたからかも知れません。やっぱり総務には可愛い子がいるとか、系列の印刷所のおじさんは怖いとか。今まで会社員の仕事と生活を見ることなんてなかったから、そこだけは興味がありました」

紙粘土で作ってみたら面白い作品になった


会社にいる時に立体の作品を作り始めました(写真:筆者提供)

会社にいる時に、立体の作品に取り組んだ。粘土作品は高校の時にも作っていたが、今まで人には見せてなかった。

会社が休みの土日に、怖い顔をした同級生の顔を描こうと思ったのだが、描き始めると、

「これは立体で作ったほうが良くなるかも?」

と思いついた。実際に紙粘土で作ってみたらとても悪い顔で面白い作品になった。

それに紙粘土を指でこねる感覚はとても良い。小学校の時の図工の授業で粘土を触ったのを思い出す。

「粘土は触っているだけで、脳に快感物質が出てるんじゃないかと思いますね」

その後、会社の中でカレンダーを製作する企画にデハラさんが選ばれ、毎日一匹立体の人形が出るレイアウトをした。

「かわいいし、使い勝手も良いし、立体は使いやすいと思いましたね。将来フリーランスになった時も、立体造形でいけるかも……とボンヤリと思いました」

しかしつくづくサラリーマンは向いていないなと思った。よく二日酔いで遅刻していた。

「俺、会社辞めるから」と言いつつズルズルと辞めない先輩たちを尻目に、入社後1年3カ月で退職願を提出して退社した。

ちょうどボーナス貰った直後だったので、白い目で見られた。フリーランスとしては東京で仕事をするつもりだったが、いったん地元高知県の実家に帰った。売り込み用の作品ファイルを作るつもりだったが、ついつい就職をしてないダメな友達と会ってダラダラ酒を飲んでしまう。

「飲みすぎて2人で実家のじゅうたんにオシッコもらしたこともありました。親は『コイツはいつになったら東京に行くんだ?』って呆れてました」

結局、作品ファイルは完成しなかったが、とりあえず上京した。1998年の夏だった。とりあえず何のコネクションもないので、雑誌社に電話をして持ち込んだり、異業種交流会があると聞いて参加したりした。イラストレーターの個展にも顔を出した。その過程で、バイトをしながら絵を描いている人たちにたくさん会った。中には10年、15年とバイトを続けている人もいた。

「売れてない人の作品も良いんですよね。良いだけに悲壮感を感じました。良い絵を描くからって売れるわけじゃないんだと思って……。なのでバイトしながらコツコツ持ち込みをするというのは難しいと思いました」

だったら一気に食えるようになるしかない。

2年でプロになると決意


立体は珍しいので興味をもってもらえた(写真:筆者提供)

2年でプロになると決めた。

「イラストを持ち込むと編集さんがパラパラっと見て好き勝って言って追い返されることが多いんですよ。編集さんも仕事がら、2次元の絵は見慣れてますから。でも立体は珍しいので興味をもって話をしてもらえることが多かったですね」

編集者からは「これってそもそもなんの素材できてるの? どうやって作るの?」と聞かれることが多く、中には紙面では使えないけど、個人的に欲しいから売ってと言われることもあった。

「そうやって興味を持って話してもらえると、たとえ断られても傷つかないので助かりますよね」

立体作品の場合、掲載が決まるとカメラマンに写真を撮ってもらうことになる。社内カメラマンに

「これニスのツヤが邪魔だなあ、どうにかならないの? 普通立体はマットでしょ!」

と不満を言われたこともあった。

「テカりわざとです! なんとかして下さい!」

とお願いした。

「怒られたけど、実際に印刷物になってしまうと別におかしくなかったですね。そして掲載された本を持ってまた持ち込みに行って、仕事をつなげていきました」

上京した年のうちには食えるまでにはいかなかったが、ポツポツと仕事をもらえた。

ただ出版社からの受注仕事の場合、未来の保証はない。今月たくさん仕事が来たからといって、来月も仕事が来るとは限らない。仕事が来ないと“売れてない感”が出てしまう。この“売れてない感”が精神的に一番良くない。自分自身を追い込んでしまう。

「売り込みに行って家で電話を待っているのって、すごい“待ち”の姿勢ですよね。持ち込みのために何か作ろうと思っても、〆切がないのでなかなかやる気も起きない。だから個展をすることにしました。開催日が決まってしまえば作らざるをえないですからね」

東京に来た年に、早くも1回目の個展を開いた。ギャラリーにはお客さんが来てくれて、作品も売れた。

「作品が売れるということは、作品は悪くないということですよね。たとえメディア(媒体)の仕事が来なくてもしょげる必要はない。個展はどんどんやったほうがいいな、と思いました」

メディアでの仕事と個展どちらも続けていると、相乗効果が働いた。

仕事先の人が個展に来てくれた時に作品がたくさん売れているのを見ると「人気があるんだな」と思って、新たに仕事をくれた。

またギャラリーで作品を買ってくれていたお客さんが「雑誌でも見たよ!! がんばってるね!!」と言って新たな作品を買ってくれたりした。

そうして2年間仕事を続けていると、ナイキの広告の仕事が来た。大手の仕事は、新たな仕事を呼んだし、ギャラも上がった。

はたして「2年間でプロになる」という目標は叶った。

仕事は4本柱へと変化した


ソフビ人形の製作販売が3つ目の柱だ(写真:筆者提供)

その後、20年近く同じスタンスで続けているが、最近ではメディアの仕事と個展の2本柱から、4本柱に変化したという。

「ソフビ人形の製作販売が3つ目柱、そして地元高知での仕事が4つ目の柱ですね」

ソフビ人形とは、ソフトビニール製の人形だ。子ども向けの怪獣やヒーローものの人形などが多い。ソフビ人形を作るには、人形の金型を作らなければならないので最低でも40万〜50万円はかかる。人形を製作して100〜200個売ってやっと元が取れる商売だ。

「もともとは広告などでまとまったおカネが入った時に、自分へのご褒美的な感覚で作ったのが始まりでした。それほど売れなくても、趣味で作っていたのですが、ここに来て火がついたように売れ始めました」

デハラさんのソフビ人形は現在アジアを中心に勢いよく売れている。

売れ始めたきっかけの一つは、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の“インスタグラム”の影響だという。ソフビ人形を旅先などで写り込ませて、観光写真を撮るのが流行っているのだ。

「ファンの人はカラーリング違いの商品を全部揃えてくれたりします。よく売れてますね。売れていると日本の転売屋の人たちも来て買っていくので、ますます売れます。ただ、今の売れ方はただの流行りだと思うので、そのうち収まるんだろうなとは思っています」

そして4本目の柱、地元高知での仕事だ。

「地元で友達と飲んでいると『あ、あそこで飲んでるのどこどこの社長だから紹介するわ』とか言われるんですよ」

「どもども」と挨拶をすると社長もデハラさんのことは知っている。

「あの人形作ってる奴やろ。気持ち悪いなあ」

などと冗談交じりに言われる。「そうです、仕事ないですか?」と聞くと「ないし」と断られるが、それでも同席して一緒にたくさんお酒を飲んでいると、最後の方には

「ええわ、楽しいから仕事考えよう」

と、仕事になる場合が多いという。

「僕はお酒の場が好きなので、お酒飲んでて仕事が取れるのはいいなと思います。ただ相手が酔っ払って約束を忘れちゃって『そうだっけ?』と言われることも多くて『もう酔っ払い!』ってなる場合もあります(笑)」

逆にデハラさんがお酒を飲みすぎて後から後悔することも多々あるという。

「なんで一杯おごってもらっただけでこんな面倒な仕事を引き受けたんだ〜!! なんてことはしょっちゅうありますよ」

高知ではさまざまな仕事を受けている

ただそれでも高知の仕事は楽だという。


「4本柱で仕事をしているとまあまあ忙しい」(写真:筆者提供)

高知の仕事はチェックする人間が社長と会社のデザイナーぐらいな場合が多い。そのためやり直しになるケースが少ないので、ストレスがたまらない。クリエイターにとって、やり直しの作業は何より心を疲労させる。

高知では、焼肉屋の名刺から、地方銀行のノベルティ製作、デハラさんがパーソナリティとして出演するレギュラーラジオ番組など、さまざまな仕事を受けている。

「4本柱で仕事をしているとまあまあ忙しいですね。どれかの売り上げが下がったとしても、全体としての影響は少ない。心がひねくれなくてすむんです(笑)。出版不況で出版の仕事が減るとか、流行に乗っていないから広告の仕事が来ないとか、それって実際僕らには関係ないことじゃないですか。そんな関係ないことで仕事が減っているのについ『自分はダメだ……』って思ってしまいがちですよね。それは嫌なんです。だから複数の柱を立てて仕事をするのが良いんですよね、自分には」

去年と今年は忙しすぎて、旅行中どこに向かおうとしているかわからなくなって飛行機に乗り遅れることが何度かあったという。

ただ、生活のリズムは昔に比べて、とても健康的になっているという。

「昔は昼まで寝てたんですが、10年前に結婚して6年前に子供が生まれて以来、朝起きるようになりましたね。子供は生き物としてとても面白い。今までペットを飼ったことすらなかったですから新鮮です」

デハラさんのお話をうかがって、氏は自分の心を腐らせない達人だな、と感じた。フリーランスは実力を高めることも大事だが、不安やプレッシャーに心を傷めないようにするのも大事だ。

デハラさんは、「今後も流れるままに仕事をやっていこうと思う」と語った。これから氏がどんな作品を作り上げていくのか、とても楽しみだ。