宮下洋一『安楽死を遂げるまで』(小学館)

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「安楽死」の殺人罪で起訴され、最高裁まで闘った医師がいる。事件が起きたのは1999年。須田セツ子医師は2002年に起訴され、2009年12月に最高裁で有罪が確定した。「植物状態」の患者に筋弛緩剤を投与した須田医師の行為は、本当に殺人だったのか。ジャーナリストの宮下洋一氏が問う――。(第2回)

※本稿は、宮下洋一『安楽死を遂げるまで』(小学館)の第6章「殺人医師と呼ばれた者たち」を再編集したものです。

■週刊誌は「殺人医師」と書き立てた

組織力に定評があるはずの日本では、漏洩や内部告発が多発する。欧米では、意外と少ない。そこには、職場で積極的な発言をしづらい、日本特有の国民性が関係していることもあろう。溜まった鬱憤が、何らかの拍子で外部に放出されてしまう。これも集団の特性なのか。

リーク情報を受け、朝日、産経、日経の三紙は、「安楽死事件」と名付け、毎日と東京の二紙は「筋弛緩剤投与事件」に留めた。読売は、前者から後者へと定義付けを変更した。週刊誌も「殺人医師」と書き立てた。こうした報道も、国民に誤解を与えたことだろう。

2002年12月26日、横浜地検は殺人罪で起訴した。翌03年の3月27日から、横浜地裁で公判が始まった。最終的に「呼吸筋弛緩に基づく窒息により死亡させて殺害した」として、須田に懲役3年執行猶予5年の有罪判決を言い渡した。

第一審では、須田が臨死期の土井の気管内チューブを外し、想定外の反応を見せたため鎮静剤を打ち、最後に彼女自身が筋弛緩剤を点滴から投与したという事実経過が重要視されなかった。いや、須田も自ら主張しなかった。

当時の弁護士が、須田に口を酸っぱくして言ったからだ。

「被告人なのだから神妙にしていてください。公の前で笑顔を見せたりしないように」

■須田医師が患者の妻と交わした会話

須田は、患者遺族の証言にも矛盾があったと指摘する。

彼女によれば、土井を安らかに眠らせるため、家族とは事前に相談済みだったという。それは、気管内チューブ抜管の承諾だった。だが、裁判官は、当時、須田が家族に「九分九厘、植物状態」と伝えたことに対し、「衝撃的で不正確な説明」「配慮に欠ける対応をして家族らとの意思疎通を欠いた」と押し切った。

実際はどうだったのか。患者が息を引き取る前の午後、須田が土井の妻と交わした会話を、著書をもとに再現しよう。

「この管を外してほしいんです」
「えっ? これを抜いたら呼吸できなくて生きていけませんよ」
「わかっています」
「早ければ数分で最後になることもあるんです。奥様一人で決められることではないんですよ。みなさん了解してらっしゃるんですか?」
「みんなで考えたことです」

これらを録音していたわけではないため、証拠にはなり得ない。だが、裁判で土井の妻は、この時間帯に病院には行っていないと言い張った。そして抜管は、医師の独断によるものだったという判断が下された。

■経験の浅い看護師の証言が採用された

さらに、須田にとどめを刺したのが現場に居合わせた一人の看護師の証言だった。経験の浅い、その看護師は、筋弛緩剤は自分が静脈に注射し、それを指示したのが主治医の須田だったと供述した。ミオブロックの量も、即死に至る3アンプルで、須田が認識する1アンプルの3倍だった。須田のカルテと看護師の看護記録でも、その食い違いは見られた。須田は、ため息まじりの声を漏らして語った。

「なんで看護師が注射するんですか? 事実と違う。だから私は、最高裁まで争ったんです。そんなことをしたら、本当に殺人なんですよ。彼女が言うようにやったら、それは即死ですからね。医療現場で筋弛緩剤を3本も使うなんて、誰も信じないと思っていたんですけれど、彼女がきっちりと言って。それを他の先生方が曖昧な返事でそうだったと思うとか、そう書いてあったと思うなんて言ったので、事実が歪められてしまったんです」

一審の横浜地裁では、妻の発言に加え、看護師の証言も採用された。しかし、2005年3月からの控訴審の東京裁判では、看護師の証言は変わらず採用されたが、家族側の証言を証拠不十分で取り下げ、求刑も3年から1年に減刑された。

■2009年12月、最高裁の判決通知

また、看護師の態度が一変し、涙ぐんで証言をする場面もあったと、須田は振り返る。

「一審の時、彼女が私と話をしたいって言ってくれたんです。私は喜んでというところだったのに、弁護士に止められたんです。控訴審に出てきた時は、一審の時とは全然喋り方が違ったので、思うところがあったんでしょうね」

2007年3月、須田は、控訴審判決に対する不服申し立てで上告した。最高裁は事実関係を争う事実審でなく、法令違反の有無を判断する法律審である。「患者の自己決定権」や「医師の治療義務の限界」が主に審議されたが、須田を納得させる議論には、ほど遠かった。

2009年12月、最高裁の判決通知は、「延命治療の中止を行ったことは法律上許されず、殺人罪に該当する」だった。その決め手となったのは、「患者の死期(余命)を判断するための脳波等の検査がなかった」ことが一点。もう一点は、「延命治療の中止は、昏睡状態にあった患者の回復を諦めた家族からの要請によるが、その要請は余命を伝えた上でなされたものでなく、患者の推定的意思に基づかない」という結論だった。

後者に関しては、私も頷かざるを得ない。だが、須田は、安楽死ではなく、延命措置の中止との認識だった。「余命を伝えていない」「本人の意思を確認していない」ことが同じく問題となった京北病院の山中とは、前提条件が違う。彼女が独断で投与を決めていない点も差し引く必要があるように思えた。もちろん、彼女の話を全面的に信じればの話である。

こうして、6年9カ月に亘る公判は幕を閉じた。皮肉にも、土井が他界した直後、医療現場にはぜんそくの特効薬となる吸引ステロイドの新薬が導入された。これにより、ぜんそくの歴史が変わった。「あと少し早ければ、この事件も起きなかった」と、須田は苦笑いした。

■遺族の証言

2週間後、私は、土井の子供の一人が働く職場を訪ねた。

入り口の扉を開けると、小柄な男性がこちらに向かってくるのが見えた。私の前で足をぴたりと止めたのは、土井秀夫(仮名)だった。訪問意図を簡単に説明すると、彼は言った。

「あ、親父の話? あれはもう思い出したくないんだよ」

だが、無理やり追い払う気配はなかった。

その場を立ち去らない私を横目に、彼は、父・孝雄の死後について、渋々と話を始めた。

「絶対に書くな」と彼は言ったが、私は書くことにした。その理由は、須田や遺族を咎めるためではなく、むしろ本来は当事者なのに、第三者であるかのような対応をした病院の内実を示したいと思ったからだ。

「だからさ、あれが起きてから、俺はもう家族とは疎遠だよ。一切、口もきいてねえし、会ってもいねえよ。すぐそこに住んではいるんだけどね。俺は、あの時、仕事が忙しかったんだけど、急に病院に呼び出されてね。そりゃ、何が起きたのかまったく分かんなかったよ。俺は、お袋たちやきょうだいから、なんも聞かされていなかったから……」

■事件化されたことで家族関係に亀裂が

秀夫は、両腕を組み、威圧感を漂わせる口ぶりで、私にそう言った。父が死に至った過程を、息子は一切知らされていなかった。そうした父の死に対する疑念は、4年後、事件化されたことで家族への不信に変わり、家族関係に亀裂を走らせた。

「向こう(疎遠な家族)は、須田先生とは何度も話し合いをしてきたみたいなんですよ。だからなんかあったんだろうなぁ。それで、俺が病院に駆けつけたら、急に管かなんかが外されて、注射を打たれて親父が死んじまってね。何が起こったのか、俺にはまったく分かんなかったんだよ。なんかおかしくねえかって、ずっとあの後も思っていたんだよ。何でこんな死に方をしたんだってさ。俺は、親父が意識がなくても、ちゃんと看病して家で介護するつもりだったんだよ。それがあんなふうに死んじまってさ……」

父親を介護するつもりだったと秀夫は言う。一方で、反対の考えが、彼の母親にあったことは、須田も語っていた。以下、著書の中にある母親の言葉だ。

〈私たちは家族で仕事をしていて、ひとり欠けても大変で、何の保障もありません。私も体が弱くて、ひとりで主人を看護する自信はありません。息子の嫁たちも小さな子供がいて、手伝いをしてもらうのは無理です。かといって、施設に入れるといっても、経済的な余裕もありません〉

■病院側は金銭の補償もちらつかせた

こちらが黙って耳をそば立てていると、土井の息子は、口数を増やしていった。

「数年後、突然、うちに病院の関係者が4人来たんだよ。あの件について、どうか伏せていてくれとね。で、金も持ってきたんだけど、俺は『金なんかいらねえんだよ、俺が欲しいのは親父の命なんだよ』ってね。ぶん殴ってやろうかと思いましたよ。それで、俺はこんなだから、口悪いし、短気だからさ、黙ってねえんだよ。あいつらに俺は『あれって安楽死じゃねぇのか』って言ったんだよ。俺は起こったことをそのまま言うぞって言ったら、あいつら自身が病院で会見したんだよ」

前段にマスコミへのリークがあり、病院側は慌てて足を運んだのだろう。病院側は、金銭の補償もちらつかせたという。秀夫は、その行動こそ、父の死を軽視していると捉えた。

2002年4月19日、院長らが、記者会見を行い、「安楽死(が行われるため)の要件は満たしていない」と発表し、謝罪した。医師の行為に問題があったことを病院自ら認めたのだ。

組織防衛を選んだ病院は、須田を見捨てた。責任の矛先は須田一人に向かうことになる。

秀夫は、他の従業員が中に入ってくると、話を打ち切った。

「今日はたまたま従業員がいないからこんなこと話せたけど、もしいたら、あんたを押し倒してでも追い払っていたからな。次はもうないと思ってくれ。来ても話はしねえからな」

一家の大黒柱だった父親を失った彼の思いは、十分に伝わってきた。そして思う。川崎協同病院事件は、本当に安楽死事件として、扱われるべきものだったのか。

■「須田がしたことは殺人ではない」

須田もまた東海大学事件と似た経過をたどった。今は、大倉山で地元住民相手のクリニックを営む。それはそれで、快活な須田の天職に思えるが、一方で、人の命を預かる医師たちの立場の弱さを感じる。組織は守ってくれない。そして、この国では法律も守ってくれない。

須田はこんなことを最後に言った。

「司法は、死を他人が導いてはいけない、と判断しました。自分で決める死と他人が決める死には、明確な線が引かれるべきだ、と。でも私は、必ずしもそうは思わない。自分のことを一番よく分かってくれている人を側において死ぬことは理想だと思うんです。自分でない他人にすべてを委ねられるって、最高に幸せじゃないですか」

「自分で決める死」を「個人の死」と言い換えてみる。欧米と違い、日本では、「個人」が「家族」という土台の上に存在している。須田の言う「他人」が家族を指す場合、個人とも連なっていることになる。これらを司法で明確に分けることは困難だろう。

日本では、死の議論が未成熟な上、なおかつ「終末期の判断」を医師任せにしている。だから最終的に、家族や医師の間で摩擦を引き起こす。そして訴訟になれば、医師側は無罪を勝ち取れない。これこそ、日本の現状であると思う。

私なりの最終的な答えは出た。須田がしたことは殺人ではない。

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宮下洋一(みやした・よういち)
ジャーナリスト
1976年、長野県生まれ。18歳で単身アメリカに渡り、ウエスト・バージニア州立大学外国語学部を卒業。その後、スペイン・バルセロナ大学大学院で国際論修士、同大学院コロンビア・ジャーナリズム・スクールで、ジャーナリズム修士。フランス語、スペイン語、英語、ポルトガル語、カタラン語を話す。フランスやスペインを拠点としながら世界各地を取材。主な著書に、小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞した『卵子探しています 世界の不妊・生殖医療現場を訪ねて』など。

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(ジャーナリスト 宮下 洋一 写真提供・編集協力=小学館)