大倉山診療所の院長を務める須田セツ子医師

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「安楽死」の殺人罪で起訴され、最高裁まで闘った医師がいる。事件が起きたのは1999年。須田セツ子医師は2002年に起訴され、2009年12月に最高裁で有罪が確定した。須田医師の行為は本当に殺人だったのか。ジャーナリストの宮下洋一氏が問う――。(第1回)

※本稿は、宮下洋一『安楽死を遂げるまで』(小学館)の第6章「殺人医師と呼ばれた者たち」を再編集したものです。

■「私がしたことは殺人ですか」

「安楽死とか何とか言われても、私はそういう認識ではないので。ご家族の判断だったり、本人がその日に言った言葉だったり、いろいろ違う。だから、あんまり杓子定規にここから安楽死、ここから尊厳死というわけにはいかない。線で切れるようなことではないんです」

横浜市にある大倉山診療所の院長を務める須田セツ子(62)は、「安楽死」という言葉に、まるでアレルギー反応を示すかのように、やるせない表情を浮かべた。この問題を日本人医師にふると、多くは曖昧な表現で言葉を濁す。だが、彼女はそうではない。私は、物事を率直に言う日本人が意外と好きだ。もはや恐れるものなど彼女にはない、とでもいうべきか。

日本の医療界において、安楽死の殺人罪で起訴され、唯一、最高裁まで闘った医師は、彼女一人だった。ヨーロッパから帰国中のある夜、私は、須田の著書を一気に読んだ。読む時は、欧米との体験比較になる。タイトルはこうだ。『私がしたことは殺人ですか?』(2010年、青志社)。調査を重ね、その質問の最終的な答えを、私なりに見つけたいと思った。

安楽死容認国で、この手の医療措置は、事件に発展することがまずない。オランダで取材した「死ぬ権利協会世界連合」のロブ・ヨンキエールが「私は安楽死をさせても報告してこなかったが、検察はそのことを知っていた」と、話していたのを思い出す。

日本では、患者本人の意思の有無にかかわらず、終末期の患者を積極的に死に導いた場合、民事訴訟だけでなく、刑事訴訟に発展し、医業停止命令を受ける可能性がある。

■「植物状態」の患者に筋弛緩剤を投与

なぜこの国では、こんな事態に発展するのか。その背景には、日本独特の慣習や法律が根差している。当時、呼吸器内科部長を務めていた須田セツ子本人の口から、それらが実際の医療現場の常識と、どう乖離しているのかを探りたかった。

1998年11月16日、事件は、神奈川県川崎市にある川崎協同病院の南病棟228号室で起きた。気管支ぜんそくに罹患していた当時58歳の男性患者、土井孝雄(仮名)が、鎮静剤の後、筋弛緩剤「ミオブロック」を投与され、息を引き取った。その時、主治医だった呼吸器内科のベテラン部長の須田が、「4年後」の2002年12月、殺人罪で起訴された。

工務店を営んでいた型枠大工の土井は、1984年から川崎公害病患者に認定されていた。京浜工業地帯の中心を担う同市では、多くの健康被害が認められている。その4年前から同病院に勤めていた須田は、外来主治医として、この患者をよく知っていた。普段は無口だった彼が、須田に会うと、時々、言う口癖があった。

「自分はこの仕事をずっとやってきた。この仕事が大事なんです」

空気の澄んだ他の地域で生活するという選択もあったはずだが、彼はこの地に留まった。14年間、通院を続けた土井は、何よりも仕事を優先した。体を休める週末になると病状が悪化する患者が多いといわれるが、彼もその一人で、ある日曜日に体調が優れなかった。

■「安楽死という認識はない」

翌日の月曜午前、仕事中にぜんそくが悪化した。午後には、重積発作(呼吸困難が継続)を起こし、心肺停止状態となって病院に運び込まれた。心肺蘇生が行われたが、低酸素血症で大脳と脳幹に障害が残り、昏睡状態に陥った。以後、痰を吸引するための気管内チューブを装着された土井は、植物状態だった。

事件当日午後、土井の容態が急変。駆けつけた家族11人が見守る中、須田は、既に相談を受けていた延命措置の中止のため、気管内チューブを抜いた。

しかし、患者が上体をのけぞらせてもがき出すという想定外の反応を見せたため、鎮静剤「ドルミカム」3アンプルを静脈注射した。その後も苦悶が収まらず、同僚医師の助言により筋弛緩剤「ミオブロック」投与を決定した。須田本人が1アンプルを生理食塩水点滴バッグに溶かし、点滴を開始した数分後に土井の呼吸が止まった。

須田は、これらの行為に関して、「鎮静剤使用の延長線上の処置」と語った。後の公判では「安楽死という認識はない」ことを主張している。

彼女はまず(1)気管内チューブを抜き、鎮静剤を投与し、そして(2)筋弛緩剤を投与した。(1)は、消極的安楽死や緩和ケアに該当し、終末期医療で一般的に行われる行為だ。(1)(2)の連続性の上で土井は絶命したのであって、(2)だけをもって、違反行為(積極的安楽死)と見なされることに関して異議を唱えたのである。筋弛緩剤使用に関しても、呼吸筋を弛緩させ、苦しげな表情と喉の力を抜いてあげようと思ったのだと語る。

■なぜ最高裁まで争ったか

2016年11月25日、東急東横線大倉山駅から徒歩約10分の住宅地の中にある大倉山診療所へ向かった。自転車で子供を乗せてくる母親や、マスクを着けた学生服姿の高校生、そして老人たちが次々と診療所に出入りして、待合室は患者で溢れていた。

「あ、こちらへどうぞ」

受付の係員に声をかけられた後、須田が私を呼んだ。白衣を着た華奢な女性は、そのままそそくさと診察室に消え、私はその後を追った。中は、ごく普通の診察室で、患者の診察ベッドと医師の机が置かれ、仕切りの向こう側には、看護師たちが、カルテを持って話し合っている様子が窺えた。須田は、オフィスチェアに腰掛け、早口で話し始めた。

「なんかバタバタしていて、ごめんなさいね。メールも返さずになんだか……」

この患者の数を見るだけで、彼女が多忙なのは判断できる。私の取材時間は限られているだろう。ただし、少なくとも、事件の本質的な部分についてだけは、知っておきたかった。

■どこで止めたら延命治療の中止になるのか

川崎協同病院事件のお話なんですが……。須田は、私の質問を最後まで聞かず、早口で返答した。仕事が忙しいからなのか、彼女の性格がそうなのか。私は、むしろ後者であると推測した。質問は遮るが、言いたいことは、とことん言う。それが須田セツ子だと思った。

彼女は、「安楽死の認識はない」と断言した上で、治療中止の曖昧さについて語り始めた。

「心肺停止で運ばれてきた患者を心臓マッサージや吸引をさせたりして蘇生を試みるけれど、それだって10分やる人と1時間やる人がいます。どこまで続けるか、手を離した瞬間が死亡時刻になってしまうんです。どこまでやるか、どこで止めたら延命治療の中止になるのか。定義というのは、バラバラなんですよ」

私の祖母が交通事故に遭った時、集中治療室では、心肺蘇生が行われていた。なぜか、駆けつけた身内全員を強引に治療室に入れ、血まみれの祖母のマッサージを無理やり見せつけられた。その後、医師が「もういいですかね?」と言って、蘇生を止め、呼吸器を外した。この一連のやり取りの意味が、今の私には理解できる気がする。

■いかに早く患者を穏やかな表情にしてあげられるか

須田の話を聞いている最中、スイスのプライシックの顔が、突然、浮かんできた。お互いに年齢も近く、同じ女医である。スイスの女医は、末期患者やそうでない患者に対しても、自死を幇助し、私に仕事の意義を堂々と語る。それに対し、須田は、一人の末期患者を楽にしようと、筋弛緩剤を使用したことで「殺人者」となり、時々慎重な言い回しになる。

日本では筋弛緩剤は、手術の麻酔時に気管内挿管を行う際などに、筋肉を緩めるために使用される。従って、それを用いたことで患者が死亡した場合、安楽死が疑われてしまう。京北病院事件でも、筋弛緩剤が使われ、末期患者が死亡した。山中も、「いかに早く患者を穏やかな表情にしてあげられるか」を考え、患者に投与している。

須田は、次の内容をさらりと吐き、殺害の意図などなかったことを主張した。

「宮下さんが見てこられた安楽死、お薬を使ったり注射したりしてストンというようなね、そんなのは日本ではまずはあり得ないでしょう」

確かに、私が見てきた安楽死の薬は、それをコップに入れて飲むか、点滴の中に投与すれば、すぐに死に至る。目の前にいた私は、その即効性に圧倒された。まさに「あっという間」に、末期でない患者もコロリと逝くのだった。

■やれることはすべてやるというのが医療者

須田は、土井に投与した薬が、直接の死因ではないと言いたいのだ。実際、安楽死を意図していたのであれば、鎮静剤さえ投与する必要はなかった。時系列を整理するだけで、須田が、患者の命を尊重していたことが分かる。彼女の著書に次のような記述がある。

〈もうじき亡くなるとわかっていながら、患者さんに酸素を与えたり、痰を取り除いてあげたりする。最後の最後まで、やれることはすべてやるというのが医療者なのです。どうせ死ぬのだからそんなことする必要はないじゃないか、というようには考えないのです〉

私に質問の隙を与えず、須田は意見を述べ続けた。

「それはまぁ、薬を使ってストンと逝かせるのは殺人だと思うんです。でもたとえば、鎮静剤を打って、薬が効いていったら息が止まった。それが思わぬ早さだった、ということで殺人になるかというと、それはならないと思います。麻酔なんかもそうで、入れすぎて呼吸が止まることもあります。でも、これは普通、法的には殺人罪にはならないんです」

筋弛緩剤がなければ、彼女は逮捕されることも起訴されることもなかったに違いない。苦痛を和らげ、延命治療中止の延長線上の処置を行い、土井は永眠した。

家族は、須田に「お世話になりました」と挨拶をし、この件は終わったはずだった。だが、4年という年月を経て、この出来事は事件化した。それは、病院内部の事情に詳しい、ある医師がマスコミにリークしたことが発端だった。(つづく)

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宮下洋一(みやした・よういち)
ジャーナリスト
1976年、長野県生まれ。18歳で単身アメリカに渡り、ウエスト・バージニア州立大学外国語学部を卒業。その後、スペイン・バルセロナ大学大学院で国際論修士、同大学院コロンビア・ジャーナリズム・スクールで、ジャーナリズム修士。フランス語、スペイン語、英語、ポルトガル語、カタラン語を話す。フランスやスペインを拠点としながら世界各地を取材。主な著書に、小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞した『卵子探しています 世界の不妊・生殖医療現場を訪ねて』など。

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(ジャーナリスト 宮下 洋一 写真提供・編集協力=小学館)