またしてもドナルド・トランプ米大統領がどうしようもない発言をしてしまいました。

 1月11日付のワシントン・ポスト紙は、超党派の米議員との移民受け入れ非公式協議の場で、アフリカやハイチ、エルサルバドルなどの国を指して

 「shithole countries」

 という表現を使ったことを報じています(参照=https://www.washingtonpost.com/politics/trump-attacks-protections-for-immigrants-from-shithole-countries-in-oval-office-meeting/2018/01/11/bfc0725c-f711-11e7-91af-31ac729add94_story.html?utm_term=.0fccad330c26)。

 邦訳された報道では「便所のような国」などと記されていましたが、「shithole countries」を直訳すれば「クソ溜め国家」になります。文脈を含めて確認してみましょう。

“Why are we having all these people from shithole countries come here?” Trump said, according to these people, referring to countries mentioned by the lawmakers.

(「なんでこんなクソ溜め国家からやって来る人間を受け入れるんだ?」とトランプは、これらの人々について、立法府議員たちが言及した国々にも言及しながら、発言した。)

 どれだけオフレコであろうと、一国の元首級の人物が、人の耳にする場で発現してよい限界を超えた素人の墓穴と言わねばなりません。

 いかにトランプといえども、現在は曲がりなりに超大国に責任を持つ立場です。あれを指して

“Why are we having this old fart from hole come here?”

(「なんで、この墓穴から這いずりあがってきたクソ爺を受け入れるんだ?」)

 などとは、そこそこ品位のある人であれば、口にしない。慎むものです。それができないのにはいくつか背景があると思われます。

 1つは老齢でタガが緩んでいる。地金が丸見えということでしょう。そしてもう1つ、その卑しい言葉を使う地金が、国の公の責任を持つという器に、全くなっていない。

 素人が、ピンポイントの目的、つまり営利や権力奪取、虚栄などでやっている。だから卑しいことになる。

 こういうものを「萎縮発想」と呼ぶ場合があります。今回は、萎縮発想では器は大きくならない、人は育たない現実を見ていきましょう。

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緊縮財政・萎縮発想

 国家財政が厳しい状態にあるとき、緊縮政策が採られる。仕方のないことだと思います。企業経営でも同様の対処を迫られる場合はあります。

 また逆に、最高収益が上がるといった「time and tide」がやってくることもある。いつもそうだといいのですが、なかなか思うに任せないのが世間というものでしょう。

 そんな業績が好調なときこそ、配当や新たな設備投資も大切と思いますが、それに加えて、イノベーション、基幹競争力強化や人材育成に、ぜひ力を注いでいただきたい。

 大学の営業で企業とお目にかかかる折、私たちはこのように繰り返しR&Dの大切さを説かせていただいています。

 こういうとき、明細のない大盤振る舞いを求めても、うまくいかないものです。

 従来の感覚では、東京大学のような組織にはこの部分が欠如しがちで、中身のない、ヒモもつかない「奨学寄附金」として5000万円、1億円といった金額を企業に無心し、およそ相手にしてもらえない、という時期が2015年頃まで続いたように思います。

 現在、大学では「産学協創」という新しい考え方で物事を進めています。

 少子高齢化に直面する国のバランスシートの先行きからして、高等教育・学術研究への予算配分は減少の一途をたどり、国立大学の文脈で記すなら「運営費交付金」は毎年削減され続けています。

 これを民間との協力で克服しようというとき、従来のような「産学協同」ではすでに立ち行かなくなっている。

 五神眞総長以下、東大の今後の経営展開を真剣に考えるメンバーの出した結論は「産学協創」、企業と大学が共に未来を作り出していきましょうという新しいモデルです。

 これを空文化しないよう、中身を詰める作業に、私自身も微力ながら毎日大学公務では努めています。

 そこで直面するのが「萎縮発想」と「展開発想」の対照です。

 あるミッションを遂げるうえで、最低限のものだけでよい。それ以外は極力切り捨てていくべしというのは、ときに人目には無駄のない経営指針とも映るでしょう。

 しかし、無駄がないということは余裕がないということでもあります。少しの変化があっても、そういう「スリム」な体制では、システム全体がダウンしてしまったりするリスクがあり得る。

 ロバストネス、堅牢性というのは、素人が見ると無駄とも映る「転ばぬ先の杖」が、全体のサステナブルな安定を保証している。このあたりを勘違いすると、非常に危険なことにもなりかねない。

 幾度か言及したことですが、1999年9月30日 茨城県東海村で発生したJCO臨界事故では、核燃料生成プロセスの一部に、クルーがバケツやひしゃくで硝酸ウラニル溶液を取り扱っていたことが事故後に判明しました。

 「ずさんな裏マニュアルによる作業工程」と報道されましたが、決して現場がずさんにしたばかりではありません。

 現実にどのような危険を伴う作業をしているか、全く理解しないコンサルタントによる「経営合理化」のアドバイスなどがあり、元来は二重三重に設けられていた安全策が、次々と「合理化」されたのです。

 最もスリム=紙の上ではよさげに見えて、その実危険そのものの状態での操業から、起きるべくして起きてしまった事故、というのが、実情であったようです。

 このような頭脳萎縮的とも言えるリスクを、大いに警戒する必要があると言わねばなりません。

 ドナルド・トランプ氏のような完全な公職素人老人が、衆愚投票の結果、政権中枢に入ってしまうという、米国史に残る事故にも、JCO事故と同様の構造を指摘できるように思います。

 すなわち、現実の外交の何たるか、それに向けての立法作業の詳細がいかなるものか、全く理解しないトランプ氏による「移民受け入れ」へのとんちんかんな反応が引き起こすアクシデントです。

 元来は二重三重に設けられていた外交上の安全策が、次々と「粗略化」され、最もナイーブ=素人目にはよさげに見えて、その実危険そのものの外交によって起きるべくして起きてしまうアクシデントにこそ、注意警戒しなければならないと思います。

 素人が玉座につき、愚かな言葉を発すると、当初は厳しい批判などがありますが、それが何となく許されてしまうと、世論の反応感度はどんどん落ちていきます。

 そのうちに「ああ、また**が何か言っているよ。ケッサクだね」程度、タブロイド紙の見出しをにぎわす程度になって、本来は恐るべきリスクであるのに、国民も国際社会もそれに慣れてしまう。

 その間、正味でリスク状況が進んでしまうと、気がついたときには取り返しのつかないことになっている危険性がある。

 1936-38年、歴史的成功のうちに幕を閉じたベルリン・オリンピック後のドイツ〜欧州で何が進んでしまったか(ナチスの諸政策が進んだわけですが:ホロコーストを含め)、同じ時期日本で何があったか(2.26「事件」と言いますが実質は内乱、クーデターです。その収拾・反動から翼賛体制があのような形で成立してしまった)。

 これに先立つ時期、一方で「大正デモクラシー」と言いつつ、他方で「エログロナンセンス」全盛でもあった、糜爛した社会に世界恐慌が襲いかかった結果、その後のカタストロフまでドミノ倒し的に進んでしまった。

 約90年前の事実から学べないのは、90年前の痛みを知る人がすでにこの世にほとんど生き残っておらず、学習しないのが老齢に達して、例えば米国では「shithole countries」などという、国を代表する資格を認めがたい、素人丸出しの発言を垂れ流しているわけです。

職人気質と玄人の愛情

 企業経営、あるいは政治、もっと言えば選挙などその際たるものですが「票が取れればよい」「利益が上がればよい」的なモノカルチャーに陥ると、人は簡単に萎縮発想的になります。

 脳萎縮などとあまり書きたくないのですが、そう考えていただくと分かりやすいでしょう。

 翻って、クリエイティブな科学者や芸術家を育てようとするときには、萎縮発想ではどうにもなりません。

 主体的な好奇心をもつ知的柔軟性に富んだ教育をすべきだし、そういうもので学生生徒の心を魅了し続けていくべき、とは、R.P.ファインマンの知性に惹かれて物理を学んだ私が、毎週の講義レッスンで登壇する、あらゆる局面で常に気をつける本質的なポイントです。

 そういうものとはまるで対局にある野心、例えば「ノーベル賞を獲りたい」と血道を上げる人を現実に目にしますが、そういう人がノーベル賞を取れるケースは1割もないでしょう。

 こうした話題については10年前の新書「日本にノーベル賞が来る理由」などにも記しました。10年経っても状況は何も変わりません。

 業績が上がるかどうかは、言ってみれば「運」で、ある確率で面白いものに行き当たった人がノーベル賞を貰っている。

 そういうこととは無関係に、あの人はいつノーベル賞を貰っても全くおかしくないという、本当に立派な碩学、大人物というのはちゃんとおられて、10年前はそのケースとして南部陽一郎先生のお名前を挙げたわけですが、すでに南部先生も鬼籍に入られてしまわれました。

 南部さんはノーベル賞級の業績を4つか5つ挙げておられ、40年前に貰っても50年前に貰わなくても何の不思議もなく、事実80代半ばでの受賞時「昔は来るかと思ってたけど、ここ20〜30年はもうどうでもよくなっていた」という意味のことを、幾度も語っておられました。

 「ノーベル賞を獲るために」何かする、というのは典型的な脳萎縮型の発想と言うべきで、そんなことを考えているうちは、およそ物事の本質には近づかない。

 ノーベル賞本を書いた直後、毎年のように韓国に呼ばれて「韓国がノーベル賞を獲るにはどうしたらいいか?」と尋ねられ、そのつど「そういう発想をしているうちは縁がないんじゃないですか?」と問い返し、全く理解されなかったのを思い出しました。

 ドナルド・トランプ氏は「大統領になりたくて」大統領になった、企業経営者で70歳を過ぎるまで脳萎縮型の経営に徹してきた老人ですから「shithole」は不思議でも何でもありませんが、こんなリスクをいつまでも放っておいては、本当に困ったことになりかねません。

 国際社会の良識ある層は、ジェントルな方法でこうしたリスクを回避する可能性を多々検討していると思います。

 実際にノーベル賞を獲られた方、あるいはノーベル賞のない分野でも、そのクラスの業績をコンスタントに、山のように上げている人は、例外なく「その分野が大好き」で、ともかく興味があるんですね。

 「有機合成化学の専門家」と人が見る、大サイエンティストが、実は無機にも物理にも物凄く通じていて、その発端は純粋な好奇心、といったことが、歴史を切り開く人たちの現実です。

 あの人は物理だ、あの人は無機化学だ・・・といった分別自体が、どこか利害にとらわれた萎縮発想の片鱗を見せているのに過ぎません。

 私が東大に着任してこの方、ずっとコミットしてきた「文理融合」も、その実、1人の学生・生徒が、世の中で「理系」とされることでも「文系」と考えられる対象でも、どちらもきちんと親身に考え、ゼロから組み立てて柔軟に展開できることを目指しています。

 真の意味でプロになる=トランプ氏みたいな素人で終わらないための第1は、対象に対する興味や注目、好奇心、さらには愛情、尊重尊敬でしょう。

 こういったことがあればこそ、細やかなことにも気がつき、その中である確率で行き当たった「主要業績」を、他人が勝手に何らかの賞にしてくれる。それだけのことです。

 少なくとも、外交というものにまじめな興味、好奇心や注目、愛情や尊敬とまで言わなくても、きちんと正視してものを考えている人からは「Shithole countries」といった言葉は、絶対に出てこないでしょう。

 ソ連が好きだろうと嫌いだろうと、ソ連をまじめに研究する人は、十派一からげに「クソ溜め」とは。普通絶対に言いません。そんな簡単なものではないと分かっているのだから・・・。

 つまり、中身を何も知らず、物事を安易に考える、素人の脳萎縮型の発想と発言・行動の短絡からのみ「shithole countries」のような罵詈雑言が出てくる。

 もっと言えば「ヘイト」全般の出発点は、短絡と思考停止の頭脳萎縮にあることに、落ち着いた大人の見識で、冷静な注意を払うべきだと思います。

筆者:伊東 乾