州大臣のスピーチなどが行われるような組織の記念式典でも、合間にカバレティストが登場(エアランゲン市)(筆者撮影)

年末に話題になったのが、お笑いコンビ「ウーマンラッシュアワー」の漫才。12月17日のフジテレビ系番組「THE MANZAI」に出演し、沖縄米軍基地、原発、震災、北朝鮮問題などを風刺した漫才を披露した。さらに同コンビの一人、村本大輔さんは元日にテレビ朝日系の「朝まで生テレビ!」に出演。尖閣諸島に関する発言などが物議を醸している。

一方、欧米のコメディにはもともと政治や社会、宗教といったものを風刺するお笑いが多い。ここにきて「こういう形で日本でも風刺はできる」ということを見せてくれたのがウーマンラッシュアワーではないだろうか。これまでも時事ネタ、政治ネタを得意とする「爆笑問題」や劇団「ザ・ニュースペーパー」の存在は知られたところだ。また日本の芸能史を遡ると権威を皮肉るようなネタを扱っていた者もいる。

ドイツにはご当地風刺芸人が存在する


地方ごとにカバレティストがいるのがドイツ。エアランゲン市の「ご当地」カバレティスト、カール・クラウスさん(筆者撮影)

しかし、全体的にいえば、そういう性質のお笑いはどうも日本には馴染みにくい。ウーマンラッシュアワーの風刺漫才に対する反応を見ても、賛同者が多い一方で、「アレルギー反応」と言ってもよいようなものさえ散見される。筆者が住む、ドイツの様子と比べながら、なぜ日本で風刺が馴染みにくいのか考えてみよう。

ドイツのお笑いといえば、「カバレット」と呼ばれるものが健在だ。話芸や歌、寸劇などを行うもので多分に風刺を含む。テレビでも政治や社会を皮肉るカバレット番組が放送されているが、同時にドイツ各地にカバレティストがおり、地方色を出している。私が住むドイツ中南部のエアランゲン市(人口約11万人)にもカール・クラウス=カールというご当地カバレティストがいて、町の書店では同氏のCDが売られ、市内のカバレット専用劇場にもよく出演している。

ところで風刺は社会においてどのような意味があるのだろうか。

原点としてよく紹介されるのが、中世の王家では道化師を召し抱えていたという話だ。道化師は主人を楽しませるだけではなく、風刺も行った。王侯貴族にとっては、風刺を通して自らの「まつりごと」について、本当の状態を知ろうとしたというものだ。

いいかえれば、道化師は権威者の状態や社会の真実を映す鏡とでもいえようか。カバレティストにもそんな面があるし、毎年2月にドイツで行われる伝統的なカーニバルでも、街の通りを練り歩く山車には政治や社会に対する皮肉や風刺を造形したものが多い。また「アリはなぜよく働くのか、それは労働組合がないからだ」といった類の風刺演説も行われる。

風刺はジャーナリズムの役割に似ている

社会を映す役割という点では、ジャーナリズムにも似ている。ジャーナリズムの定義は様々あるが、まず社会の事実を切り取る。さらにそれに対して解釈や価値付けを行う側面がある。

日本では記者の主観や意見を入れない「客観報道」が重視されるが、取材で得た事実をどう伝えるかは、程度の差こそあれ、記者や媒体のバイアスはかかる。むしろ事実はきちんとおさえつつ、それを多様な立場から解釈や価値付けがなされることに値打ちがある。そこには社会における問題や課題の提示があり、議論喚起につながる。いわば社会の「ツッコミ役」である。民主主義社会ではきわめて重要だ。

欧米の芸術家たちもジャーナリズムに似たものを持っていることが多い。彼らは記事ではなく、作品化を通じて問題提起にまで及ぶ。彼らもまた社会の「ツッコミ役」といえる。コメディによる風刺もそういう芸術の一分野と見ると説得力が増す。「地域のトレンドを映しだし、世界中の問題を地元の方言でお客さんに伝えることが仕事」(カール・クラウスさん)。


医療技術支援センターで行われたお笑い。医療の世界をおちょくっている(エアランゲン市)(筆者撮影)

もうひとつ考えなければならないのが、社会の「ツッコミ役」がドイツでは成立する理由だ。結論を急ぐと、風刺のお笑いを楽しむ客(国民)もまた「社会」への関心が高いという前提があるから、こういう芸が成り立つのだろう。

「社会」とは何かというと、複雑な議論がたくさんあるが、民主主義の国では、「人権」「自由」「平等」「寛容」などの諸概念でが覆われた場のようなもので、政治にも当然適用されている。さらに、こういう言葉は権力への抵抗とも伴走しており、その結果「社会とは自分だ」とでもいうイメージを持ちやすい。1960〜1970年代のドイツはカバレットが大いに盛り上がったそうだが、当時は学生運動が盛んな「政治の季節」だったからというのもうなずける。

そして今日でも人権や自由といった大きな概念が、ドイツの日常にわりと広範囲に入り込んでいる。たとえば学校教育でも、「ドイツの小学生が『デモの手順』を学ぶ理由」で触れたように、授業のカリキュラムの中に取り入れられている。

もちろん日本でもこういった諸概念は使われるが、日常で振りかざすと、大げさに聞こえる。「重い」「物騒」「青臭い」「めんどくさい」とさえ感じる人も少なくない。おそらく、これらの大きな概念は輸入されたものであるため、日常とかけはなれた「大きすぎる言葉」なのだ。さらに日本では権力への抵抗の歴史的体験がかなり少ない。そのせいか日本のお笑いに大きな概念は馴染まない。むしろ避けようとする。その結果、敷居の低い、気楽な娯楽として成り立つ。

だがウーマンラッシュアワーは大きな概念テーマに漫才を行った。ネガティブな意見の中には、「説教をされている気分」といったものも散見されるが、当然ともいえる。

裏を返せば、テレビのコントに同性愛者をデフォルメしたキャラクターや、顔を黒くペイントしてアフリカ系の人物を登場させるのも、お笑いに「平等」「人権」といった大きな概念が前提になっていないからだろう。だから欧米から人種差別だとの指摘をされてもピンときにくい。欧米にも人種ネタはあるが、逆に大きな概念を意識しながら風刺に転化しているのだと思う。


ひるがえって、会社などの組織でもそうだが、「ツッコミ」とは自律的な変革力の源泉でもある。これがないとダイナミズムを失う。私が住むエアランゲンのご当地カバレティスト、カール・クラウスさんは毎年地ビール会社によるイベントで芸を披露する。客は風刺を期待しているが、もっと優しいものを望んでいる。なぜなら、ここに集まる客は同市内のVIPで、風刺の対象だからだ。カール・クラウスさんによると観客の様子は「私を洗ってください。でも濡らさないでください」という雰囲気だと笑う。

カバレットのようなお笑いは、権威側にとっては歓迎されないこともあるが、同市のVIPたちを見ると、風刺の対象にされることを恐れつつも、「ツッコミ役」がいてこそ、社会の自律的な変革力があるという了解があるのかもしれない。カール・クラウスさんは、自身のような存在を「街では大切」とも述べる。

シャルリー・エブド紙襲撃への反応は当然だ

別の角度からいえば、欧米社会は「ツッコミ役」の排除・攻撃に敏感だ。2015年、風刺の強い「シャルリー・エブド紙」への襲撃事件が記憶に新しい。筆者は同紙の内容や、フランスでの受け止められ方に詳しくないが、ドイツでも同紙襲撃に対して、追悼集会などが行われた。


表現の自由の危機には敏感。2015年、フランスのシャルリー・エブド襲撃事件はドイツでもショッキングだった。(写真は同年末のフランステロに対するドイツでの集会、筆者撮影)

この反応は当然だろう。「表現の自由」の危機を想像するには十分な出来事であり、深読みすれば社会や権威に対する「ツッコミ役」排除につながるからではないだろうか。

以上のようなことから考えると、ウーマンラッシュアワーの漫才の登場は、日本がまだ「ツッコミ役」の居場所がある社会であることの証であり、社会の自律的な変革力の一端が表に出てきたとも解釈できる。さらに楽観的にいえば日本のデモクラシーの質が高まる予兆かもしれない。一方、ウーマンラッシュアワーが不当な理由で活動が継続できなくなった場合、社会の健全性について憂慮すべきかもしれない。

ところで、ドイツでは戦時中、多くのカバレティストが逃げ出したそうだ。なぜならカバレティストは迫害の対象になったからである。