『8年越しの花嫁』は安直な“メディア商品”ではないーー作り手たちが紡いだ愛のメタファーの反復

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 『8年越しの花嫁 奇跡の実話』のクリスマス&新春興行が絶好調である。TBS幹事の難病+結婚式ムービーとしては8年前に『余命1ヶ月の花嫁』がヒットしているが、こんどは『8年越しの花嫁』がヒットした。寅さんを喪失して久しい松竹あたりが正月向けに『花嫁』シリーズなんて始めないか心配だが、いずれも実話の重みがポイントになっており、そうそう乱造はできまい。じつは『余命1ヶ月の花嫁』も単に「泣ける」だけでなく、良作として評価すべきものだったのだが、今回の『8年越しの花嫁』は映画としての骨格がいっそう強固となり、切れのある快作となった。決して感動実話の安直なメディア商品ではない。

参考:実話に鮮明さを与える土屋太鳳の“笑顔”の効能ーー『8年越しの花嫁 奇跡の実話』の演技に寄せて

 タイトルじたいがすでに物語を明かしてしまっており、予告編でも謳われているように、結婚間近の女性・麻衣(土屋太鳳)が謎の奇病で昏睡状態となり、2年後に目を覚ます。8年越しの病との闘いの末に結婚式にこぎつけるまでの壮絶なストーリーである。一番の問題は、麻衣の意識が回復したとき、他のことはすべて思い出したにもかかわらず、ずっと看病してきた婚約者・尚志(佐藤健)のことだけは思い出せないという事実である。まるでご都合主義的なメロドラマのような危機の到来で、観客は通常なら「なんだ、この絵に描いたような展開は」とシナリオライターをなじることだろう。その驚きは本作の監督をつとめた瀬々敬久も同様だったようである。

「一番興味深かったのは、麻衣さんが目覚めた直後、尚志さんのことを覚えていなかったという点ですね。もしこれがフィクションの物語だとしたら、“そんなことある?”って一番疑ってしまうような部分が現実だったというところに、企画としての興味をそそられました」(公式パンフレットより)

 一見、荒唐無稽なメロドラマに見えて、じつは実話であるというねじれ。言い方は悪いが、観客は本作を観ているあいだ、このねじれの捕虜のような状態に置かれる。ごく普通のカップルが異常な危機に見舞われ、壮絶な戦いの末に立ち直り、やがて結婚式という大団円で終幕を迎える。まるで19世紀オペラのような大団円を、私たちはごく普通の人々の本当にあった営みとして受け取らねばならない。このギャップにたじろぎ続ける2時間が『8年越しの花嫁』を見るという体験である。昏睡中の麻衣は顔面が鬱血し、パンパンに浮腫んでいるが、麻衣を演じた土屋太鳳は、毎回4時間におよぶメイクアップをへた上で昏睡シーンにのぞんでいる。女優としてのリスクを度外視した意気込みが画面から伝わる。私たちはそれらの全要素をエンターテインメントとして受け取りつつ、そのみずからの行為を不作法だと恥じ入る。「ねじれの捕虜」だと述べたのはそういう意味においてである。

 麻衣が患った難病は「抗NMDA受容体脳炎」といい、卵巣の腫瘍に対して免疫反応でできた抗体が腫瘍だけではなく、健康な脳を冒していく病気だという。頭痛や風邪に似た症状で始まって、数日後には幻覚や幻聴などの精神症状が現れる。映画での土屋太鳳の壮絶な悶絶シーンは、異常な痙攣と精神錯乱を伴って演じられている。実在の麻衣さんが発症した2006年末当時、病名はまだついていなかった。発症者は最初、精神科を受診するが、悪魔祓いを考えるほど奇妙な症状に見舞われるという。「デジタル毎日」の医療レポートによれば、オカルト映画『エクソシスト』(1973)の主人公は、この病気の患者だったとされる。最近になってようやく治療法の研究が進みつつある。

 リハビリ中の麻衣が、尚志の記憶を取り戻そうと、母親(薬師丸ひろ子)と共に、彼との思い出の場所を訪ねてまわるシーンがある。ショッピングモール駐車場の水たまりとぬかるみの中を、麻衣の車椅子が進んでいく。このぬかるみの道行きこそ、彼女の困難と喪失した記憶の彷徨そのものである。本作の作者たちは、このようなメタファーを多用する。気が強く積極的、気丈夫な麻衣。シャイだが粘り強く、いったん決めたことは投げ出さない尚志。ーー人物たちをめぐるこうした性格付けを、作者たちは執拗に積み上げていく。映画のファーストシーン。合コンを一次会だけで帰ろうとする尚志を麻衣が呼び止めて、「つまらなくても大人の振舞いをしろ」と叱りつける場面。夜のアーケード街、そして路面電車というしつらえがあいまって、素晴らしい出会いのシーンとなった。彼女は、去りゆく彼の後ろ姿を追いかける。立ち止まる彼。口論。和解して、彼女が去る。彼は路面電車のホームへ。でも彼女が戻ってくる。路面電車に乗車して去る彼。見送る彼女。彼女に気づく彼。車窓から見えなくなる彼女。

 彼女はいったん去る。「じゃあ行くね」と言って、合コン二次会にひとり合流しようとする。しかしすぐに踵を返して戻ってくる。つまり、彼女は去り、そして戻ってくる人である。そして彼は待つ人である。そしてその後ろ姿を発見するのは、いったん去ってから戻ってくる彼女である。彼女は昏睡状態におちいって、彼との生活からいったん去る。2年が経過して目覚める。一方、彼は待つ。待ちながら携帯動画を撮影する。「彼女が目を覚ました時に笑えると思って」と照れながら。自動車修理工という尚志の職業が絶妙である。彼はこわれたもの、破損したもの、失われたものに対する並々ならぬ執着を抱いている。そしてそれを元に戻したいと常日頃から考えながら生きている。尚志を演じた佐藤健は、インタビューで次のように述べている。

「特に今回の作品はセリフとして聞こえたらダメだなと思ったんです。(中略)特に監督から言葉で指示はありませんでしたが、きっとその方がいいと監督も思われたんじゃないでしょうか。芝居であって芝居でないものを求められている感じがしましたね。面白かったのが本番をやったあと“どこがどうってことじゃないんですけど、もう1回”っておっしゃるんですよ。(中略)でもそれがありがたかったんです。“ここをこうしてくれ”って言われると、どうしても芝居になってしまう。今回はむしろ芝居をしちゃいけないくらいの気持ちでやっていたので、“とりあえずもう1回、尚志の人生を生きてみて”みたいな指示がすごくありがたくて。本当に力が抜けた状態で、何も考えずもう1回やってみる……そういうことの繰り返しでした」(公式パンフレットより)

 片道2時間の距離を病院へ毎朝訪れ、彼女の両親との関係も深めつつ、携帯動画で日々を記録する。こわれたものを修復したい、メンテナンスしたい。彼の、待つ人としての愛情はそんなふうに不器用に表現される。医者ではない彼にできることは、待つことと信じること、不断の微調整とメンテナンスーーつまり愛することである。島の崖っぷちに、ひとつだけ破損したブランコがある。彼はそれを見過ごせない。ブランコを修理する。そんな後ろ姿を追う人がいる。あの日の夜、腹痛に耐えかねて合コンを一次会で辞す青年を女性が追ってきて、ひとつの出会いが起こったように。こわれたブランコやバイクのメタファー。ショッピングモール駐車場のぬかるみ、彼のアパート前のぬかるみ。瀬戸内・岡山のおだやかな景観に見守られながら、愛のメタファーが執拗に反復され、オペラ的、祝祭的な大団円へとむかっていく。

 結婚式場の急な階段、小豆島のブランコのある絶壁、結婚を申し込む思い出の丘陵。ダイナミックな高低差をつくる地形は、本作にあってはいずれも幸運をもたらす空間的メタファーとなる。人は戻ってくる。高低差ある吉祥的な空間にむかって。「もういちど好きなる」と彼女は言った。最初の機会は失われても、もういちど新たにやり直しの船が来る。路面電車が来る。チャンスは一回であきらめてはならない。次の船が、次の電車が来ると信じて待つ。そしてそのあかつきに、有り得べき場所へと戻ろう。もういちど、新たに。そもそもこの映画じたいが、すでに撮られた実在の尚志さんによる携帯動画のリメイクなのであり、結婚式場がアップして閲覧者の感動を呼んだYouTube動画のリメイクとして再出発を図ったものではなかったか。彼女は彼のもとに戻る。夜のアーケードで、病室のベッドで、島の絶壁で。そして彼と彼女も映画の中へと回帰する。映画そのものも、愛の回帰としてあるのである。(荻野洋一)